《 サッカー人物伝 》 アルバロ・レコバ

スポンサーリンク

「左足の独奏者」 アルバロ・レコバ ( ウルグアイ )

スピードに乗った高速ドリブルと、左足から放たれる強烈なキックでその名を轟かせた。絶好調時には予測不能なプレーを連発し、「左足の独奏者」と呼ばれたのが、アルバロ・レコバ(Álvaro Alexander Recoba Rivero )だ。

東洋人のような風貌から「エル・チーノ(中国人)」の愛称を持つ、ウルグアイのファンタジスタ。ひとたび勢いに乗ると誰も止められないが、気分が乗らなければゲームから消えてしまう「天才肌」のプレイヤー。

ウルグアイ代表として特に実績を残したわけでもなく、長く在籍したインテルでも好不調の波が激しかったが、そのあまりにも強烈なプレーの記憶で世界的な人気を誇る選手となった。

欧州挑戦へのステップ

レコバは1976年3月17日、ウルグアイの首都モンテビデオで生まれた。元サッカー選手だった父親の手ほどきを受け、そのプレーセンスを磨いていったアルバロ少年は、16歳となる93年にFCダヌビオとプロ契約を結ぶ。

94年1月のデフェンソール戦でトップリーグ・デビュー。1年目で14試合に出場し、6ゴールを挙げて新人王に輝く。翌年には18歳にしてレギュラーの座を獲得し、早くも全国で注目される存在となった。

各クラブがこの有望選手の争奪戦を行う中、96年にはウルグアイの名門、ナシオナル・モンテビデオに移籍。同時にU-20代表にも選出される。

96年には強豪クラブにあって最優秀選手に輝くほどの活躍を見せると、その名が海外のクラブにも知られるようになり、97年の夏にはイタリアの名門、インテル・ミラノへ引き抜かれることになった。

衝撃のデビュー戦

21歳でのセリエA挑戦となったレコバだが、欧州ではまだまだ無名の存在。このときファンやマスコミの関心を集めていたのは、同時にインテルへ入団したブラジルのロナウドだった。

97-98シーズンの開幕戦となった8月31日のブレシア戦。初お披露目となったロナウドの活躍を期待して、サンシーロ・スタジアムに観客が詰めかけた。

だが試合はセリエAに昇格したばかりのブレシアが健闘、インテルの攻撃はことごとく抑えられてしまう。そして73分に失点を喫すると、スタジアムは嫌な空気に包まれた。

ベンチスタートだったレコバは70分に交代出場。ブレシアにリードされた79分、左サイドでボールを受けると左足を一閃、30mの距離から矢のような同点弾がゴール右隅に突き刺さった。

さらに終了間際の87分、インテルがゴール正面でFKのチャンスを獲得。やや距離はあったがレコバが得意の左足でボールを叩くと、シュートは鋭い弧を描いてゴールネットを揺らした。

まさに主役の座を奪うレコバの大活躍。昨日まで無名だったウルグアイの若者は逆転勝利の立役者となり、一気にインテリタのハートを鷲掴みにする。

さらに年が明けた98年1月のエンポリ戦、1点ビハインドという展開で、レコバは試合後半途中から投入。その82分、こぼれ球がハーフウェイライン付近にいたレコバの元に転がると、助走もなく左足を一振り、約50mの超ロングシュートが鮮やかにゴールへ飛び込んだ。

インテルの問題児

しかし97-98シーズンで記録したのは、結局この3得点のみ。25ゴールを記録したロナウドなど、インテル攻撃陣の厚い層に阻まれ、出場も僅か8試合に留まっていた。

難なく驚愕のプレーをやってのけるレコバだが、天才肌ならではのムラっ気で好調・不調の振れ幅が大きく、使いづらい選手とされてしまったのだ。

ベンチを温める日が続いたレコバは、インテルの首脳陣に移籍を志願。そんないきさつから彼は、98-99シーズン途中に残留争いの真っ只中にあったヴェネツィアへ、貸し出されることになった。

弱小クラブで攻撃の中心を任されたレコバは、19試合に出場して11ゴール9アシストとその本領を発揮。ヴェネツィアのセリエA残留に大きく貢献し、翌シーズンインテルへの復帰を果たす。ちなみにレコバの後釜としてヴェネツィアにやってきたのが、同じレフティの名波浩である。

インテルに復帰した99-00シーズン、序盤戦こそ控えに甘んじたが、11月にエースのロナウドが右膝靱帯損傷の大怪我でチームを離脱すると、レコバにチャンスが巡ってきた。このチャンスを生かして28試合出場10ゴールを記録、エースの穴を埋める活躍を見せた。

モラッティ会長の寵愛を受けたこともあり、00年にはチーム1の高給取りとなる。だが怪我の多さや、「走らない」「守らない」など、高額年俸に見合わない働きに批判の目が向けられることもあった。

そして01年の年明けにEU外選手の偽造パスポート疑惑が持ち上がり、レコバも不正にパスポートを取得した一人として嫌疑がかけられた。セリエAの外国人枠は3名。出場機会を得るため、偽の親戚をでっち上げてまで、イタリア国籍を取得する外国人枠の選手がいたのである。

この疑惑により、レコバは01-02シーズンで4ヶ月の出場停止処分を受けてしまう。一時は移籍も考えるが、フロントの説得とモラッティ会長の慰留により、チームに残ることになった。

代表でのキャリア

代表には95年1月に初選出。18日の親善試合、スペイン戦の65分にフランチェスコリと替って途中出場、代表初キャップを刻む。96年8月には代表メンバーとして来日。日本代表との親善試合で2得点を記録している。

97年のコパ・アメリカで国際大会デビュー。G/L敗退を喫するも、ベネズエラ戦で公式戦初ゴールを記録する。このまま代表の主力に定着するが、低迷期にあったウルグアイで芳しい成績を残せず、98年のWカップ・アメリカ大会出場を逃してしまう。

00年3月から始まったWカップ・南米予選でも苦戦を強いられるが、どうにか5位に滑り込んで、大陸間プレーオフ進出の権利を得る。そしてオーストラリアとのプレーオフを制し、3大会ぶりとなるWカップ出場を決める。

02年6月、Wカップ・日韓大会が開幕。ウルグアイは初戦でデンマークと戦ったが、トマソンに2得点を決められ1-2の敗北を喫する。ウルグアイはカウンターで攻撃を試みるも、サポートのないレコバが前線で孤立してしまう有様だった。

第2戦はジダン不在のフランスに0-0の引き分け、僅かな望みをかけて最終節のセネガル戦を迎える。試合は前半で3点をリードされるという苦しい展開になったが、後半モラレスとフォルランのゴールで1点差。終了直前の88分にはレコバがPKを沈め、3-3の引き分けに持ち込む。

それでも勝ち点でセネガルに及ばず、グループ3位に沈んだウルグアイはWカップ敗退となった。

インテリスタを魅了する男

02-03シーズン、長期出場停止処分の解けたレコバは27試合に出場して9ゴールを記録。インテルもセリエAで優勝争いを演じた。

02年9月のレッジーナ戦では、後半のロスタイムに中村俊輔のFKで1-1の同点とされるが、その直後、レコバが股抜きシュートで決勝点。同じレフティのファンタジスタが、俊輔のセリエA初ゴールを霞ませた。

サモラノ、ロナウド、ヴィエリ、クレスポといった大物ストライカーとのポジション争いを繰り広げながら、インテルの主力であり続けたレコバ。決してゴールの数は多くないが、見る者を愉しませるプレーはファンを魅了した。

だが03-04シーズンに実直なザッケローニが監督に就任すると、勤勉さに欠けるレコバは出場機会を減らしていく。04-05シーズンには指揮官がマンチーニに交代するが、彼の置かれた状況に変わりはなかった。

05-06シーズンは、「カルチョポリ・スキャンダル」によりインテルが繰り上げ優勝。翌06-07シーズンは圧倒的な強さでリーグを連覇する。しかし年齢による衰えもあり、18試合1得点の成績に終わってしまったレコバ。10年を過ごしたインテルから離れ、07-08シーズンにはトリノFCへレンタル移籍する。

長きにわたる選手生活

03年9月から始まった、Wカップ・南米予選はまたもや苦戦。大陸間プレーオフで再びオーストラリアと対戦するが、今度はPK戦で敗れてドイツWカップ出場を逃してしまう。

07年6月にはコパ・アメリカに出場。ウルグアイは準決勝まで進んだが、ブラジルにPK戦で負けて大会4位に終わる。このブラジル戦を最後に、レコバは31歳で代表を退いた。代表では69試合に出場、11得点を挙げている。

トリノFCでは1シーズンをプレー。シーズン終了後にはインテルとの契約も終了し、08-09シーズンはギリシャのパニオニオスに移籍する。

10年にはキャリアを始めたFCダヌビオと契約、11年には古巣のナシオナル・モンテビデオに復帰する。ここで控え要員ながら4シーズンを過ごし、15年10月に現役引退を表明。16年3月に行った引退記念試合を最後に、40歳で選手生活に終止符を打った。

現在はチャリティーマッチを行いながら、17年からはナシオナルの役員も務めている。

スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク




シェアする

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク