《 サッカー人物伝 》 ジョアン・アヴェランジェ

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「FIFAの妖怪」 ジョアン・アヴェランジェ ( ブラジル )

24年間にわたりFIFA会長の座に君臨し、サッカー界で大きな影響力を持ち続けた男が、ジョアン・アヴェランジェ( João Havelange )だ。

水泳のオリンピック代表選手として、スポーツ界のキャリアを開始。卓越したビジネス感覚と政治手腕で頭角を現し、非ヨーロッパ系として初のFIFA会長となる。またIOCの委員も長く務めた。

ユース年代や女子W杯などの各大会を創設、ビジネス化戦略を推し進めるなど、サッカーの普及・拡大に実績を残すが、過剰な利益誘導や組織の私物化には厳しい目が向けられ、晩年に不正疑惑で追求を受けることになった。

ビジネスの才を持つオリンピア

アヴェランジェは、1916年5月8日生まれのリオ・デ・ジャネイロ出身。父親はベルギーから移ってきたビジネスマンで、リオを拠点とした武器商人だったとされている。

父親はアヴェランジェが17歳のとき亡くなったが、家を継いだ息子はフランス留学ののち、フルミセンネ大学で法学位を取得、卒業後に弁護士となる。

だがその能力を発揮したのはビジネス界。バス会社の弁護士となったのをきっかに、経営にも参画。そのほか保険、鉄鋼会社の上級役員も務め、ビジネスマンとして成功を収めた。

また水泳も得意としており、180㎝を超える長身と長い手足で、ブラジルと南米の大会でチャンピオンに輝く。そして20歳の時に国の代表に選ばれ、1936年のベルリン・オリンピックでは競泳自由形の400mと1500mに出場する。

そのあとは水球選手に転向。所属した水球チームでも南米No,1となり、52年のヘルシンキ・オリンピックには36歳で出場した。

水球を続けながらスポーツクラブの役員を務め、ベルリン・オリンピックの翌年にクラブの水球責任者へ就任。56年にはメルボルン・オリンピックの選手団長としてブラジルを率いる。

その後も持ち前の政治手腕と経営センスで、水泳連盟会長、ブラジルオリンピック委員、ブラジルスポーツ連盟(CBD、現在のブラジルサッカー連盟)副会長とトントン拍子で出世、58年にはCBDの会長に選ばれる。

ワールドカップの成功

当時24の国内競技を束ねていたCBDだが、新会長が一番に力を注いだのは、この年にWカップ・スウェーデン大会を控ていたサッカーだった。

CBDはチーム強化のために専門スタッフを揃え、事前に欧州遠征を行うなど選手を長旅に慣れさせた。そして入念な調査を行ってキャンプ場を選定、チームを静かな環境に置くよう、滞在ホテルにも細心の注意が払われた。このプログラムをバックアップしたのが、アヴェランジェである。

その結果、ブラジルは悲願のW杯初優勝を成し遂げ、ペレという若いスターも誕生した。その後ブラジルは62年大会、70年大会と優勝。サッカー王国と呼ばれるようになり、アヴェランジェのスポーツ・ディレクターとしての名声は高まっていった。

63年には国際オリンピック委員会(IOC)のメンバーに選出。終身メンバーとしての扱いを受け、のちにIOC会長となるサマランチとともに、組織内で大きな力を持つことになる。

FIFA会長に就任

74年、国際サッカー連盟(FIFA)の会長選に立候補。13年間現職にある英国人、スタンリー・ラウス会長の再選が有力視されたが、アヴェランジェは豊富な選挙資金を使ってアジア・アフリカ諸国を歴訪。第三世界と言われた彼らにW杯出場枠の拡大を公約し、欧州以外の多くの支持を集めて、58歳で南米初のFIFA会長(第7代)に就任する。

従来のFIFAはアマチュア組織。欧州サッカー界の名士たちが、非営利目的で運営する団体だった。だが企業家のアヴェランジェは、アマチュア的運営からの脱却を図り、スポンサーから資金を集めて新しい事業の展開を試みる。

アヴェランジェ新会長は、アディダス社のホルスト・ダスラー会長に接近。さらにコカ・コーラ社ともスポンサー契約を結び、3者の協力で新事業を開拓する。当時のサッカー界にはすでに商業主義が浸透しつつあり、アヴェランジェの試みも時代の趨勢と言えるものだった。

77年には第1回「世界ユーストーナメント」をチュニジアで開催、別名「FIFA / コカ・コーラ杯」と呼ばれた。79年の第2回大会は日本で開かれ、マラドーナの活躍が話題となる。そして81年の第3回から正式名称が「世界ユース選手権(現、U-20ワールドカップ)」となった。

アヴェランジェの公約は、82年のスペイン大会から実現。出場枠は従来の16から24に増やされ、ホンジュラス、エルサルバドル(北中米カリブ海)、アルジェリア、カメルーン(アフリカ)、クウェート、ニュージーランド(アジア / オセアニア)の6ヶ国が初出場を果たす。

こうしてアヴェランジェは第三世界との絆を深め、さらに多くの支持を世界各国から取り付けるようになった。

81年、FIFAの事務局長にスイス人のジョゼフ・ブラッターが就任する。彼は新設された技術部のテクニカル・ディレクターとして、いわゆるサッカー後進国への後援・普及活動に手腕を発揮。その能力をアヴェランジェに買われ、45歳で組織No,2の事務局長に抜擢されたのだ。

ブラッターは5ヶ国語に通じる働き者で、ビジネスセンスも持ち合わす有能な人材。アヴェランジェの新事業展開にも理解を示し、その後も会長の右腕として重用される。

アヴェランジェのビジネス戦略

83年、次のWカップ開催国に決定していたコロンビアが、諸事情により開催権を返上。代替開催地として、アメリカ、カナダ、ブラジル、メキシコが名乗りを上げた。その中からFIFAが開催地に選んだのは、70年に大会を行ったばかりのメキシコ。アヴェランジェ会長の意向が強く働いての決定と言われている。

メキシコのテレビ放送局「テレビサ」のエミリオ・アスカラガ会長は、アヴェランジェの盟友。しかもアヴェランジェの持つ保険会社とも取引があった。さらに、メキシコサッカー連盟の前会長で、FIFAの副会長であるギジェルモ・カニェドは、「テレビサ」の重役を努めているというズブズブの関係だった。

テレビ・ビジネスのソフトとして大きな魅力を持つW杯中継で、事業拡大を図りたいアスカラガと、見返りを求めるアヴェランジェの思惑が一致。メキシコ大統領を説得して、86年大会の開催地が決まった。

その後も世界ユースに続き、世界ジュニアユース(U-17)、フットサル世界選手権、女子ワールドカップ、コンフェデレーションズカップと、FIFA主催大会をどんどん増やしていき、放送権料とスポンサーマネーを次々と獲得、FIFAの財政を強固なものにする。

事業は順調に進展していったが、功労者であるアヴェランジェの言動は独善性を帯びるようになる。絶対的権力を持つ会長は、潤沢となったFIFAの資金を湯水のように使い、愛人の美人職員を豪華マンションに囲って、その関係は隠すこともなく続けられた。

ペレ閉めだし事件

世界へのサッカービジネス拡大戦略を推し進めるアヴェランジェが、次に狙ったのはアメリカ合衆国。サッカー不毛の地と呼ばれるアメリカだが、世界有数のスポーツ大国であり、有力なスポンサーとなりうる多くの大企業を抱えるだけに、アヴェランジェの拡大戦略に欠かせない地域となっていた。

88年、チューリッヒで行われたFIFA理事会でWカップ・アメリカ大会の開催が決定。他にブラジルとモロッコも立候補していたが、アヴェランジェの意向が働いている以上、アメリカの選出は折り込み済みだった。

93年12月、アメリカ大会のグループ組み合わせ抽選会が、ラスベガスの会場で行われた。サッカー界の名士がプレゼンターとなり、抽選会を盛り上げるのが恒例となっていたが、その壇上に毎回のように登場していたペレの姿がなかった。

このときペレは、ブラジルサッカー協会の腐敗を雑誌のインタビューで批判。協会のリカルド・テイシェイラ会長から名誉毀損で訴えられていた。このテイシェイラ会長は、実はアヴェランジェの娘婿。サッカー界の大スターであっても、身内に刃向かう者を最高権力者は許さず、抽選会から閉め出したのだ。

当然マスコミからは疑問の声が上がったが、FIFA内部からアヴェランジェを批判する者は現れなかった。それほどまでに彼の権力は絶頂に達していたのだが、この事件で自身の対外的な信用を失うことになる。

権勢のかげり

94年にアメリカで行われたFIFA理事会で、78歳のアヴェランジェは6度目の会長選に立候補、W杯出場枠を24から32に増やす事を公約とした。いつものように無風選挙となるかと思えたが、現体制に反発する欧州グループから対立候補擁立の動きが出る。結局無競争で再選されるものの、この頃からアヴェランジェの権勢にかげりが見え始めた。

さらにこの会長選でアヴェランジェを悩ましたのは、81年からコンビを組んできたブラッター事務局長の動向だった。ほとんどの時期をリオで過ごしていたアヴェランジェは、FIFAの実務をチューリッヒの本部で働くブラッターに任せっぱなし。有能な事務局長は組織で大きな存在となっていた。

このことからブラッターが次期会長の有力候補と見なされるようになり、94年にアヴェランジェが引退すると聞かされていた彼は、自分にその座が禅譲されると思い込んでいた。だがアヴェランジェは続投を表明、その報を聞いたブラッターは大きな衝撃を受ける。

そのあとブラッターの立候補が噂され、二人の関係は信頼から不信へと変わっていく。再選後アヴェランジェは、独断的かつ大規模な人事異動を決行。ブラッターの影響力を削ぎに掛かった。

日韓の招致合戦とアヴェランジェの敗北

アメリカの次にアヴェランジェが狙ったのは、人口の多いアジア市場。「2002年W杯は、アジアで開催したい」というFIFA会長の発言を受けて、日本がいち早く立候補を表明した。

当初立候補を予定していた中国、サウジアラビアが招致を断念、すんなり日本開催が決定するかに思えた。だが93年に韓国が立候補の意思を表明、にわかに招致争いは激化の様相を見せ始める。

前年に大韓サッカー協会の会長に就任した鄭夢準は、韓国財閥「現代グループ」総帥の6男にして、将来の大統領の座も狙う野心的な人物だった。

94年、鄭夢準はアジアサッカー連盟(AFC)総会で行われたFIFA副会長選に当選。各大陸連盟とFA(英国協会)に一人ずつ与えられるFIFA副会長の職に就く。個人のポケットマネーをふんだんに使い、財閥企業を動員しての勝利だった。

アヴェランジェの意向は最初から日本支持。FIFAにコネを得た鄭夢準は、反体制側の欧州グループに接近、活発なロビー運動を開始する。招致活動では先行していた日本だが、その差はあっという間に縮んでいった。

しかし日韓の不毛な争いは、各国理事の不評を呼び、アヴェランジェも韓国への不快感を露にする。そんな折、Wカップの規定にない「共同開催案」が浮上。日韓の激突を憂慮したAFCからの提案だった。

国内インフラ整備の困難さを含め、行き詰まりを見せていた韓国側はこの提案に乗り、欧州グループと連携。次第に流れは「共同開催」に傾いていった。だが、アヴェランジェの力を信じていた日本は単独開催に固執、最後まで抵抗を行う。

しかし、相次ぐ信用失墜で第三世界の支持を失っていたアヴェランジェの権力は弱まっており、読み違った日本の戦略に綻びが生じる。

劣勢を悟ったアヴェランジェは、完全失脚を逃れるため「共同開催」を自らの提案として日本に提示。ここにきて日本はその提案を受け入れるしかなく、96年に開かれた理事会で、02年の日韓共催大会が満場一致により決定した。

浮上した賄賂疑惑

こうして体面を保ったアヴェランジェだが、任期限りでの退任を表明。98年に開かれた理事会を最後に、24年間努めたFIFA会長の座を離れた。

後任を決める会長戦は、ブラッター事務局長とヨハンソンUEFA会長の一騎打ち。06年W杯のアフリカ開催を約束したブラッターが、アフリカ理事の支持を集め、第8代FIFA会長に当選する。

ブラッター新会長は、アヴェランジェをFIFA名誉会長に推挙。一時関係が悪化した二人ではあるが、お互い負の側面をよく知る両者は、切っても切れない間柄だった。

01年、FIFAと深い関係を持っていたスポーツマーケティング会社、ISL社が経営破綻で倒産。ISL社は82年にアディダス社のダスラー会長と日本の電通が共同設立、Wカップやオリンピックのマーケティング権利を一手に引き受け、放送権の管理を行っていた会社である。

不透明な資金の流れが破綻の原因と考えたスイス検察局は、4年間にわたる調査を開始。その結果、ISL役員6人による詐欺、横領、文書偽造の容疑が発覚した。

さらにはこの調査で、ISLと密接な繋がりを持っていたアヴェランジェと、彼の娘婿であるテイシェイラFIFA理事(兼ブラジルサッカー協会会長)への、放送権を巡る賄賂疑惑も浮かび上がる。

権力者のたそがれ

この疑惑を受け、アヴェランジェが終身委員を努めるIOCの倫理委員会が調査を開始。追い込まれたアヴェランジェは、11年12月にIOC委員を辞職する。

13年4月には、FIFAの倫理委員会がISL社からの賄賂を認定する最終報告書を提出。アヴェランジェはFIFA名誉会長の職を辞し、娘婿のテイシェイラもすべての公職から身を引くことになった。

06年のWカップ開催国を決める理事会で、不可解ないきさつから有力候補の南アフリカが落選、逆転でドイツに決まった。ここに不正があったとして追求を受けたブラッターは、15年12月にFIFA倫理委員会より会長職を解任される。

晩年に肺炎を患って入退院を繰り返していたアヴェランジェは、16年8月16日、リオ市内の病院で死去。享年100歳だった。

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