《 サッカー人物伝 》 カール=ハインツ・ルンメニゲ

スポンサーリンク

「ミスター・ヨーロッパ」

カール=ハインツ・ルンメニゲ (西ドイツ)

強靱なフィジカルと豊かなスピードを持ち合わせ、ダイナミックな突破から相手ゴールを陥れた。ポスト・ベッケンバウアー世代として、バイエルン・ミュンヘンと西ドイツを支えたストライカーが、 カール=ハインツ・ルンメニゲ( Karl – Heinz Rummenigge )だ。

ブンデスリーガでは3度得点王を獲得。バイエルン・ミュンヘンの点取り屋として、チームに多くのタイトルをもたらす。そして80年、81年と2年連続でバロンドール賞に輝き、その顕著な活躍から「ミスター・ヨーロッパ」と称えられた。

西ドイツ代表の主力として、80年欧州選手権優勝の立役者となるが、Wカップでは2大会連続して決勝で涙を飲んだ。引退後はバイエルン・ミュンヘンの役職を歴任、現在はクラブCEOの重責を努めている。

バイエルン・ミュンヘンの若き主砲

カール=ハインツ・ルンメニゲは1955年9月25日、西ドイツのリップシュタットに生まれた。父親はボルシア・リップシュタットで活躍したサッカー選手。その熱意はカール=ハインツら3人の息子に受け継がれた。

次男のカール=ハインツは、8歳でボルシア・リップシュタットの下部組織に加入。32-0と圧勝したあるジュニアの試合では、彼一人で16ゴールを記録し、将来有望なFWとして注目されるようになった。

その才能が認められ、18歳となった74年に強豪バイエルン・ミュンヘンと契約する。そのときバイエルンの監督を務めていたのが、デッドマール・クラマー。ルンメニゲはドイツ屈指の名指導者に育てられ、一流となるための心構えを学んでいった。

74年9月のカップ戦でプロ初ゴールを記録。リーグ第4節の1.FCケルン戦で、ブンデスリーガ初ゴールを決めている。

74-75シーズン、右ウィンガーとして起用されたルンメニゲは、21試合に出場して5得点を記録。ベッケンバウアーゲルト・ミュラーといったW杯優勝メンバーに揉まれながら、新人としてまずまずの成績を残した。

75年5月、バイエルンがチャンピオンズカップの決勝へ進出。イングランドのリーズ・ユナイテッドを2-0と下して、2年連続のヨーロッパチャンピオンに輝く。決勝でルンメニゲの出番は無かったが、準決勝までのいくつかの試合で出場を果たす。

翌75-76シーズン、32試合に出場して8ゴールを記録。ウィンガーとしてレギュラーの座を獲得する。75年5月、バイエルンはチャンピオンズカップの決勝でフランスのサンテティエンヌを1-0と破り、大会3連覇を達成。21歳のルンメニゲも、攻撃の主力として優勝に貢献する。

初めてのワールドカップ

76年10月6日のウェールズ戦でフル代表デビュー、77年10月のイタリア戦で代表初ゴールを挙げる。そしてそのまま代表に定着し、78年のWカップ・アルゼンチン大会への出場を果たした。

初戦のポーランド戦は出番がなかったが、次のメキシコ戦で大会初出場、2点を挙げる活躍で6-0の勝利に貢献した。最終節のチュニジア戦も先発で起用され、代表レギュラーの座を獲得する。

1勝2分けの西ドイツは、グループ2位で2次リーグに進出。初戦はイタリアの猛攻を受けるが、守護神ゼップ・マイヤーの好守で失点を防ぎ、スコアレスドローとなった。

第2戦は、前大会の決勝で戦ったオランダとの試合。ゲームは開始から白熱した展開となったが、両者譲らず2-2の引き分けで終わる。

最終節はオーストリアとの戦い。前半19分にルンメニゲの得点でリードするも、後半に信じられない失点が続き2-3の逆転負け。西ドイツ2大会連続の決勝進出はならなかった。

「ミスター・ヨーロッパ」の誕生

抜群の突破力と得点力を持ち、ダイナミックなプレーを見せるルンメニゲは、ウィングからCFにポジションを移し、バイエルンに復帰したパウル・ブライトナーとのホットラインで得点を量産し始める。

78-79シーズンは34試合で14ゴールを記録、力の衰えたゲルト・ミュラーに代わり、チームのトップスコアラーとなった。79-80シーズンは26ゴールで初のリーグ得点王、翌80-81シーズンも29ゴールを挙げて連続得点王に輝き、バイエルンのリーグ2連覇に大きく貢献する。

80年6月、イタリアで開催された欧州選手権に出場。G/L初戦の相手は、前大会王者のチェコスロバキアとの戦いだった。接戦となったゲームは、57分にルンメニゲが決勝点を挙げ、4年前の決勝で惜敗(PK戦負け)した雪辱を果たす。

第2戦は、宿敵となったオランダとの対戦。この試合、新鋭ベルント・シュスターのゲームメイクが冴え、アフロスのハットトリックを演出。オランダの猛追撃をかわし、3-2の勝利を収める。

最終節のギリシャ戦は主力を温存。0-0と引き分けてグループ1位となり、決勝戦に勝ち上がる。決勝はG/Lで強豪イタリア、イングランドに競り勝った伏兵ベルギーとの対戦になった。

開始10分にルベッシュのゴールで西ドイツが先制。だが後半の72分にPKを与えてしまい、1-1の同点に追いつかれてしまう。延長が見えてきた終盤の88分、ルンメニゲの蹴ったCKをルベッシュが合せて決勝弾。西ドイツが2度目の欧州チャンピオンに輝いた。

81-82シーズンは、DFBポカール(ドイツカップ)決勝で1得点1アシストを記録し、優勝に貢献。こうしたクラブと代表の活躍で「ミスター・ヨーロッパ」と呼ばれるようになったルンメニゲは、2年連続のバロンドール賞に輝く。

ワールドカップ・スペイン大会

82年6月、ルンメニゲは代表キャプテンとしてWカップ・スペイン大会に出場。1次リーグ初戦の相手は初出場のアルジェリア。開始から猛攻を仕掛ける西ドイツだが、好機を逃すうち後半の54分に思わぬ失点を喫する。

67分にルンメニゲの同点弾で1-1と追いつくが、その僅か1分後、アルジェリアの鮮やかな右サイド攻撃から決勝点を奪われ1-2の敗戦。アフリカの新興国に金星を献上してしまう。

出鼻を挫かれた西ドイツだが、次のチリ戦はルンメニゲのハットトリックで4-1の快勝。最終節、ヒホンで行われたオーストリア戦は、両者が談合したかのような無気力試合(『ヒホンの恥』と批判された)。1-0と勝利した西ドイツがグループ1位で2次リーグに進む。

2次リーグの初戦はイングランド相手に0-0の引き分け、第2戦はスペインを2-1と打ち破り、ベスト4に勝ち上がる。だがこのスペイン戦でルンメニゲがハムストリングを痛め、準決勝のフランス戦は先発を外れてしまう。

フランス戦の激闘

プラティニ擁するフランスとの戦いは、歴史に残る激闘となった。前半17分、リトバルスキーのゴールで先制。だがその5分後、ジレスが倒されて得たPKをプラティニが決め、試合は振り出しに戻る。

ゲームは1-1のまま90分を過ぎ、延長戦に突入。延長が開始されたばかりの92分、ジレスのFKからトレゾールがボレーを叩き込み、フランスが勝ち越し。1点をリードされた西ドイツは96分にルンメニゲを投入するが、その2分後にもプラティニのお膳立てからジレスの追加点が生まれ、勝負は決まったかに思えた。

だがここからが「ゲルマン魂」の見せどころ。102分、リトバルスキーのクロスにルンメニゲが反応。足の痛みをこらえて突進し、ニアで合せて1点差とする。さらに108分、リトバルスキーのクロスをルベッシュがヘッドで折り返し。それをフィッシャーがオーバーヘッドで決め、ついに西ドイツが追いついた。

勝負はWカップ史上初のPK戦に持ち込まれ、守護神シューマッハがフランスの2人を止めて西ドイツが勝利、2大会ぶりの決勝へ進む。

決勝の相手はイタリア。ルンメニゲは足の故障を押して、先発出場を果たす。しかし完全回復にはほど遠い状態で、開始4分の決定機を外すと、後はベルゴミのマークの前に沈黙してしまう。

57分、パオロ・ロッシのゴールでイタリアが先制。精彩を欠くルンメニゲは、65分に交代となってしまった。勢いを失った西ドイツは1-3の完敗、大会3度目の優勝に届かなかった。

それでも5得点の活躍でチームを準優勝に導いたルンメニゲは、個人賞の3位(ブロンズボール賞)に選ばれている。

インテルへの移籍

82-83シーズンには、カール=ハインツ9歳下の弟・ミヒャエルがバイエルンでプロデビュー。翌83-84シーズンのブレーメン戦では、ルンメニゲ兄弟が揃ってゴールを挙げている。

ミヒャエルは88年までバイエルンに所属。そのあとボルシア・ドルトムントに移籍し、93年には始まったばかりのJリーグ・浦和レッズでもプレーしている。(96年に引退)

83-84シーズン、ルンメニゲは26ゴールを記録して3度目の得点王を獲得。リーグ優勝とDFBポカール制覇の2冠達成に大きな役割を果たす。

そしてルンメニゲはこのタイトルを置き土産に、キャリアを始めたバイエルンを離れてイタリアのインテル・ミラノに移籍することになった。

ちなみにルンメニゲの移籍には、当時2番目となる高額の移籍金(最高額はバルセロナからナポリに移籍したマラドーナ)が動いている。

10シーズンを過ごしたバイエルンでは、公式戦422試合に出場、217ゴールの記録を残した。これはゲルト・ミュラーとレバンドフスキーに続く、クラブ歴代3番目のゴール数となっている。

ワールドカップ・メキシコ大会

84年6月、フランスで行われた欧州選手権に出場。前大会王者の西ドイツは、地元フランスに続く優勝候補とみられていたが、1勝1敗1分けの3位でG/L敗退を喫してしまう。

この失態を受け、ベッケンバウアーが新監督に就任。チームの立て直しは西ドイツの英雄に託された。

86年5月、Wカップ・メキシコ大会が開幕。しか足に故障を抱えていたルンメニゲは先発を外れ、G/Lのプレーは後半途中から出場した2試合に留まった。

トーナメント1回戦のモロッコ戦で先発復帰。高い個人技を誇る相手に西ドイツは苦戦するが、終盤にマテウスのFKが決まって1-0の辛勝を収める。

準々決勝は地元メキシコとの戦い。64分に西ドイツDFのベルトルトが一発退場、数的不利を強いられるが、どうにか持ちこたえて延長戦に持ち込む。

延長の100分にメキシコFWアギーレ(のち日本代表監督)が2枚目のイエローで退場処分。西ドイツが優勢を強めるが、スコアレスのまま延長の120分を終了し、勝負はPK戦で決まることになった。

PK戦では守護神シューマッハがメキシコの2人を止め、西ドイツが準決勝に勝ち上がる。先発したルンメニゲは前半43分の得点機に絡むも、足の故障を考慮し58分に交代となっている。

代表最後の試合

準決勝は、前大会の再現となるフランスとの対戦だった。開始9分、ルンメニゲがPエリア近くで倒され、西ドイツがFKのチャンスを獲得。マガトのワンタッチからブレーメが左足を一閃、強烈なキックはGKバツのキャッチミスを誘い、西ドイツが先制する。

プラティニが反撃を試みて前線に張り付くも、間延びした中盤を西ドイツが制圧。58分にはルンメニゲに替わってフェラーが投入される。

終了直前の89分、焦って前掛かりになるフランスの逆を突き、フェラーがカウンターから追加点。2-0と勝負は決した。

決勝の相手はマラドーナ率いるアルゼンチン。前半23分、マテウスがマラドーナを倒し、アルゼンチンがFKのチャンス、そこから先制点を許してしまう。さらに後半に入った55分、マラドーナの展開からアルゼンチンが追加点、西ドイツは窮地に追い込まれた。

だが追い込まれてからが、西ドイツの本領発揮。74分、ブレーメの左CKをフェラーが頭で流し、滑り込んだルンメニゲが1点を返す。その6分後、再びブレーメの左CKからフェラーが頭で決め、ついに2-2の同点とする。

勢いのまま逆転を狙う西ドイツだが、83分、DF裏に空いたスペースを見逃さなかったマラドーナが必殺のスルーパス。抜け出たブルチャガが決勝点を挙げる。

こうして3-2と敗れた西ドイツは、2大会連続の準優勝。ルンメニゲはこの決勝戦を最後に、代表を退く。11年の代表歴で95試合に出場、45ゴールの記録を残した。このうち51試合でキャプテンを務めている。

バイエルン・ミュンヘンのCEO

鳴り物入りで移籍したインテルでは故障に悩まされ、期待された成績を残せずに終わってしまった。イタリアで3年を過ごした後、87年にスイスのセルヴェットFCに移籍し、88-89シーズンには24ゴールを挙げてスイスリーグ得点王となる。

そしてシーズン終了後の89年夏、33歳のルンメニゲは「15年間もサッカー選手としてプレー出来たから、もう思い残すことがない」の言葉とともに現役引退を発表する。

ピッチでのプレーに専念し、正しい言動と自制心を持ち合わす堅実さで、大スターでありながらスキャンダルとは無縁だったルンメニゲ。引退後ドイツ公共放送連盟の解説者を務めたあと、91年に副会長としてバイエルン・ミュンヘンに復帰する。

02年からバイエルンのCEOに就任。同時にドイツサッカー協会の理事や、欧州クラブ連合の会長を務めるなど忙しい日々を送っている。

21年4月にはビッグクラブによる欧州スーパーリーグ(ESL)構想が発表されるが、バイエルンのルンメニゲCEOはきっぱりと不参加を表明。各方面の批判を浴びたESL構想は、僅か48時間で瓦解していった。

スポンサーリンク
スポンサーリンク




スポンサーリンク




シェアする

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク