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《 サッカー人物伝 》 ロベルト・リベリーノ

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「 口髭の魔術師 」 ロベルト・リベリーノ ( ブラジル )

左足の強く正確なキックと鋭いフェイントでチャンスを演出し、多くの得点も挙げた。特にフリーキックからの強烈なシュートは相手GKの脅威となり、「左足の魔術師」と呼ばれたのがロベルト・リベリーノ( Roberto Rivelino )だ。

史上最強と言われた70年Wカップ・メキシコ大会の優勝メンバー。左ウィング兼MFとして攻撃のキーマンとなり、優勝に大きな役割を果たした。大会後ペレが代表を退いたあとは、栄光の10番を引き継ぐ。

分厚い口髭が特徴。足に吸い付くようなフェイント技「エラシコ」の切れ味は抜群で、ロナウジーニョなど多くのプレイヤーにコピーされた。

「エラシコ」の誕生

リベリーノは1946年1月1日、ブラジル最大の都市・サンパウロで、イタリア移民の子として生まれた。幼少の頃から母親に「いいかげん家に入りなさい」と怒られるほどサッカーにのめり込み、大半の時間をストリートサッカーに費やす。

12歳の時にサンパウロのテストを受けてみるも、不合格。その後フットサルコートで足技を磨き、狭いスペースでのプレーを会得していく。

62年、CAバルセロナのフットサルチームに入団。その後フットサルユース選手権・決勝での活躍が認められ、サンパウロの名門コリンチャンスにスカウトされている。

ユースチームでも才能を見せ、64年にトップチームへ昇格。このとき昇格した4人の中に、日系人選手セルジオ越後の姿もあった。

ある日の紅白戦、一瞬のツータッチで抜き去るセルジオ越後のフェイント技を目撃。目の前で起きたことを理解できずに、「なに、なに?」と驚くリベリーノ。その動きがとても気に入り、セルジオに習って自分のレパートリーに取り入れた。

「エラシコ(輪ゴムの意味。別名フリップ・フラップ)」と呼ばれるようになるそのフェイントは、ガリンシャとペレの動きをヒントにしてセルジオが編み出した技。それをさらにリベリーノが発展させ、70年のWカップで世界にお披露目されることになる。

リベリーノの「エラシコ」は、のちにロナウジーニョも得意とするが、ロナウド、イブラヒモビッチ、C・ロナウドらも、このフェイント技の使い手になっている。

コリンチャンスの小王

65年1月、レシフェのサンタ・クルスとの試合でプロデビュー。さっそく初ゴールを記録し、3-0の勝利に貢献する。同年の11月には19歳でブラジル代表に招集され、25日のハンガリー戦で初キャップを刻んでいる。

正確なロングパスやロングシュート、大砲のようなFK、切れ味鋭いドリブルを駆使するリベリーノは、すぐにコリンチャンスの人気選手となり、「公園の小王」と呼ばれるようになる。

“公園” とは、コリンチャンスのグラウンドがある「サンジョルジュ公園」のこと。“小王” は、同じサンパウロにあるサントスFCの大スター、ペレに敬意を表した称号である。

しかし、この時期のコリンチャンスは長い低迷期の真っ只中で、リベリーノの活躍があってもタイトルを手にすることは無かった。

史上最強の攻撃陣

70年、Wカップ・メキシコ大会が開幕。すでに代表の主力となっていた24歳のリベリーノもメンバーに選ばれ、大会初出場を果たす。

ペレ、トスタン、ジャイルジーニョ、ジェルソンといった攻撃のタレントが揃うチームの中で、リベリーノに与えられたのは左ウィングのポジション。

本来トップ下でゲームメーカーを務めるリベリーノだが、左ウィングに回ることで役割の被るジェルソンとの併用が可能となり、彼自身の負担を減らすことにもなった。

こうしてリベリーノは左サイドからチャンスをつくり、ときにはMFにポジションを移して得点を狙っていったのである。

1次リーグの初戦はチェコスロバキアと対戦。開始11分にチェコのエース、ペトラーシュの先制弾を許すが、24分、リベリーノの稲妻のようなFKが決まって同点とする。後半の59分、ペレのゴールが決まって逆転、そのあとジャイルジーニョが2得点を挙げ、4-1の完勝を収める。

第2戦は前大会王者、イングランドとの戦い、1次リーグ最大の注目カードとなった。この試合、ジェルソンが負傷で欠場。代わりに起用されたパウロ・セザールが左ウィングに入り、リベリーノは本来の左MFとしてプレーする。

イングランドの堅い守備に阻まれ前半を0-0と折り返すが、後半の59分、トスタンのドリブル突破からペレにボールが渡り、撃つかと見せかけて横へ流す。そこへ走り込んだジャイルジーニョが蹴り込み、ブラジルの決勝点が生まれて強豪対決を制した。

2連勝となったブラジルは、最終節のルーマニア戦でリベリーノを温存。それでもペレの2ゴールで3-2の勝利を収め、グループ1位で準々決勝へ進んだ。

ブラジル 3度目の優勝

準々決勝の対戦相手はチリ。開始11分、トスタンのパスからリベリーノが左足一閃。強烈な先制弾を叩き込む。さらに4分後、トスタンが華麗な足技で相手キーパーの体勢を崩し、追加点を決めた。

28分に1点返されるも、後半の52分、ペレのロングシュートをトスタンが触って3点目。反撃に出たペルーはクビジャスのミドルシュートで追いすがるが、75分にジャイルジーニョの追加点が決まって4-2の勝利を収める。

準決勝は南米のライバル、ウルグアイとの戦い。Wカップでは、50年大会「マラカナンの悲劇」以来という因縁の顔合わせだった。

前半19分、ウルグアイのクビジャに角度のないところから決められ、先制を許してしまう。ブラジルは守りを固めるDFに手こずるが、前半終了直前、トスタンのパスに走り込んだクロドアウドが同点とする。

ここからブラジルは本来の攻撃力を発揮。後半の76分にジャイルジーニョが勝ち越し点を決めると、後半終了直前の89分、ペレのパスを受けたリベリーノが目の覚めるような一撃でとどめを刺した。

こうしてブラジルが2大会ぶりに決勝へ進出。決勝の相手は、ともに大会3度目の優勝を狙うイタリアとの対戦になった。

イタリアペースで試合は始まるが、前半18分、リベリーノの上げたクロスを、ペレがDFに競り勝ってヘディングシュート。ブラジルが先制する。だが37分、クロドアウドが不用意なヒールパス、ボニンセーニャにさらわれ同点とされてしまう。

後半に入ると完全なブラジルペース。66分にジェルソンのゴールで勝ち越すと、70分にはジェルソンからのFKをペレが頭で落とし、それをジャイルジーニョが決めて突き放す。

試合終了直前の86分、ジャイルジーニョのパスからペレが右サイドにボールを流すと、猛然と走り込んできたカルロス・アウベウトが弾丸シュートを叩き込んだ。

こうしてブラジルが7戦全勝で3度目の優勝を達成、ジュール・リメ杯の永久保持が許される。大会終了後、ペレが代表を引退。リベリーノが栄光の10番を引き継ぐことになった。

針の穴を通すフリーキック

74年6月、リベリーノは2度目となるWカップ・西ドイツ大会に出場。ブラジルはペレやカルロス・アウベウトらが抜けただけでなく、トスタン、ジェルソン、クロドアウドといったW杯優勝メンバーも怪我で欠き、自慢の攻撃力は弱体化していた。

1次リーグ初戦、ユーゴスラビア戦を無得点で引き分けると、次のスコットランド戦もスコアレスドローと沈黙。最終節のザイール(現、コンゴ)をリベリーノのゴールで3-0と下し、ようやくグループ2位で2次リーグに進む。

2次リーグの初戦は東ドイツとの対戦。0-0で折り返した後半の60分、ゴールほぼ正面にブラジルFKのチャンスを得る。長い助走からリベリーノが左足を振り抜くと、東ドイツの壁に空いた僅かな隙間を通り抜け、ボールはネットに突き刺さった。

東ドイツの壁に穴を空けたのはジャイルジーニョ。相手の6人が並ぶ壁に割り込み、ボールが蹴られた瞬間しゃがんで、シュートが通る穴をつくったのだ。キーパーが一歩も動けない、鮮やかなFKだった。

この得点を守り切って1-0の勝利。第2戦は宿敵アルゼンチンとの対戦、Wカップでは初顔合わせだった。前半32分にリベリーノのゴールで先制。その3分後にアルゼンチンのFKで追いつかれてしまうが、後半49分にジャイルジーニョが決勝点を決めて南米対決を制する。

決勝進出を懸けた最終節は、大会に「オレンジ旋風」を巻き起こしたオランダとの試合。両チーム無得点で迎えた後半の50分、クライフのパスを受けたニースケンスが振り向きざまのシュート、ブラジルは先制点を奪われる。

さらに65分、クロルの放ったクロスにクライフが飛び込んでのボレーシュート、リードを2点に広げられてしまった。このあとブラジルの反撃も及ばず0-2の敗戦、両チームの勢いの差が現れた順当な結果だった。

3位決定戦に廻ったブラジルだが、ポーランドに0-1と敗れて大会4位に終わる。4年前とあまりに違う王国の姿は、詰めかけた観客をがっかりさせた。

コリンチャンスからパルメイラスへ

20年間サンパウロ州選手権のタイトルから遠ざかっていたコリンチャンスだが、74年は久々に優勝争いを演じる。そしてついにコリンチャンスは優勝決定戦にまで進み、ライバルであるパルメイラスとの大一番を迎えた。

優勝決定戦の第1レグは1-1の引き分け。第2レグも接戦となるが、後半69分に決勝点を奪われ、悲願の優勝を逃してしまう。

これに怒ったサポーターの戦犯捜しが始まり、クラブ幹部は、チーム1の高給取りであったリベリーノに責任を押しつける。

リベリーノは「どれほど私がコリンチャンスで優勝したかったか、神のみぞ知る・・」とサポーターやクラブの態度に失望。75年にはチームを去り、リオ・デ・ジャネイロのフルミネンセへ移籍する。コリンチャンスには10年間在籍。471試合に出場、141ゴールを挙げている。

フルミネンセへ移籍したリベリーノは大奮起。チームの攻撃を担う中心選手となり、75年、76年のリオ州選手権連覇に貢献する。

カルロス・アウベウト、ドバール、ピンティーニョ、ギルといった優秀なタレントを擁したチームは、ユニフォームの色にちなんで「マキノ・トリコロール(三色の機械)」と呼ばれ、中心選手のリベリーノも「アトミック・キック」の持ち主として絶大な人気を誇るようになった。

最後のワールドカップ

78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。32歳となったリベリーノも3度目の出場を果たす。1次リーグ初戦のスェーデン戦はキャプテンを務め、試合は1-1と引き分ける。

しかし足を負傷し第2戦、第3戦は欠場。世代交代期にあったブラジルの戦いも低調で、1次リーグの3試合で僅か2得点。辛うじて2位を確保し、2次リーグに進む。

故障の癒えないリベリーノは、2次リーグ初戦のペルー戦と第2戦のアルゼンチン戦も欠場。最終節のポーランド戦で終盤の78分から出場する。

2次リーグは開催国のアルゼンチンが決勝へ進出、ブラジルは3位決定戦に廻る。3位決定戦のイタリア戦で、リベリーノが6試合ぶりの先発復帰を果たす。

ゲームはブラジルが2-1の勝利を収め、大会3位。64分で退いたリベリーノは、この試合を最後に代表引退を表明する。リベリーノの背負った10番は、若手のホープ、ジーコに引き継がれることになった。13年間の代表歴で133試合に出場、43ゴールの記録を残している。

清水エスパルス監督

78年、フルミセンネを退団し、サウジアラビアのアル・ヒラルへ移籍。アル・ヒラルでは3シーズン在籍。リーグ2連覇と国王杯制覇に貢献し、82年に36歳で現役を引退する。

引退後はサッカーのコメンテーターを務めながら、指導者の道を目指した。94年にはコリンチャンスの同僚だったセルジオ越後の仲介で、セカンドステージから清水エスパルスの監督に就任する。

エスパルスでは、若手の澤登正朗にFKを教えるなど技術指導に力を入れるが、チーム成績は11勝11敗と勢いに乗れないまま、半年で退任となっている。

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