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マルクス兄弟「我が輩はカモである」

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マルクス兄弟の最高傑作

1933年公開の『我が輩はカモである』は、マルクス兄弟主演の喜劇映画でナンセンス・コメディの最高傑作。そのシュールでアナーキーな笑いは、もはや喜劇というより前衛作品といった趣きだ。

『チャップリンの独裁者』より7年も前に、当時台頭してきたヒトラーを風刺。第二次世界大戦を暗示した内容の先見性と社会性も、後に高い評価を受ける。

監督は『我が道を往く』(44年)『めぐり逢い』(57年)のレオ・マッケリー。製作はハーマン・J・マンキーウィッツ(ノンクレジット)。マンキーウィッツは『市民ケーン』(41年)の脚本家として知られ、今年のアカデミー作品賞にノミネートされた『Mank / マンク』(デヴィッド・フィンチャー監督)のモデルにもなった。

笑いの洪水

マルクス兄弟とは、ヴォードヴィル出身の実の兄弟によるコメディアン一座。チコ、ハーポ、グラウチョ、ガモ、ゼッポの5人がいる。

その中で『我が輩はカモである』で活躍するのは、チコ、ハーポ、グラウチョの3人。長男チコがイタリア訛りのピアノ演奏者、次男ハーポが全く喋らない赤毛のハープ奏者、三男のグラウチョがインク髭の口達者というキャラクターを演じる。

物語の舞台は架空の国フリードニア共和国。財政難にあえぐ中、大富豪のティーズデール夫人に援助を依頼。夫人による援助の条件は、お気に入りのファイアフライ(グラウチョ)を首相にすることだった。

一方、隣国のジルヴェニアはフリードニアの乗っ取りを画策、チコリーニ(チコ)とピンキー(ハーポ)の二人をスパイとして送り込む。

ここから3兄弟によるナンセンスギャグの乱れ打ち。とにかく理屈も秩序も関係ないアナーキーな世界が繰り広げられ、訳の分からないまま両国の間に戦争が勃発する。

ヘンテコな歌と踊りを披露するグラウチョ、レモネード売りの帽子を叩き落としては、自分の帽子を相手の頭に乗せるチコとハーポのヴォードヴィル芸。グラウチョの乗るサイドカーを置いて、ハーポの運転するバイクだけが走り出すというバカバカしさと、天丼で重ねるギャグの冴え。

特にこの映画で有名なのが、素通し鏡のシーン。ひげ面メガネのグラウチョのスタイルを、チコとハープの二人が同じ扮装。対面で鏡に写っているふりをして、動きを合せるうちにワケが分からなくなるという場面だ。

のちにクレイジーキャッツやドリフターズのギャグにも影響を与えた、抱腹絶倒の名シーン。それぞれ特徴を持ちながら、実は素顔がよく似た兄弟ならではのシーンである。

68分の上映時間の間に、ナンセンスなギャグ、皮肉たっぷりのジョーク、至極のヴォードヴィル芸が休むことなく詰め込まれる。

兄弟たちのキャラクター

グラウチョの口から出る言葉はとにかくハチャメチャ、そのインチキ臭さとお調子者のキャラクターで楽しませる。

戦争が始まり、部下からの「塹壕が必要です」の報告に「出来合いのを買ってまいれ」の回答。しばし考え「首までのがいい。鉄砲がいらんからな」。さらに付け加えて「首より高いのを買ってこい。兵隊がいらない」。風刺と皮肉がたっぷり効いたナンセンスな笑いが秀逸。

ハーポは兄弟の中で一番アナーキーな存在で、何も喋らない彼が行うのは秩序の破壊だ。取り出したハサミで何でもチョキチョキ、欲しいものがあればとにかくかっぱらう。さらに羽織ったコートからは、ハタキ、火のついたローソク、ガスバーナー、ついには生きた犬まで出現するというシュールさ。

チコは両手の人差し指だけで鍵盤を叩き、リンゴを転がしながら弾いたり、ピアノを背にして弾いたりと、ピアノの曲芸弾きという名人技を披露。ハーポの兄貴分として、彼の奇想天外なパフォーマンスを観客に伝える役割を務めている。

末弟のゼッポも映画に出演しているが、普通の二枚目キャラクター。だが個性の強い兄を支えるという、地味な役割を受け持っている。

あまりに先進的かつ荒唐無稽なギャグと脈絡のない内容に、当時の観客はついていけず、映画は不評に終わったと言われる。しかし90年近く経った今観ても褪せない笑いの鮮度が、この映画の凄さである。

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