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《 サッカー人物伝 》 ヨハン・ニースケンス

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「もう一人のヨハン」ヨハン・ニースケンス(オランダ)

強い筋力とバネを持ち、優れた運動神経でアクロバティックなプレーも難なくこなした。守備から攻撃までを担うオールラウンダーとしてオランダ70年代の「トータルフットボール」を支えたのが、ヨハン・ニースケンス( Johan Jacobus Neeskens )だ。

豊富な運動量と旺盛なファイティング・スピリットで、兄貴分のクライフをサポート。同じファーストネームを持つことから「ヨハン2世」と呼ばれ、アヤックスの主力としてクラブに数々のタイトルをもたらした。

PKのスペシャリストとしても知られ、74年のW杯では3本のPKを決める活躍で準優勝に貢献。78年のW杯では、不参加のクライフに代わってチームを牽引し、オランダを2大会連続の準優勝に導く。

アヤックスの心臓

ニースケンスは1951年9月15日、オランダ北西部に位置する北ホラント州のヘームステーデで生まれた。運動神経抜群のヨハン少年は、サッカーの他に野球、テニス、バスケットボールと何でもこなした。

中でも高い適性を見せた野球では、全国選手権大会に出場。ニースケンスが得意としたスライディングタックルは、野球のプレーで培ったものだとされている。

やがて人気競技サッカーへの専念を決意。17歳で地元クラブのヘームステーデ・ハーレムに入団する。そこでの活躍をアヤックス監督のリヌス・ミケルスに認められ、70年にアムステルダムのクラブへの移籍を果たした。

アヤックス入団当初は、右サイドバックとして活躍。そのうち彼の豊富な運動量とボール奪取能力を活かすため、中盤でプレーするようになる。

ミケルス監督による「トータルフットボール」の戦術を掲げるアヤックスのリーダーは、当時24歳のヨハン・クライフ。19歳でトップチームに抜擢されたニースケンスは、献身的な働きでクライフを助け、チームの心臓となっていった。

70-71シーズン、アヤックスは欧州チャンピオンズ・カップのタイトルを初めて獲得。ニースケンスも準決勝のアトレティコ・マドリード戦でゴールを記録するなど、初優勝に貢献している。

71-72シーズンは28試合で10ゴール、翌72-73シーズンは32試合で7ゴールと主力に成長、エールディヴィジ連覇に大きな役割を果たす。チームはチャンピオンズ・カップ3連覇、UEFAスーパーカップ2連覇、インターコンチネンタル・カップ制覇も果たし、オランダのいちクラブに過ぎなかったアヤックスの名前を世界に轟かした。

そしてクラブの黄金期を支えたクライフ、ニースケンス、ルート・クロル、ヨニー・レップ、アーリー・ハーン、ピート・カイザーといった中心メンバーは、そのままオランダ代表の主力となり、アヤックスの戦術はオレンジ軍団に移植されることになる。

「トータルフットボール」の万能マシン

オランダ代表には70年の11月に初招集を受け、11日に行われた欧州選手権・ブロック予選の東ドイツ戦(0-1の敗戦)で代表デビューを飾る。翌71年4月のユーゴスラビア戦で2度目の出場を果たすが、試合は1-2と敗れ、グループ2位に終わったオランダは72年の欧州選手権・本大会出場を逃す。

73年にはライバルのベルギーと接戦を繰り広げながらも、オランダは欧州予選を勝ち抜き、戦前の38年大会以来、36年ぶりとなるWカップ本大会出場を果たした。

しかし大会本番を直前に控え、チーム内にゴタゴタが発生。サッカー協会はファンドロンチ監督を解任し、その後任をリヌス・ミケルス(当時バルセロナ監督)に要請。その要請を受けたミケルスは、アヤックス時代に育てた選手を主軸に据え、「トータルフットボール」の戦術を短期間で代表チームに浸透させていく。

74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。1次リーグ初戦のウルグアイ戦を、レップの2ゴールで勝利するも、次のスェーデン戦は0-0と引き分ける。

最終節の対戦相手は東欧のブルガリア。オランダはクライフを中心に相手を圧倒、開始5分にPKを得ると、ニースケンスが冷静に沈め先制。前半終了直前の45分には、再びニースケンスがPKを決めて2点差とする。

後半にもレップとクロルの追加点が生まれ、終了直前にオウンゴールで1点与えてしまうが、4-1と余裕の勝利で2次リーグに進んだ。

能力の高い選手たちが頻繁にポジションチェンジを行いながら、全員が攻撃と守備を繰り返す「トータルフットボール」のダイナミックさは多くのファンを魅了、オランダはたちまち優勝の最有力候補に躍り出る。

ニースケンスは中盤でボールを奪う役割を担いながら、攻め上がるサイドバックをカバー。それと同時にセカンドストライカーも務めた。第2列から果敢に切り込み、ゴールに迫る彼のプレーは、対戦相手の脅威となった。

オレンジ旋風の中心

2次リーグの初戦、南米の古豪アルゼンチンと対戦。前半の10分、絶妙な浮き球パスに抜け出したクライフが先制弾、25分にはクロルの追加点が生まれる。後半の73分、クライフのアシストでレップが3点目、試合終了直前にもクライフがダメを押し、4-0と相手を寄せ付けない強さを見せた。

第2戦は東ドイツとの試合。開始9分、レンセンブリングのお膳立てからニースケンスが先制点。59分にもレンセンブリンクが2点目を挙げ、2-0と挑戦者を一蹴する。

決勝進出を懸けた最終節は、前回王者ブラジルとの戦い。前半はブラジルの手荒い対応にナーバスとなり、オフサイド・トラップのかけ損ないで2度のピンチを招く。

後半の50分、中央をドリブル突破したニースケンスが、右サイドに開くクライフへボールを送る。クライフは対面する相手を引きつけ、中央へラストパス。走り込んだニースケンスが先制弾を突き刺した。

ここからオランダの一方的展開。65分、クロルのセンタリグに飛び込んだクライフが、ジャンピングボレーで追加点を挙げると、84分にニースケンスを押し倒したDFペレイラが退場処分。オランダは強敵相手に2-0の快勝を収め、2次グループ1位で初の決勝進出となった。

決勝の相手は開催国の西ドイツ。開始1分、ドリブルで攻め上がったクライフが、Pエリアで倒されオランダがPKを獲得。これをニースケンスがゴール中央に豪快に叩き込み、オランダが先制する。

しかしこの早すぎるリードが、オランダのリズムを狂わせることになった。クライフの動きもフォクツのハードマークに押さえられ、「トータルフットボール」はいつもの冴えを失っていく。

25分には逆にPKを与えてしまい、ブライトナーに決められて同点とされてしまう。43分にゲルト・ミュラーの逆転弾を許すと、ベッケンバウアーを中心とした西ドイツ守備陣の前に2-1の敗北。大会にオレンジ旋風を巻き起こしたオランダは、惜しくも初優勝を逃す。

ニースケンスは大会得点王のラトー(7ゴール)に続く5ゴールを記録。攻守兼備の高い能力は、世界のファンに強い印象を残した。

「もう一人のヨハン」

73-74シーズン、バルセロナに移籍したクライフに代わり、22歳のニースケンスがアヤックス攻撃陣の中心となる。31試合に出場して15ゴールとキャリアハイの成績を残すが、強力なリーダー、クライフの抜けた穴は大きく、チームはエールディヴィジとチャンピオンズ・カップのタイトルを失ってしまう。

翌74-75シーズン、クライフの働きかけによりバルセロナへ移籍。ニースケンスはバルサで「もう一人のヨハン」と呼ばれるようになる。

ミケルス監督とのアヤックストリオで「トータルフットボール」の再現が期待されたが、そう上手くはいかず、チームはタイトル無冠に終わる。その結果、ミケルス監督はシーズン終了後に解任となった。

その後クライフがパフォーマンスを落としていくと、それに合せたようにニースケンスも調子が下降気味となっていく。バルセロナに在籍した5シーズンで獲得したタイトルは、77-78シーズンのコパ・デル・レイ優勝、78-79シーズンのUEFAカップウィナーズ・カップ制覇の2つだけだった。

カリスマの欠けたオランダ代表

76年の欧州選手権はオランダが大会3位と過去最高の成績を残し、77年には地区予選を突破して2大会連続のWカップ出場を決める。しかしカリスマリーダーのクライフが、個人的事情でWカップ本大会への参加を辞退。オランダの士気低下が危惧された。

78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。故障で体調が万全ではなかったニースケンスも、初戦のイラン戦を先発出場。試合はレンセンブリングのハットトリックで、順当な白星を挙げた。

だが司令塔クライフを欠くオランダの攻撃は、ロングパスやロングシュート、空中戦などのパワープレーに頼らざるを得ない状態だった。

ニースケンスは次のペルー戦も先発するが、コンディションは上がらず68分で交代、ゲームはスコアレスドローに終わった。

最終節のスコットランド戦、前半10分にタックルを受けたニースケンスは早々と負傷退場。試合はレンセンブリングのPKで先制するが、2-3の逆転負けとなってしまう。勝ち点でスコットランドに並ばれるものの、オランダは辛うじて得失点差で2位を確保し、2次リーグに進んだ。

2次リーグの初戦、負傷の癒えないニースケンスはオーストリア戦を欠場。試合はレンセンブリングとレップの活躍で5-1の快勝を収める。

次の西ドイツ戦もニースケンスは欠場。西ドイツにリードを許した27分、ハーンの30mからのロングシュートが決まって同点。このあとレンセンブリングが攻撃を牽引し、2-2の引き分けに持ち込む。前回王者を相手にしての勝ち点1は、オランダの大きなポイントとなった。

決勝進出を懸けた最終節は、イタリアとの戦い。ニースケンスは3試合ぶりの先発復帰を果たす。前半19分、DFブランツのオウンゴールでイタリアに先制点を献上。だが後半の50分にブランツが汚名返上のロングシュートを決め、試合を振り出しに戻す。

74分、ハーンがハーフウェイ付近の40mから地を這うシュート。名手ゾフの堅守を破り、逆転のゴールが決まった。このままオランダが2-1の勝利、ニースケンスの果敢な押し上げが生んだ逆転劇だった。

こうしてオランダが2大会連続の決勝へ進出。優勝カップを争う相手は、開催国のアルゼンチンとなる。

2大会連続の準優勝

紙吹雪が舞う中で行われた決勝は、開始からアルゼンチンのペース。前半38分、アルディレスの縦パスをルーケが中央にクロス。DFの間に割り込んだケンペスが左足をいっぱいに伸ばし、先制点を流し込む。

オランダはニースケンスとレンセンブリングを中心に反撃を試みるも、守りを固めた相手を崩せないまま時間が過ぎていった。後半の59分にはレップを下げ長身のナニンハを投入、パワープレーによる攻撃で打開を図る。

このままアルゼンチンが逃げ切るかと思えた82分、R・ファン デ ケルクホフのクロスからナニハンがヘディングシュート、起死回生の同点ゴールが決まった。

その直後、ダニエル・パサレラがニースケンスに肘打ちをお見舞い。顔面に打撃を喰らったニースケンスは2本の歯が折れ、口の中が血だらけとなり、試合終了まで喋ることが出来なかったという。

後半のロスタイム、レンセンブリングの決定的なシュートがポストを直撃、決勝は延長に突入する。その104分、ケンペスが強引なドリブルからDF2人を抜いてシュート。GKが弾いたところを押し込まれて、勝ち越し点を奪われてしまう。

延長後半にもケンペスのアシストから追加点を許し、1-3と敗れたオランダは、2大会連続で優勝を逃すことになった。

ベッケンバウアーをサポート

79年、バルセロナを退団したニースケンスは、北米サッカーリーグのニューヨーク・コスモスへ移籍。コスモスでは皇帝ベッケンバウアーのサポート役となり、80年と82年には北米リーグ優勝に貢献する。

81年11月、Wカップ出場を懸けた欧州予選の試合で、オランダはフランスに0-2と敗北、スペイン大会の出場を逃してしまう。ニースケンスはこの試合を最後に、30歳で代表を引退。11年の代表歴で49試合に出場、17ゴールの記録を残した。

その後アメリカ、オランダ、スイスといくつものクラブを転々とし、91年に28年の現役生活へピリオドを打つ。

引退後は指導者の道に進み、スイスのクラブで監督を務めた後、フース・ヒディンク監督の要請を受けオランダ代表のアシスタントコーチに就任。98年のWカップ・フランス大会では4位入賞に貢献する。

そのあとも、ヒディンク監督のもとでオーストラリア代表のアシスタントコーチ、ライカールト監督のもとでバルセロナのアシスタントコーチなどを歴任している。

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