《 サッカー人物伝 》フランティシェク・プラーニチカ

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「プラハの猫」 フランティシェク・プラーニチカ ( チェコスロバキア )

フランティシェク・プラーニチカ( František Plánička )は、1930年代に活躍したチェコスロバキアの名ゴールキーパー。スペインのリカルド・サモラ、オーストリアのルディ・ヒディーンと並び、当時世界最高の名手とされた。

172㎝と小柄ながら、驚異的な反応と果敢なプレーで強豪スラビア・プラハのゴールを守り、「プラハの猫」と呼ばれる。9回のリーグ優勝、6回のカップ戦優勝に貢献、生涯出場した試合は1,200以上にのぼるという。

34年のWカップ・イタリア大会では、得点王に輝いたオルドリッヒ・ネイエドリー( Oldřich Nejedlý )とともにチームを牽引。キャプテンとして、チェコスロバキアを準優勝に導いている。

スラビア・プラハの守護神

プラーニチカは1904年2月6日、オーストリア・ハンガリー帝国時代のプラハ・ジシュコフに生まれた。1918年にチェコスロバキア共和国が成立、プラーニチカは地元クラブ、スロバン・プラハでGKとしてのキャリアを始め、15歳でFKブネベチへ移籍する。

19歳のときに、強豪スパルタ・プラハとスラビア・プラハの練習トレーニングに参加。プラーニチカの才能を認めたスラビアは、FKブネベチに獲得を申し入れた。

しかし将来性あるGKを手放したくなかったブネベチは、この申し出を拒否。だが強豪クラブへの移籍を望んだプラーニチカは、偽名を使ってスラビアが行った遠征試合への参加を強行する。

これが問題となり、ブネベチはプラーニチカへの制裁金を要求。事態は群政委員会を巻き込むまでの大騒ぎになった。

この移籍騒動は、スラビアがブネベチへ高額の制裁金を払うことで無事解決。プラーニチカは、スラビア・プラハの赤と白のユニフォームに袖を通すことになる。

だがプラーニチカがスラビアに移籍した23年の秋、クラブは経験豊富なGKヨーゼフ・シュタプリクを獲得。この2人のキーパーのうち、調子の良い方が交代交替で使われるという状態が数年間続いた。

プラーニチカは食生活に気を配り、酒や喫煙、コーヒーさえも避けるという厳しい自己管理を徹底、やがて正GKの座を獲得する。25年にチェコスロバキアの国内リーグがプロ化を果たすと、スラビアのプロリーグ初代王者獲得に貢献した。

26年にはチェコスロバキア代表に選ばれ、1月17日のイタリア戦に出場。試合は1-3で敗れ、初キャップを飾れなかった。

スラビアは28-29、29-30、30-31シーズンとリーグ3連覇を達成。ボヘミアン・カップも毎年のように制覇し、29年のミトローパ・カップ(中央ヨーロッパカップ チャンピオンズ・カップの原型)でも準優勝する。

絶対的守護神として強豪スラビアを支えたプラーニチカは、欧州屈指のGKとしての名声を高めていった。

チェコのエース  オルドリッヒ・ネイエドリー

南米ウルグアイで開催された第1回Wカップへの参加を見送ったチェコスロバキアは、欧州で行われる第2回大会への参加を表明。地区予選でポーランドに2連勝を収め、本大会への出場を決める。

34年5月、Wカップ・イタリア大会が開幕、プラーニチカは代表キャプテンを努めた。大会は16ヶ国トーナメント・ノックアウト方式で行われる。

1回戦の相手はルーマニア。前半は追い風を味方につけたルーマニアに攻められ、38分に失点を喫してしまう。風上に立った後半に逆襲。61分に左ウィングのプチュが同点ゴールを決めると、73分にはエースのネイエドリーが逆転弾。2-1と勝利し1回戦を突破する。

オルドリッヒ・ネイエドリーは、1909年12月26日生まれのジェブラーク出身。プラーニチカより5つ下で、当時25歳の技巧的なインサイドレフト(下がり目の左FW)だった。スパルタ・プラハでは、驚異的な得点力を誇るFWとして31-32シーズン優勝に貢献。ライバルチーム、スラビアのリーグ4連覇を阻止している。

チェコスロバキア代表には31年に初招集。6月16日のポーランド戦でデビューを飾り、今大会のメンバーにも選ばれていた。

ベストゲーム スイス戦

準々決勝はスイスとの対戦。攻撃的なスイスと技巧的なチェコの戦いは、シーソーゲームとなった。

前半18分にスイスが先制。36分にチェコが追いつき、後半の55分に逆転する。だがその10分後にスイスが同点弾、勝負の行方は分からなくなった。

終了が近づいた84分、ネイエドリーが決着をつける勝ち越し点。3-2と制したチェコが準決勝へ勝ち上がる。白熱したこの試合は、今大会のベストゲームと呼ばれた。

準決勝はドイツとの戦い、序盤はチェコがゲームを支配する。開始25分、ドイツGKのクリアをネイエドリーが押し込み先制。だが後半の62分、強烈なロングシュートにプラーニチカが反応できず、同点とされる。

70分、チェコがPエリア近くにFKのチャンスを獲得。プチュの放ったシュートはクロスバーを直撃するも、リバウンドをネイエドリーが決めて再びリードを奪う。79分にはネイエドリーがドリブルシュートで3点目。エースの活躍でドイツに3-1の快勝を収める。

初めてのワールドカップは準優勝

決勝の相手は開催国イタリア。会場となったローマのスタジアム貴賓席には、イタリアの独裁者・ファシスト党総裁のムッソリーニの姿もあった。

力攻めでくるイタリアに対し、チェコは得意のショートパスを繋ぐスタイルで対抗した。猛暑の中、肉体をぶつかり合う激しいゲームで怪我人が続出。プラーニチカの好守もあって試合は膠着状態となった。

0-0のまま進んだ76分、痙攣を起こしてピッチの外にいたプチュが、コーナーキッカーとしてゲームに復帰。一度蹴ったボールがプチュのもとに転がり、すかさず鋭いシュートを放って先制点を奪う。

優勝の見えてきたチェコだが、81分、アルゼンチン出身のオルシが巧みなフェイントから意表を突くループシュート。ボールはプラーニチカの伸ばした指先をかすめ、ゴールネットへ吸い込まれていった。ゲーム後プラーニチカは「バランスを崩して反応が遅れた」と、悔やむことになる。

土壇場で1-1と追いつかれ、決勝は延長戦に突入。その96分、ジュゼッペ・メアッツァのチャンスメイクからイタリアのスキアビオが勝ち越し弾。負傷で足を引きずっていたメアッツァへのマークを疎かにしたことが、チェコの敗因となった。

こうしてチェコは大会準優勝に終わったが、期待以上の健闘ぶりに国民からは拍手が送らている。

ネイエドリーは5ゴールを挙げて得点王。だが悪意ある記録改ざんが行われ、ネイエドリーがドイツ戦で挙げたの3ゴールのうち、1点を他の選手によるものに書き換えられてしまう。こうして長らく彼の記録は、イタリアのスキアビオ、ドイツのコーネンと並ぶ4ゴールとされていた。

ようやく2006年に、ドイツ人による恣意的な記録改ざんがあったとFIFAから発表。こうして72年ぶりに、ネイエドリーの単独得点王とドイツ戦のハットトリックが認められた。

2度目のワールドカップ

スラビア・プラハは、36-37シーズンまでリーグ優勝8回、ボヘミアンカップ優勝6回を達成。38年には念願のミトローパ・カップ初優勝も果たす。プラーニチカは、守護神として黄金期のチームを支えていった。

ネイエドリーはスパルタの大エースに成長。クラブの10年間で出場したリーグ戦、187試合で162ゴールという驚異的な得点力を誇り、35-36、36-37、37-38シーズンのリーグ3連覇に大きく貢献、35年にはミトローパ・カップ優勝を果たす。

38年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。2回目の出場を果たしたチェコスロバキアは、トーナメント1回戦で格下オランダと対戦した。

前半は追い風を利用したオランダが善戦。後半に猛攻を仕掛けるチェコの攻勢をしのぎ、試合は0-0のまま延長に入る。しかしオランダ必死の抵抗もここまで。92分にチェコが待望の1点を奪うと、111分にも追加点。延長後半終了直前の118分には、ネイエドリーのゴールでとどめを刺す。

「ボルドーの戦い」

準々決勝は、「黒いダイヤモンド」レオニダスを擁するブラジルとの戦い。この試合は退場者3名、骨折2名を出し、「ボルドーの戦い」と呼ばれるワールドカップ史上最悪のゲームとなった。

開始直後、ブラジルのゼゼがネイエドリーにキック。この乱暴者はすぐに退場処分となった。だが前半の30分、レオニダスのゴールでブラジルが先制する。後半開始直後、チェコのジーハとブラジルのマシャードが殴り合い、両者とも退場になってしまった。

このあと、チェコのコスタリクが腹を蹴られ悶絶。試合を裁いたハンガリー主審ヘルツカは、ゲームをコントロールしようともせず、試合はどんどん荒れ模様となっていく。

後半の60分、ドミンゴス・ダ・ギアのハンドでチェコがPKを獲得。これをネイエドリーが冷静に沈めて同点とする。83分、ルーズボールに飛びついたプラーニチカが、突進してきたブラジルのペラシオと激突。地面にうずくまったプラーニチカの顔は、激痛で蒼白になっていたという。

このときプラーニチカは右腕を骨折。当時は試合途中の選手交代が許されていなかったため、プラーニチカは重傷を負ったままゴール前に立ち続けた。

ゲームは延長の120分を戦って1-1の引き分け。この時代PK戦は存在せず、2日後に再試合が行われることになった。試合後ネイエドリーの足の骨折が判明、チェコはエースと守護神を失った状態でブラジルとの再戦を強いられる。

再試合はチェコが5人、ブラジルが9人のメンバーを替えて開始。チェコが23分に先制するも、56分にレオニダスが同点弾。60分には逆転を許し、チェコは1-2の敗戦。準々決勝で敗れ去ってしまった。

二人の英雄

翌39年、プラーニチカは16年を過ごしたスラビアで現役を引退。この時35歳だった。チェコスロバキア代表では73試合に出場、スラビアでは969試合でゴールを守り、生涯の通算では1,200試合以上をプレーしたと言われている。

晩年は脚のケガに苦しんだが、1985年にはユネスコの、1996年にはチェコのフェアプレー賞を受賞。1996年7月20日、プラハで92年の生涯を閉じた。

39年に始まった第二次世界大戦で、ネイエドリーの代表キャップは終止符を打った。8年の代表歴で44試合に出場、29ゴールの記録を残している。スパルタ・プラハには41年まで在籍。42年にはSKラフコニークに移籍し、46年に37歳で現役を引退する。

1990年6月11日、チェコのラコブニークで死去、享年80歳。奇しくもイタリアでWカップが行われている最中だった。

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