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《 サッカー人物伝 》 ドラガン・ジャイッチ

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「レッドスターの魔法使い」ドラガン・ジャイッチ(ユーゴスラビア)

ドラガン・ジャイッチ( Dragan Džajić )は、ユーゴスラビアが生んだ最高の名手。スピードと技巧に富んだドリブルで左サイドを突破し、鋭く曲がるクロスで多くのチャンスを作った。

ユーゴスラビアの名門、ツルベナ・ズベズダ(レッドスター・ベオグラード)の左ウィングとして60年代から70年代にかけて活躍。クラブに大きな功績を残したレジェンド「五大星人」の一人に数えられる。

ユーゴ代表として、68年の欧州選手権(イタリア開催)準優勝に貢献。準決勝のイングランド戦では高いテクニックで相手守備陣を翻弄し、「マジック・ドラガン」と賞賛された。74年のWカップでも2次リーグ進出に大きな役割を果たしている。

ツルベナ・ズベズダの名ウィンガー

ジャイッチは1946年5月30日、首都ベオグラードから60㎞離れた場所にある小さな町、ウブで生まれた。地元のクラブで本格的にサッカーを始め、ある大会での活躍を認められて、15歳でベオグラードの名門ツルベナ・ズベズダのユースチームに移る。

17歳になったジャイッチは、63年5月のブドゥチノスト戦でトップリーグデビュー。翌63-64シーズンには早くもレギュラーの座を掴み、ユーゴスラビアリーグ優勝に貢献している。

18歳となった64年6月に代表へ初招集。17日のルーマニア戦で代表デビューを果たす。同年10月の東京五輪にも参加、5歳上のチームメイトにはイビチャ・オシムがいた。ユーゴスラビアは東京・大阪などで4試合を戦ったが、若いジャイッチの出番はあまりなかったようだ。

同年9月から始まったW杯欧州予選にも参加。65年9月のルクセンブルグ戦で2ゴールを記録するが、ユーゴはグループ3位に終わり本大会出場を果たせなかった。

ツルベナ・ズベズダの主力に成長したジャイッチは、魔法の左足からCFラザレヴィッチの得点量産を助けた。チームは67-68、68-69、69-70シーズンとリーグ3連覇を達成、ジャイッチは攻撃陣の中心となる。

高い技巧と豊富なスピードで勝負するジャイッチ、実は大学で経営学を修めた頭脳派でもあった。

「マジック・ドラガン」の活躍

68年6月、ブロック予選で強豪西ドイツをかわし、イタリアで行われた欧州選手権・本大会に出場。4ヶ国トーナメントで行われた本大会・準決勝の相手は、66年W杯王者のイングランドだった。

鉄壁の守備陣を擁する相手をなかなか崩せず、試合は0-0のまま終盤に突入。その86分、ジャイッチが左フルバックのレン・ウィルソンを巧みなフェイントでかわし、後ろから追うボビー・ムーアも細かいステップで躓かせてPエリアに侵入。飛び出した名手ゴードン・バンクスの頭上を技ありのチップキックで抜き、決勝点を押し込んだ。

堅牢なイングランド・ディフェンスを一人で翻弄したジャイッチの技に、英国のマスコミは驚嘆。彼を「マジック・ドラガン」と呼んで賞賛した。

決勝の相手は、開催国のイタリア。前半39分、ジャイッチのゴールでユーゴが先制。だが試合終了が近づいた80分にドメンギーニの同点弾を許し、延長戦に突入。延長120分を戦っても決着はつかず、2日後に再試合が行われた。

再試合は開始12分にルイジ・リーバのゴールでイタリアが先制。30分にも追加点を決められ、ユーゴは0-2と敗れ去った。

惜しくも優勝を逃したユーゴだが、ホームアドバンテージを持つ開催国相手に大健闘。ジャイッチはオシムとともに大会ベストイレブンに選ばれた。そして大会を観戦したペレからは「ジャイッチはバルカンの奇跡であり、本当の魔法使いだ。彼がブラジル人でないのは残念」と最大級の賛辞を贈られている。

クラブと代表で顕著な活躍を見せたジャイッチは、この年のバロンドール賞で(チャンピオンズ・カップ初優勝を果たした)マンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベストボビー・チャールトンに続く3位に選ばれた。

唯一のワールドカップ出場

70年のWカップ・欧州予選でユーゴスラビアはベルギーに続くグループ2位。ジャイッチのWカップ初出場は叶わなかった。70-71シーズンには、ツベルナ・ズベズダがチャンピオンズ・カップの準決勝へ進出、ギリシャのパナシナイコスと戦った。

ホームでの第1レグは4-1の大勝。しかしジャイッチが出場停止となったアウェーの第2レグでは0-3の完敗を喫し、アウェーゴールの差で敗退。決勝にたどり着けなかった。72-73シーズンは3季ぶりのリーグ優勝を達成する。

72年の欧州選手権は本大会出場を逃すが、73年にはみごと欧州予選を突破し、ようやくWカップへの出場を決める。74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。ジャイッチはキャプテンマークを巻いて大舞台のピッチに立った。

1次リーグの初戦は、強敵ブラジルを上回る内容を見せながら0-0の引き分け。第2戦では初出場のザイール(現コンゴ共和国)を9-0と粉砕する。このコンゴ戦でジャイッチはWカップ初ゴールを挙げている。

2次リーグ進出を懸けた最終節は、スコットランドとの戦い。接戦となった試合は、均衡崩れず終盤戦に突入する。81分、ジャイッチが巧みにマーカーをかわし、右サイドから送ったクロスを交代出場したばかりのカラシが先制弾。

しかし終了直前に追いつかれて1-1の引き分けとなり、全試合を終えて3チームが勝ち点4で並んだ。それでもザイール戦での大量得点が効いて、ユーゴはグループ1位での勝ち上がりを決める。

2次リーグ初戦の相手は、開催国の西ドイツ。前半39分にパウル・ブライトナーの弾丸シュートで先制されると、終盤にもゲルト・ミュラーの追加点を許し、ユーゴは0-2の完敗。頼みのジャイッチはベルティ・フォクツの素早いタックルに動きを封じられ、何もできずに終わってしまった。

次のポーランド戦はジャイッチが負傷欠場。快進撃を続けるポーランド相手に善戦するが、最後はラトーに決められ1-2。連敗で早くも決勝進出の望みは絶たれてしまう。

最終節のスウェーデン戦はジャイッチが先発復帰。前半27分にリードを奪うも、GKマリッチのミスで2失点。1-2の逆転負けとなり、ユーゴは2次リーグ3戦全敗で大会を去ることになった。

3番目の星人

ツルベナ・ズベズダへの多大な功績により、50年代のレジェンド(ミティッチとシェクララッツ)に続く3番目の「星人(ズベズディナ・ズベズダ)」に叙せられたジャイッチ。75年には14シーズンを過ごしたクラブを離れ、フランス・デヴィジョン1のSCバスティアに移籍する。

76年、自国開催の欧州選手権・本大会(4ヶ国トーナメント)に出場。準決勝で地元ユーゴスラビアが対戦したのは、74年W杯チャンピオンの西ドイツだった。

ジャイッチなどの得点で前半を2-0とリードするも、後半64分に1点を返されると、終盤の82分にディータ・ミュラーのゴールで追いつかれてしまう。延長115分にD・ミュラーが勝ち越し点、119分にもD・ミュラーのハットトリックを許し、ユーゴは2-4の逆転負けとなった。

3位決定戦の相手はW杯準優勝のオランダ。スーパースターのクライフは準決勝敗退後さっさと帰国し、オランダは若手中心で試合に臨んできた。

前半は1-2とリードを許すも、終盤の82分にジャイッチのゴールで追いつく。準決勝で西ドイツにやられた真逆の展開となり、勢いに乗るユーゴだが、延長107分に決勝点を許して2-3の敗北。開催国ユーゴはホームアドバンテージを生かせず、大会4位に終わってしまった。

欧州制覇5ヶ年計画

バスティアでは2シーズンをプレー。主力として公式戦31得点の実績を残し、77年にツルベナ・ズベズダへ戻る。77年11月、ユーゴはW杯欧州初戦で敗退。2大会連続でWカップ出場を逃すと、リーグ戦の77-78シーズン終了後、ジャイッチは32歳で現役を引退した。

代表歴14年で85試合に出場、23得点を挙げた。15シーズンを送ったツルベナ・ズベズダでは公式戦590試合に出場、287ゴールを記録している。

引退と同時に、ツルベナ・ズベズダのテクニカル・ディレクターに就任。78-79シーズン、ジャイッチの後継者となったペトロヴィッチ(のち4番目の星人)の活躍で、UEFAカップ準優勝の成績を残す。

このあとも、79-80、80-81シーズンとリーグ2連覇を達成。実績を挙げたジャイッチの権限は強まり、選手の移籍・獲得に関しては彼が主な意思決定者となった。

86年、ジャイッチを始めとするツルベナ・ズベズダのフロントは、欧州制覇を目標に掲げた【5ヶ年計画】の一大プロジェクトを開始。クラブはストイコビッチ、プロシネツキ、サビチェビッチ、ユーゴビッチ、ミハイロビッチといった有望な若手を次々にスカウトしていった。

ジャイッチが目をつけた若手たちは、順調に主力へ成長。ツルベナ・ズベズダは87年からの5シーズンで、4度のリーグ優勝を果たす。ストイコビッチは88年から3年連続のリーグMVPに輝き、90年には24歳の若さで5番目の「星人」に選出された。

90-91シーズン、ペトロヴィッチ監督率いるツルベナ・ズベズダは、念願のチャンピオンズ・カップ決勝へ進出。決勝の相手は、この年に移籍したばかりのストイコビッチが在籍する、オリンピック・マルセイユだった。

決勝はスコアレスのまま延長に突入。怪我で先発を外れたストイコビッチが登場したのは、ようやく延長後半に入ってからだった。勝負はPK戦に持ち込まれ、5人全員が決めたツルベナ・ズベズダが初の欧州制覇を達成する。

91年12月にはトヨタカップに出場。チリのCSDコロコロに3-0の快勝を収め、クラブ世界一の称号も手にすることになった。

ツルベナ・ズベズダの会長

その後ユーゴスラビアで民族紛争が勃発。解体されたユーゴから有力選手たちが次々に国外へ流出してゆき、ツルベナ・ズベズダの黄金期は長く続かなかった。

98年、ジャイッチがクラブの会長に就任。チームは99-00シーズン、リーグ優勝と国内カップ制覇の2冠を達成。翌00-01シーズンはリーグ連覇も果たすが、ジャイッチはクラブの財政難と自身の健康悪化に苦しみ、04年に会長職を辞する。

08年2月、ツルベナ・ズベズダ会長時代に選手売却を巡る詐欺行為に関与した疑いをもたれ、他のクラブ幹部とともにセルビア司法局から起訴される。スペインのクラブに売却した選手が重大な故障を抱えていたことを知りながら、それを隠して多額の移籍金を得たのが不正と見られたのだ。

11年1月に裁判が始まり、ジャイッチは敵対者に嵌められたと無罪を主張。翌12年11月にはセルビア共和国大統領の恩赦を受け、無罪放免となる。その1ヶ月後、ジャイッチはツルベナ・ズベズダの会長に復職している。

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