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《 サッカー人物伝 》 ヌワンコ・カヌー

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「ミラクルマンの復活」ヌワンコ・カヌー(ナイジェリア)

197㎝80㎏という細身の長身ながら、柔らかいボールタッチと独特のリズムで相手DFを翻弄。トリッキーなプレーで多くのゴールを生み出したナイジェリアのストライカーが、ヌワンコ・カヌー( Nwankwo Kanu )だ。

93年に日本で行われたU-17世界選手権で5ゴールの活躍、ナイジェリア優勝の立役者となり注目された。金メダルを獲得した96年のアトランタ五輪では、エース兼キャプテンとしてチームを牽引。ナイジェリア代表「スーパー・イーグルス」の名を世界に轟かせる。

オリンピック後のインテル・ミラノ移籍時に致命的な疾患が発覚。選手生命の危機に追いやられるが、手術と懸命のリハビリで97年に奇跡の復活。その後移籍したアーセナルでスーパーサブとして活躍した。

U-17世界選手権優勝

カヌーは1976年8月1日、イモ州オウェリというイグボ族の住む町で生まれた。小さい頃から兄弟たちとボール(ボロきれを丸めて作ったもの)を蹴って遊び、15歳の時に地元チームで本格的にサッカーを始める。そこでの活躍が注目され、92年にオウェリの強豪イウアンヤウオ・ナショナル(現ハートランドFC)と契約を結ぶことになった。

93年、イウアンヤウオはナイジェリアリーグで優勝。16歳のカヌーは25試合で15ゴールを挙げる活躍で、リーグ優勝に貢献している。

この年にはU-17代表チームにも選ばれ、8月に日本で行われたU-17世界選手権に出場。G/Lではカヌーのハットトリックなどでカナダに8-0と圧勝、第2戦のアルゼンチン戦もカヌーのダメ押し点で4-0の大勝を収める。G/L最後のオーストラリア戦もカヌーの先制点で2-0と完勝し、グループ1位で準々決勝に勝ち上がった。

準々決勝は地元日本との戦い。この時の日本チームには、中田英寿、松田直樹、宮本恒靖、戸田和幸ら、02年Wカップ・日韓大会の主力となる選手が揃っていた。

開始早々の1分にナイジェリアが先制。40分にも追加点を決めて前半で2-0とリードする。後半56分、中田のヘディングゴールで1点を返されるも、力の差を見せたナイジェリアが2-1と勝利。当時16歳の中田選手は、ナイジェリア選手とのあまりの身体能力の違いにショックを受けたという。

準々決勝でポーランドを2-1と下して決勝に進出。決勝は前大会優勝を果たしたガーナとのアフリカ勢対決となり、終始試合をリードしたナイジェリアが2-1の勝利で初優勝。5得点の活躍で優勝に貢献したカヌーは、欧州各クラブのスカウトから熱い視線を送られることになった。

アヤックスでのタイトル獲得

バイエルン・ミュンヘン、レアル・マドリード、オリンピック・マルセイユといった名門クラブが獲得に名乗りをあげる中、カヌーは若手育成に定評のあるアヤックス・アムステルダムを選択。17歳で欧州挑戦の第一歩を刻む。

アヤックスの1年目はリーグ戦6試合2ゴールに留まったもの、94-95シーズンはサブメンバーながら18試合に出場して10ゴールを記録。エールディヴィジ連覇とオランダカップ連覇に貢献する。

95年の5月に行われたチャンピオンズリーグ決勝のACミラン戦では、後半53分にセードルフに替わって途中出場。このあとリトマネンに替わって投入された18歳のクライファート(カヌーと同い年)の決勝弾により、1-0と勝利した。

アヤックスはクライフ時代以来、22年ぶりとなるチャンピオンズリーグ優勝を達成。この年の11月には、南米王者のグレミオ(ブラジル)とトヨタカップで対戦する。

0-0のまま進んだ後半の68分、カヌーはオーフェルマルスに替わって途中出場。延長・PK戦にもつれた試合はアヤックスが勝利し、サブメンバーながらカヌーはクラブとともに世界の頂点に立った。

アヤックスがリーグ3連覇を達成した95-96シーズンには、リーグ戦30試合で13ゴールを記録してレギュラーに定着。チャンピオンズリーグ決勝のユベントス戦では、クライファートを押しのけて先発出場を果たしている。

惜しくもPK戦で敗れてCL連覇を逃してしまうが、UEFAスーパーカップ制覇でまたひとつタイトルをキャリアに加える。

日本との2度目の戦い

94年にA代表へ招集され、5月5日のスウェーデン戦で初キャップを刻んだ。96年にはU-23代表チームのキャプテンとして、7月から始まったアトランタ・オリンピックに出場する。

この時のナイジェリアチームはカヌーを始め、オコチャ、オリセー、ババンギダ、イクペバ、ウエスト、C・ババヤロと、欧州クラブで活躍する若手タレントの宝庫だった。

G/L初戦でハンガリーと対戦。カヌーが44分に挙げた先制ゴールを守り切り、1-0と勝利して順調なスタートを切った。

第2戦は、優勝候補ブラジルを相手に「マイアミの奇跡」と呼ばれる大番狂わせを演じた日本と対戦する。

ナイジェリアの身体能力と個人技に圧倒される日本だが、組織的守備で対抗。試合終盤まで得点を許さなかった。だが後半の68分、アムニケと接触したCBの田中誠が負傷退場。突如守備の要を失った日本は、ナイジェリアの勢いに押され気味となっていく。

83分にババンギダの放ったゴールが、慌てて飛び出した川口能活のカバーに入った秋葉忠宏に当たってオウンゴール。さらに試合終了直前の89分、イクペバの足に引っかけられた鈴木秀人がPエリアで転倒。その時ボールを抱えたことがハンドと見なされ、ナイジェリアに不要なPKを与えてしまう。

このPKをオコチャが確実に決めて2-0、ナイジェリアは2連勝を飾った。だが最終節に対戦したブラジルには、ロナウドのゴールで0-1と敗れてしまう。その結果ハンガリーを除く3チームが2勝1敗で並ぶも、得失点差で日本を上回ったナイジェリアが、グループ2位での勝ち上がりを決めた。

スーパー・イーグルスの偉業

準々決勝はオコチャとババヤロのゴールでメキシコに2-0と快勝。準決勝で再びブラジルと相まみえることになった。

試合は前半を終わってブラジルが3-1とリード、後半の63分にナイジェリアがPKのチャンスを得るも、オコチャのキックはGKジダに止められてしまう。76分にイクペバのゴールで1点返すが、逃げ切りにかかったブラジルを捉えられず、試合はロスタイムを残すのみとなった。

そのロスタイム、オコチャのロングスローを受けたカヌーが、飛び出すジダを浮き球でかわしてゴール。ナイジェリアが土壇場で追いついた。

そして延長の94分、イクペバの縦パスを拾ったカヌーが、軽やかなステップから左足シュートでネットに叩き込み、ゴールデンゴールで試合を終わらせる。

金メダルを懸けた決勝の相手となったのは、アルゼンチン。開始3分、オルテガの縦パスからクレスポに右サイドを突破され、そこからC・ロペスに先制点を奪われてしまう。しかし28分、CKから繋いだボールをカヌーがゴール前に送ると、C・ババロヤがジャンプヘッドで同点とする。

1-1で折り返した後半の50分、クレスポのパスから抜け出したオルテガをウエストが倒してPK。これをクレスポに決められ再びリードを奪われる。

だがここからナイジェリアが猛反撃を開始。60分にイクペバ、66分にババンギダと続けてチャンスをつくり、74分にカヌーのバックヘッドによる繋ぎから、アモカチのループシュートで追いつく。

そしてロスタイム突入直前の89分、アルゼンチンがオフサイドトラップをかけ損ない。フリーのアモカチがボレーシュートでネットを揺らし、ついにナイジェリアが勝利を手にした。

アフリカ勢の金メダル獲得は史上初の快挙。若き「スーパー・イーグルス」の躍動は世界を震わせた。そして優勝の立役者となったカヌーは、この年のアフリカ年間最優秀選手賞に、史上最年少の20歳で選ばれている。

命をかけた復活

アヤックスとアトランタ五輪での活躍により、96年の7月にセリエAの名門インテル・ミラノと契約を結ぶ。まさにエリート街道を突き進むカヌーだったが、インテル入団時のメディカルチェックで一転奈落の底に突き落とされることになる。

心電図検査で異常が発見され、専門医による精密検査を受けた結果、カヌーには「心臓弁膜症」の診断が下された。この先天的な病気は、彼がサッカー選手であること自体、奇跡と思えるほど重大な疾患だった。今は効果的な治療法がなく、このままサッカーを続ければ命に危険が及ぶと宣告されてしまったのだ。

これを聞いたカヌーは茫然自失。マスコミの前から姿を消し、自宅に引きこもって絶望感に打ちひしがれる毎日を送った。

そんなカヌーに救いの手を差し伸べたのが、ニューヨークに住むイタリア人医師、ドナト博士だった。ドナト博士は、アメリカの最先端医療である心臓弁交換手術をカヌーに提案。失敗の可能性も高く賭け同然の治療法だったが、カヌーは最後の望みを託して11月に手術を受ける。

手術は無事成功、翌97年の春にはトレーニングが出来るまでに回復し、それからは懸命のリハビリに時間を費やした。そして8月には、W杯アフリカ予選・ギニア戦で代表復帰。ちなみにこの時のナイジェリア代表監督は、フィリップ・トルシエである。

そしてインテルに戻ったカヌーは、11月にマンチェスター・ユナイテッドとの親善試合で残り6分に交代出場、サンシーロの初お目見えを果たす。翌98年3月のアトランタ戦ではセリエA初ゴールを記録、スタンドからの大歓声を受けた。

しかし長いブランクでカヌーのコンディションはなかなか上がらず、98-99シーズンの出場は途中投入の11試合に留まってしまった。

アーセナルのスーパーサブ

98年6月にはWカップ・フランス大会に出場。ナイジェリアはベスト16入りを果たしたが、出番の限られたカヌーにこれといった見せ場はなく、ノーゴールで大会を終了する。

98-99シーズンが始まってもベンチでくすぶり続けるカヌーに、アーセナルのベンゲル監督から獲得のオファーが舞い込んだ。

ベンゲル監督は、カヌーの知性とチームプレー精神を高評価。「ウチのチームなら、必ずカヌーを復活させてみせる」と豪語した。こうしてカヌーは99年2月のシーズン途中にアーセナルへ移籍する。

FAカップのシェフィールド戦でイングランドデビュー。このデビュー戦はちょっとしたポカでケチがついた(再試合となった)が、次戦のダービー・カウンティ戦で初ゴールを決める。

このあと途中出場から次々にゴールを決め、「スーパーサブ」としての評価を高めていく。98-99シーズンは途中加入ながらリーグ戦12試合で6ゴールの記録、99-00シーズンは31試合で12得点を挙げ、完全復活を印象づけた。

99-00シーズンのチェルシー戦では、途中出場からの15分間でハットトリックを決め、0-2の劣勢をひっくり返す大活躍。イギリスのマスコミは彼を「ザ・ミラクルマン」と呼んだ。

00年1月には、自国開催(ガーナと共催)のアフリカ・ネイションズカップ(アフリカ大陸選手権)に出場する。カメルーンとの決勝ではPK戦で敗れるも、レギュラーメンバーとして準優勝に貢献。見事復活を遂げたカヌーは、2度目のアフリカ年間最優秀選手賞に選ばれた。

だが99年に加入したアンリがエースとして台頭すると、次第にカヌーの出番は減少。03-04シーズンにはアーセナルが「インヴィンシブルズ」と称される無敗優勝を達成するが、カヌーが記録したのは僅か1得点。高いスキルと創造性を持つ一方、動きが緩慢で簡単にゴールを外すことも多く、メディアからは批判を受けるようになっていた。

このシーズンを最後にアーセナルとの契約が切れ、同じプレミアのウェスト・ブロムウィッチに移籍。アーセナルに在籍した6シーズンでは、197試合に出場して44ゴールを挙げている。

ミラクルマンの帰還

02年6月にはWカップ・日韓大会に出場。ナイジェリアはG/L敗退を喫し、精彩を欠くカヌーにまたもゴールは生まれなかった。

06-07シーズンにポーツマスへ移籍。当初1年契約だったが、カヌーは公式戦12ゴールを記録してチームのトップスコアラーとなり、契約延長を勝ち取る。07-08シーズンにはFAカップの準決勝と決勝で貴重な決勝点を挙げ、優勝の立役者となった。

06年のWカップ・ドイツ大会はアフリカ予選敗退で出場を逃し、10年のWカップ・南アフリカ大会に8年ぶりの出場。2連敗のあとの韓国戦で、今大会初出場を果たす。だが先発したカヌーは57分で交代となり、試合は1-1の引き分けで予選敗退。ついに代表では輝きを取り戻すことが出来なかった。

11年に代表を引退。18年の代表歴で87試合に出場、12ゴールを記録している。翌12年には経営危機に陥ったポーツマスから突然契約を解除され、一時クラブと争う姿勢を見せたが、13年4月に訴えを取り下げて、そのまま36歳で現役を引退する。心臓病の手術から16年後の引退だった。

引退後はユニセフ親善大使を勤めるほか、カヌー心臓財団を設立して、手術支援などの慈善活動を行なっている。14年には2度目の心臓手術を受けたが、無事帰還を果たした。

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