さほど大柄ではないが、滞空時間の長いヘディングは「ヘリコプター」と呼ばれた。また強烈なゴールへの意欲と得点力、持ち前の闘争心で「ザ・デリブル(恐怖の男)」「イワン(イバン)雷帝」の異名を持つチリのストライカーが、イバン・サモラノ( Iván Luis Zamorano Zamora )だ。
若くしてヨーロッパに渡り、スペインなどで活躍。それまで海外に出る事の少なかったチリ人選手で初めての成功者となった。レアル・マドリード時代の95年には得点王を獲得し、リーグ優勝に貢献している。
チリが「ロハス事件」の不祥事による制裁を受け、90年と94年のWカップ出場は叶わなかったが、98年にはマルセロ・サラスという相棒を得てフランス大会に初出場。00年のシドニー五輪にはO/A枠で参加し、銅メダル獲得に大きな役割を果たした。
サモラノは1967年1月18日、首都サンティアゴ南部にあるコロニア・デ・マイプで生まれた。サッカー好きの父親は、3歳になったばかりの息子を地元のフットボールクラブに登録。英才教育を受けたイバン少年は、順調にその才能を伸ばしていった。
16歳のときエルサルバドルのCDコブレサルと契約を交し、18歳となった85年にトップリーグデビュー。85-86シーズンは、チリ2部のコブレアンディーノ(現トラサンディーノ)に貸し出され、29試合で27ゴールを記録する。
87年にはコブレサルに戻り、リーグ優勝を経験。国内カップ戦では17試合で13ゴールの活躍を見せ、チリカップ優勝の立役者となっている。
88年にはイタリアのボローニャに移籍するが、セリエAの試合に1度も出場することなく、スイスの中堅クラブFCザンクト・ガレンにレンタルされる。
ザンクト・ガレン2年目の89-90シーズン、33試合で23ゴールを挙げてリーグ得点王を獲得。翌90-91シーズンにスペイン・セビージャへの完全移籍を果たす。
90-91シーズンの第2節、レアル・マドリード戦で移籍初ゴールを記録。翌91-92シーズンは30試合で12ゴールと高い得点能力を見せ、92-93シーズンにはレアル・マドリードに引き抜かれる。
代表には87年に20歳で初招集。6月19日の親善試合ペルー戦でデビューを果たし、初ゴールを記録して3-1の勝利に貢献。準優勝した7月のコパ・アメリカ(アルゼンチン開催)でも、1試合ながら出場を果たしている。
だが89年のW杯南米予選・ブラジル戦でチリが、「ロハス事件」(GKロハスの自作自演による、再試合を狙っての暴行被害偽装)と呼ばれる不祥事を起こしてしまい、90年W杯・イタリア大会への出場を絶たれただけでなく、94年W杯予選への参加資格も取り消されてしまう。
そのためサモラノは、年齢的に一番良い時期に差し掛かっていたにもかかわらず、W杯への挑戦を阻まれることになった。
それでも91年7月には、自国開催のコパ・アメリカに出場。G/L初戦のベネズエラ戦でゴールを挙げて2-0の勝利に貢献すると、次のペルー戦もサモラノの2得点などで4-2の勝利を収める。
第3戦のアルゼンチン戦はバティストゥータのゴールで0-1と敗れるが、最終節のパラグアイ戦は4-0の快勝。この試合でもサモラノは1ゴールを記録している。
3勝1敗としたチリは、アルゼンチンに続くグループ2位で決勝リーグに進出。初戦はコロンビアに先制されるも、サモラノのゴールで追いつき1-1の引き分け。第2戦のアルゼンチン戦も0-0のドローとなり、最終節のブラジル戦は0-2の完敗。
結局開催国のチリは大会3位に終わるが、5ゴールを挙げたサモラノは、バティストゥータ(6ゴール)に続く得点ランク2位。代表エースの座を不動のものにした。
レアル・マドリードに移籍したサモラノは、1年目から高い得点力を発揮。セビージャ戦でハットトリックを記録するなど公式戦37得点を挙げ、92-93シーズンはコパ・デル・レイ(国王杯)優勝とスーパカップ制覇に貢献する。
しかし翌93-94シーズンはスランプに陥り、公式戦17ゴールに激減。チームもタイトル無冠に終わった。94-95シーズン、レアルはF・レドンドとM・ラウドルップを獲得。3人の外国選手枠からあぶれてしまったサモラノは、バルダーノ新監督から構想外であると宣告されてしまう。
しかしここからサモラノは奮起。負傷したFWの代役として開幕戦に先発すると、開始5分で2ゴールを挙げる大活躍。バルダーノ監督の評価を一変させた。
このあとも、M・ラウドルップとのホットラインで得点を量産。第16節のバルセロナ戦では、前半だけでハットトリックを達成し、ライバルを5-0と撃破する。
94-95シーズンは、レアルがリーグ連覇を続けていたバルセロナから5シーズンぶりにリーガのタイトルを奪還。28ゴールを挙げてピチーチ賞(リーグ得点王)を獲得したサモラノは、優勝に大きく貢献した。
レアルには96年まで在籍し、96-97シーズンには熱烈なラブコールを受けてイタリアのインテル・ミラノへ移籍する。レアルの4シーズンで公式戦173試合に出場、101ゴールを記録した。
FIFAから「ロハス事件」による制裁を受け、コパ・アメリカでもしばらく低迷の続いていたチリ代表。96年には、W杯・南米予選に7年ぶりに参加する。
サモラノは、7歳年下のマルセロ・サラスと「Za – Sa(サ・サ)」コンビを結成。6月から始まった南米予選で、この強力2トップが破壊力を見せつける。
ベネズエラと1-1で引き分けた後の第2戦、サモラノの2ゴールとサラスのゴールなどでエクアドルに4-1と勝利。サモラノの2点はサラスのアシストによるものだった。
次のコロンビア戦もサモラノがゴールを挙げるが、試合は1-4と完敗し、このあとしばらくチリの停滞が続く。だが後半戦に入った73年4月のベネズエラ戦で、サモラノが5得点を叩き出す大爆発。6-0の快勝で勢いに乗る。
6月のエクアドル戦は、サラスのゴールで追いついて1-1の引き分け。7月のコロンビア戦は、サラスのハットトリックとサモラノのダメ押し点で4-1の勝利。前半戦に惨敗した借りを返すと、続くパラグアイ戦はサモラノの2点で3連勝を飾った。
強豪ウルグアイとアルゼンチンには苦杯を舐めるが、ペルー戦はサモラ2度目のハットトリックで4-0の圧勝。11月の最終戦もサラスのゴールなどでボリビアに3-0の勝利を収め、出場権を得られる4位に入ったチリは、4大会ぶりとなるWカップ出場を決める。
チリが挙げた総得点32は南米予選でダントツの1位、そのうちサモラノが12ゴール、サラスが11ゴールを記録している。「Za – Sa」コンビの破壊力は、ブラジル(W杯優勝で予選免除)のロマーリオ、ロナウドによる「Ro – Ro(ロ・ロ)」コンビにも比肩されるようになった。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。31歳のサモラノはキャプテンマークを巻いて大舞台のピッチに立った。初戦のイタリア戦は、サラスの2ゴールでイタリアを2-1とリードするも、終盤R・バッジオのPKで追いつかれて勝ち星を逃す。
第2戦はオーストリア戦。後半70分にFKからサモラノが頭で折り返し、それをサラスが合せて先制弾。だがロスタイムに追いつかれ、またもや引き分ける。最終節カメルーン戦も前半にリードしたチリだが、後半にエムボマのゴールを許して3試合連続の引き分けとなった。
それでもイタリアに続く2位となり、62年の自国開催大会以来36年ぶりとなる決勝T進出を決める。トーナメント1回戦の相手は、優勝候補ブラジル。前半からセザール・サンパイオの2点を許す苦しい展開となり、後半ロナウドの2点でとどめを刺されてしまう。
チリはサラスのゴールで1点返すのが精一杯、ブラジルに1-4と力の差を見せつけられる結果となってしまった。サモラノは4試合にフル出場を果たすも、ノーゴールに終わった。
96年からインテルで4シーズン余りを過ごしたが、ひっきりなしで監督交代が行われ、毎年のようにスター選手が加入するという厳しい状況に晒される中で、サモラノはその力を発揮することが出来なかった。
それでも97-98シーズンのUEFAカップ決勝、ラツィオ戦で先制ゴールを挙げて3-0の勝利に貢献。インテルで唯一のタイトルを手にした。
87年のチリ代表入り以来、9番へのこだわりを持ち続けたサモラノ。97-98シーズにロナウドが10番、サモラノが9番をつけていたが、98-99シーズンにR・バッジオがインテルに加入すると、バッジオが10番、ロナウドが9番を背負うことになり、サモラノに番号の明け渡しが命ぜられた。
サモラノはこれを拒否するも、クラブに認められなかったため18番を選択。背中の1と8の間に+のテープを貼って、背番号9の代わりとした。
最初は自分で+のテープを貼っていたが、そのうち1+8とプリントされた試合着が用意されるようになり、そのレプリカユニフォームは大人気を博したという。
99年1月のヴェネツィア戦では、サモラノ、ロナウド、バッジオの3人が揃い踏みの先発。サモラノがハットトリック、ロナウドが2点、バッジオも1点を挙げて6-2の勝利を収めている。
99年6月にはコパ・アメリカ(パラグアイ開催)に出場。準決勝でウルグアイにPK戦で敗れるも、サモラノは3得点を挙げて4位入賞に貢献している。
00年9月、33歳のサモラノはO/A枠でシドニーオリンピックに出場。G/L初戦のモロッコ戦はサモラノのハットトリックで4-1の快勝、第2戦はシャビ擁するスペインと対戦して3-1の勝利を収める。主力を温存した韓国戦は0-1と敗れるが、グループ1位でベスト8進出を決めた。
準々決勝は前回チャンピオン、ナイジェリアとの戦い。サモラノの空中戦の強さを生かして前半を3-0で折り返すと、後半の反撃を1点に抑えて4-1の勝利、初のベスト4に進んだ。
準決勝の相手はカメルーン。サモラノを中心に押し込むチリだが、カメルーン守護神カメニの好守もあって得点が奪えない。それでも78分、カメニの弾いたボールが味方DFに当たりオウンゴール。チリは幸運な1点を手に入れた。
勝利が見えてきた84分、CKのこぼれ球をエムボマに叩き込まれて同点。さらに89分、Pエリアに切れ込んだエムボマを倒してPKを与え、これをローランに決められて逆転負けを喫してしまう。
3位決定戦ではアメリカと対戦。69分にサモラノのPKで先制すると、84分にもサモラノが追加点。チリが2-0と勝利し初の銅メダルを獲得。6得点を記録したサモラノは得点王に輝いた。
このあとチリは南米予選敗退で日韓Wカップの出場を逃し、サモラノは01年9月の親善試合フランス戦を最後に代表から退く。14年の代表歴で69試合に出場、34ゴール(五輪を除く)の記録を残した。
01年にはシーズン途中にインテルを退団、メキシコリーグのクラブ・アメリカに移籍する。01-02シーズンは18ゴールを挙げ、メキシコリーグ優勝に貢献した。
03年には故郷のチリへ戻り、少年時代の憧れだったCSDコロコロと契約。クラブが財政難に陥っていたため、サモラノはほとんど無償でプレーしたと言われている。
03年7月、チリカップ・トーナメントで決勝に進むが、CDコブレロアに0-4と敗れて準優勝。この決勝で主審に抗議を行ったサモラノは退場処分となり、そのまま36歳での現役引退を発表する。
引退後はチリ代表選手のマネジメントを行っていたが、そのうち事業家に転身。投資会社を設立し、07年にはサンチャゴ北部にスポーツ総合施設を建設している。
巨大な敷地には、サッカー場、ラグビー場、ホッケー場、テニスコート、競泳プール、陸上競技場、体育館などのほか、病院やスポーツ科学の研究部門も併設。チリスポーツの総合リーダーを目指して造られた。
このスポーツ施設は成功し、一時サモラノの個人資産は8000万ドルにもなると報道されたが、少し前から経営は傾き、このコロナ禍の影響で破産。現在スポーツ施設は競売にかけられているという。それでもサモラノは解説者などを務めながら、再起を目指しているそうだ。