《 サッカー人物伝 》ファン・ロマン・リケルメ

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「クラシック・テン」 ファン・ロマン・リケルメ ( アルゼンチン )

組織戦術の駒としてスピードやハードワークが求められる現代サッカーで、独特の存在感を見せたクラシックタイプの10番。動きの少ない古風然としたスタイルで “恐竜” と揶揄されながら、一撃必殺のスルーパスと異次元のボールキープ力で魅了したのが、ファン・ロマン・リケルメ( Juan Román Riquelme )だ。

ボカ・ジュニアーズの司令塔として3度コパ・リベルタドーレスを制覇、2000年のトヨタカップではクラブ世界一にも輝く。02年に移籍したバルセロナで不遇を味わうが、ビジャレアルに移り輝きを取り戻した。

Wカップには06年ドイツ大会に出場。O/A枠で出場した08年の北京オリンピックでは、チームをまとめる存在として2大会連続の金メダル獲得に寄与している。

天才の萌芽

リケルメは1978年6月24日、首都ブエノスアイレス郊外のサン・フェルナンドで生まれた。このとき奇しくもWカップ・アルゼンチン大会の期間中で、リケルメが生まれた翌日には開催国アルゼンチンが念願の初優勝を遂げている。

リケルメは11人兄弟の長男。遊びといえばサッカーしかなかったが、家計は苦しく、デコボコな土グランドを裸足でプレイしていたという。

11歳で地元に近いサンホルヘの小クラブでプレーを始めると、やがてリケルメ少年の才能は知れ渡るところとなり、92年に名門アルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織へ入団する。

フィジカルに課題を抱えていたリケルメは、当初プレッシャーの少ないボランチとしてプレー。そこから頭角を現していき、95年にはアルゼンチンのユース代表に選ばれる。

その活躍がアルゼンチンの強豪ボカ・ジュニアーズの目に留まり、96年に数人のチームメイトとともにボカ・ジュニアーズの下部組織へ移籍する。

ボカ・ジュニアーズユースでは、その攻撃力を生かすためトップ下に転向。そこでビラルド監督に見いだされ、96年11月のCAウニオン戦でトップチームデビュー。2週間後に行われたCAウラカン戦でプロ初ゴールを記録している。

97年10月の「スーペル・クラシコ」リーベル・プレート戦、前半で退いたマラドーナに替わり交代出場、2-1の逆転勝利に貢献する。マラドーナはこのまま現役引退を発表、入れ替わるようにリケルメはレギュラーの座を掴んでいく。

97年、ホセ・ペケルマン監督によって南米ユース選手権のメンバーに選ばれ、ワルテル・サムエル、パブロ・アイマールらとともにアルゼンチン2度目の優勝に貢献。マレーシアで行われたワールドユース選手権ではキャプテンを努め、4得点を挙げて2大会連続優勝の立役者となった。

ボカ・ジュニアーズの「エンガンチェ」

その年の11月にはパサレラ監督によってA代表に招集され、W杯南米予選のコロンビア戦で途中出場のデビューを果たす。98年Wカップ・フランス大会のメンバーには選ばれなかったが、同年のトゥーロン国際に出場し優勝、リケルメは大会MVPに輝く。

98年、カルロス・ビアンチがボカの監督に就任。ビアンチ監督はリケルメを「エンガンチェ」と呼ばれるポジションに固定し、チーム戦術の要とした。

「エンガンチェ(引っかける)」とは、FWとMFの “繋ぎ役” をするトップ下のこと。能力の高い10番タイプを戦術の軸とし、その閃きと技量に攻撃のすべてを託すという、南米伝統スタイルの花形ポジションだ。

球の無いところではまるで「走らない、守らない」リケルメだが、攻撃をコントロールする能力は超一級品。その才能を高く評価するビアンチ監督は、献身的に働くサポート役を中盤に配置し、リケルメを攻撃に専念させたのである。

リケルメはFWのパレルモ、デルガド、ウィングのバレスケロットを操り攻撃をリード、ボカの快進撃が始まる。98-99シーズンの前期には、19試合13勝6分けの無敗優勝を達成、6年ぶりの優勝だった。続く98-99シーズンの後期も制し、年間完全優勝を成し遂げる。

2000年にはコパ・リベルタドーレスに出場。準々決勝でライバルのリーベル・プレートと対戦する。アウェーで1-2と敗れたあとのホームでの第2戦、リケルメ、パレルモ、デルガドのゴールで3-1の快勝、2戦合計4-2で準決勝に勝ち進んだ。この試合リケルメは、背中についた相手をヒールで股抜きし、反転してかわすという神業を披露。観客を大いに沸かせた。

6月に行われた決勝では前年度王者のパルメイラス(ブラジル)をPK戦で下し、ボカは22年ぶり3度目の南米王者となる。

この年の11月にはトヨタカップに出場、欧州王者のレアル・マドリードと戦う。開始3分、デルガドの折り返しにパレルモが左足で合せてゴール。大会最速の先制点だった。さらにその3分後、リケルメのロングパスが一瞬でDFラインを切り裂き、またもパレルモが追加点を決める。

12分にロベルト・カルロスのゴールで1点返されるが、ボカは強固な守備ブロックを築いてレアルの猛攻をしのぐ。リケルメは守備こそしないものの、“ボール奪取の名手” マケレレさえ寄せ付けない鬼キープは、守りに追われる味方に休息を与えた。

こうしてボカが2-1と逃げ切り。ボカが23年ぶり2度目となるクラブ世界一のタイトルを手にする。

翌01年もコパ・リベルタドーレスを連覇。トヨタカップではバイエルン・ミュンヘンと対戦したが、PK戦で敗れて2年連続優勝はならなかった。

ビジャレアルでの輝き

97年7月にはパラグアイ開催のコパ・アメリカに出場。アルゼンチンはG/Lを2勝1敗の2位で勝ちぬくが、準々決勝でブラジルに1-2と敗戦。結果を残せなかった。

リケルメは4試合全部に出場を果たすが、古典的なスタイルは「戦術マニア」と呼ばれるマルセロ・ビエルサ監督から敬遠され、代表ではその後しばらく彼の姿を見ることは無かった。そのため02年のWカップ・日韓大会には、メンバー入りさえしていない。

01-02シーズン前期、ボカはリーグ2位に終わり、ビアンチ監督は責任を取って退任する。理解者を失ったリケルメは報酬をめぐりクラブと対立、02年11月にはボカを退団し、鳴り物入りでのバルセロナ入団を果たす。

しかしバルセロナのファン ハール監督は、「リケルメの獲得は、自分の望んだものではない」と公言。リケルメは適性とは思えないウィングで起用され、バルサでほとんど活躍を見せることはなかった。

翌03-04シーズン、バルセロナがロナウジーニョを獲得したことで、外国人枠からあぶれたリケルメはビジャレアルにレンタル移籍。すると同胞の多く在籍するビジャレアルで攻撃の軸となり、「エンガンチェ」の輝きを取り戻す。

03-04シーズンは33試合に出場して8ゴール。前年15位だったチームをリーグ8位にまで浮上させ、UEFAカップでは過去最高の準決勝に導いた。04-05シーズンはキャリアハイとなる15ゴールを記録、リーグ3位躍進の立役者となる。

この活躍により、リケルメはビジャレアルに完全移籍。クラブと4年間の契約を結ぶ。05-06シーズンのチャンピオンズリーグG/Lでは、マンチェスター・ユナイテッドを敗退に追い込むという快挙を成し遂げ、決勝ステージに進出する。

トーナメント1回戦ではレンジャーズを、準々決勝ではインテル・ミラノを下して準決勝に。準決勝ではアーセナルと対戦。敵地での第1レグを0-1と落とし、アーセナルをホームに迎えての第2レグ。0-0で進んだ試合終盤に、ビジャレアルはPKのチャンスを得る。

だがリケルメの蹴ったキックは、イェス・レーマンに止められ試合はスコアレスドロー。2戦合計0-1でビジャレアルは敗れ去ってしまった。敗戦の戦犯とされたリケルメは心に傷を追い、チームでの立場にも影響が及ぶようになる。

Wカップ・ドイツ大会での敗退

04年9月、ユース時代の恩師であるペケルマンが、アルゼンチン代表監督に就任。ビエルサ体制で冷遇されたリケルメも、ようやく活躍の場を得ることになる。

05年6月、ドイツWカップの前哨戦となるコンフェデレーションズカップに出場。背番号8を与えられたリケルメは、10番を背負うアイマールを押しのけ先発出場。G/Lで3得点を記録、シルバーボール(準MVP)の活躍で準優勝に貢献し、代表の主役の座を奪った。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。リケルメは10番のユニフォームを着て、初の大舞台のピッチに立った。初戦のコートジボワール戦は、リケルメが全得点に絡んで2-1の勝利、第2戦はセルビア・モンテネグロを6-0と粉砕する。ペケルマン監督は試合後半、期待の若手テベスとメッシを投入、二人とも初ゴールを記録している。

最終節のオランダ戦は、警告を受けた選手を温存し、テベスとメッシを2トップで起用。だがリケルメと若い二人の呼吸が合わず、試合は0-0のスコアレスドローに終わる。

トーナメント1回戦ではメキシコに2-1と勝利。この試合の終盤、リケルメ、アイマール、メッシの夢の共演が実現する。そして準々決勝の相手は、開催国のドイツとなった。

0-0で折り返した後半の49分、リケルメのFKからアジャラが頭で合せて先制。だがリードを許したドイツはますます攻勢を強め、次第にアルゼンチンは押され気味となっていく。

逃げ切りにかかったペケルマン監督は、リケルメに替えて72分に守備固めのカンビアッソを投入。だが終盤の80分、バラックのクロスからクローゼに同点弾を決められ、延長に持ち込まれてしまった。

リケルメという攻撃の柱が不在となり、交代枠を使い切ってメッシも投入できなかったアルゼンチンに、もはや反撃の手立ては無かった。試合は120分を終わって決着がつかずPK戦へ。PK戦ではレーマンに2本のキックを止められ、アルゼンチンは準々決勝で大会を去る。

ボカ・ジュニアーズへの復帰

アーセナル戦のPK失敗以降、リケルメのプレーは覇気を欠き、チームメイト、監督、クラブ首脳陣との間に軋轢が生じた。06-07シーズンは先発を外され13試合に出場機会が激減、リケルメは古巣ボカ・ジュニアーズへ貸し出されることになった。

ボカに戻ったリケルメはやる気を取り戻し、07年のコパ・リベルタドーレスで本領を発揮。14試合8得点の活躍で、ボカを6度目の南米王者に導いた。特に決勝のグレミオ(ブラジル)戦では2戦合計の5得点すべてに絡み、マン・オブ・ザ・マッチに選ばれている。

ビジャレアルとの契約の関係で、日本で行われたクラブワールドカップには出場できなかったが、08にはボカへの完全移籍を果たす。

北京オリンピックの金メダル

07年6月にはコパ・アメリカ(ベネズエラ開催)に出場。決勝ではブラジルに3-0と敗れたものの、リケルメは5得点2アシストの大活躍を見せた。

08年8月、マスケラーノとともにO/A枠で選ばれ、北京オリンピックに参加。30歳のリケルメは、キャプテンとしてチームのまとめ役を務めた。

メッシ、アグエロ、ディ・マリアと豪華攻撃陣を揃えるアルゼンチンは、G/Lを3戦全勝で1位勝ち抜け。準々決勝では延長戦の末オランダを2-1と下し、準決勝に進む。

準決勝は宿敵ブラジルとの戦い。0-0で折り返した後半の52分、ディ・マリアからのクロスをアグエロが合せて均衡を破ると、58分にはリケルメの折り返しを再びアグエロが決める。

さらに76分、メッシのパスに抜け出したアグエロがPエリアで倒されPK。これをリケルメが確実に沈めて、ライバルに3-0の完勝を収めた。

決勝は、96年アトランタ大会の再現となるナイジェリアとの対戦。試合はアルゼンチンがペースを握り、58分にメッシのパスから左サイドを抜け出したディ・マリアが巧みなループシュート。ゴールネットを揺らした。こうしてアルゼンチンが1-0と決勝を制し、2大会連続の金メダルを獲得する。

ボカの副会長に

このあとWカップ・南アフリカ大会の南米予選に参加するも、マラドーナ監督と意見が合わず、09年に代表からの引退を表明。11年7月にはサベーラ監督に呼ばれ代表復帰を果たすが、怪我で試合に出場することはなかった。実質9年間の代表歴で51試合に出場、17ゴールの記録を残した。

12年7月には執行部との対立からボカ退団と現役引退を表明するが、13年2月に復帰。14年7月にはキャリアをスターとさせた2部リーグのアルヘンティノスへ移籍し、チームを1部へ引き上げて15年1月に36歳で現役を引退する。

しばらくフリーでいたが、ボカ・ジュニアーズ現会長派との確執により、19年12月に行われたクラブ会長戦で対抗候補のアメアルを応援。ボカでアイドル的人気を誇るリケルメの協力を得た反体制派は急速に支持を伸ばし、現会長派を退けてアメアルが新会長に選ばれた。

アメアル当選の功労者となったリケルメは、テクニカル部門の第2副会長に就任して新執行部入り。現在は久しく手にしていない南米タイトルの獲得を目指し、チーム強化に努めている。

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