《 サッカー人物伝 》 ロベルト・カルロス

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「凶器の弾丸」 ロベルト・カルロス ( ブラジル )

狭いサイドスペースを一瞬で突破し、相手陣内の奥深くまで切り込んでいった攻撃的サイドバック。100mを10秒台で駆け抜けるという疾風怒涛の走力で、「風小僧」と呼ばれたのがロベルト・カルロス( Roberto Carlos da Silva Rocha )だ。

身長168㎝、体脂肪率わずか6.9%のボディは、全身これ筋肉の塊。ハンマーのような太腿から放たれる破壊的なキックは、ゴールに対峙する者を恐怖に陥れた。

レアル・マドリードの核弾頭として長年にわたり活躍。3度の欧州制覇と、2度のクラブ世界一に大きな役割を果たした。02年の日韓W杯ではロナウドリバウド、ロナウジーニョの “3R” とともに攻撃を牽引し、ブラジル5度目の優勝に貢献している。

少年期

ロベルト・カルロスは1973年4月10、サンパウロ州の内陸部にあるガルサという小さな村で生まれた。家族は両親と姉3人、末っ子の彼の名前は、有名な歌手にあやかってつけられた。幼少期からコーヒー農園で働く両親を手伝い、10数キロ離れた学校には走って通っていたという。

家計を助けるため学校を辞め、13歳の頃から繊維工場で働き始める。そんな彼の唯一の楽しみは、仕事終わりに仲間たちと興じるサッカーだった。工場で単調な流れ作業を繰り返す毎日に「サッカー選手になりたい」の想いを募らせていった。

そんなある日、ロベルトのプレーが地域の対抗戦で地元クラブのスカウトの目に留まる。すぐに入団が決まり、左SBのポジションを与えられると、持ち味の走力とキック力が注目されるようになった。

しかし生活の苦しさから午前中は仕事、午後は練習という生活が続き、それを見かねたクラブの部長が「お前は才能がある。サッカーに専念しろ」と助言。父親には「息子さんはプロでも大丈夫だ」と納得させ、ロベルトのサッカー人生が動き始めた。

15歳のときスカウトされてウニオン・サンジョアンに移籍。89年にはサンパウロ州のクラブユース大会に出場し、準優勝したチームの主力として活躍する。

90年にはU-20ブラジル代表に選ばれ、南米ユース選手権優勝に貢献。91年にはポルトガルで開催されたワールドユース選手権に出場する。決勝ではルイス・フィーゴルイ・コスタを擁する地元ポルトガルにPK戦で敗れるも、ロベルトは大会優秀選手に選ばれた。

そして92年にプロデビューを果たすと、まだクラブでの実績が無いのにかかわらず、パレイラ監督に呼ばれて19歳でフル代表に招集。2月26日の親善試合アメリカ戦で、セレソンとしての初キャップを刻む。

名門から名門への移籍

93年にはサンパウロの名門、パルメイラスと契約。ジーニョ、エバイール、ジャウミーニャ、エジムンド、マウロ・シルバとスター選手が揃う中でレギュラーの座を掴み、サンパウロ選手権とブラジル全国選手権の連覇に貢献する。

94年にはWカップ・アメリカ大会のメンバー候補に名前が挙がるが、21歳と経験の浅さを危惧され、パレイラ監督には選ばれなかった。この大会でブラジルは4度目の優勝を果たし、左SBを努めたのは中盤が本職のレオナルドやベテランのブランコだった。

それでも大会終了後には、代表の左SBに定着。95年6月に出場したアンブロカップ(イングランドで行われた4ヶ国による国際親善大会)では、日本戦の開始7分に代表初ゴールを挙げている。95年7月のコパ・アメリカ(ウルグアイ開催)も、持ち前の快足と運動量でブラジルの準優勝(優勝はウルグアイ)に大きく貢献した。

その活躍は欧州にも鳴り響き、大会終了後には巨額のトレードマネーが動いて、95年の夏にイタリアの名門インテル・ミラノへ移籍する。

インテルのデビュー戦でいきなりFKを叩き込むなど、開幕から5試合5ゴールと好スタートを切ったかに思えた “ロベカル” だが、天職である攻撃的SBの役割を与えられず、不本意なシーズンを送ることになった。

彼に与えられたは、攻撃力を活かした左ウィングのポジション。だが慣れないポジションとイタリアの守備的戦術に、ロベカルのフラストレーションは溜まる一方だった。

シーズン終了後、インテルのモラッティ会長に移籍を直訴。するとその情報を耳にしたレアル・マドリードのカペッロ監督からさっそく獲得のオファーが舞い込み、24時間後にはスペインへの移籍が決まった。

アトランタ五輪銅メダル

96年7月、初の金メダル獲得を狙うブラジル「ドリーム・チーム」の一員として、アトランタオリンピックに出場。G/L初戦では日本に0-1と不覚をとるが、次のハンガリーに3-1と勝利して立て直す。第3戦でナイジェリアを1-0と下し、ベスト8に勝ち上がった。

準々決勝でガーナを4-2と退け、準決勝で再びナイジェリアと対戦。開始2分にブラジルが先制するも、20分にロベカルのオウンゴールで追いつかれてしまう。それでも28分にはベベット、37分にはF・コンセイソンのゴールが決まり、前半を3-1のリードで折り返す。

しかし後半の78分に1点差とされると、ロスタイムにカヌーのゴールを許して土壇場で追いつかれる。延長の94分、再びカヌーにシュートを決められ、ゴールデンゴールでの試合終了。3-4と逆転負けを喫したブラジルは、決勝に進めなかった。3位決定戦ではポルトガルを5-0と破り、銅メダルを獲得する。

レアル・マドリードでの栄光

ロベカルの他にも、ミヤトビッチ、スーケル、セードルフなど大型補強を行ったレアルは、96-97シーズンに圧倒的強さを見せてリーガ・エスパニョーラを制覇。守備に攻撃にと左サイドを鬼神の如く駆け抜けるロベカルの姿は、サンチャゴ・ベルナベウに詰めかけたファンの心を掴んだ。

97-98シーズン、レアルはリーグ連覇を逃すも、チャンピオンズリーグの決勝でユベントスを1-0と破って、32年ぶりの欧州制覇を達成する。ミヤトビッチ66分の決勝点は、ロベカルのセンタリングから生まれたものだった。

さらにこの年の12月には、トヨタカップでブラジルのヴァスコ・ダ・ガマと対戦。前半の25分にロベカルの放った強烈なクロスが、相手選手の頭に当たりオウンゴール。後半56分に追いつかれるも、終盤の83分にラウルが決勝弾を決め、レアルが2度目のクラブ世界一に輝く。

世界最高の左サイドバック

97年の6月には、フランスW杯のプレ大会となる “トゥルノワ・ド・フランス” に出場。そのフランス戦では、いったん壁の右を大きく抜けたボールが、信じられない曲線を描いてゴールに飛び込むという驚異的なFKを披露。時速140㎞を超える破壊的なキックは、「凶器の弾丸」と呼ばれるようになった。

その直後には、ボリビアで開催されたコパ・アメリカに出場。ロマーリオ、ロナウドの「Ro – Roコンビ」を擁したブラジルは圧倒的な強さで勝ち抜き、決勝で地元ボリビアを3-1と下して5度目の優勝を果たす。僅か2年で幾つものビッグタイトルを手にしたロベカルは、「世界最高の左サイドバック」の称号を得る。

98年6月、Wカップ・フランス大会に出場。ブラジルはG/Lを1位で勝ち抜き、トーナメント1回戦ではサモラノサラスの「Za – Saコンビ」を擁するチリを4-1と一蹴。準々決勝でデンマークと戦った。

試合は開始2分に先制されるが、ベベットとリバウドのゴールで逆転、前半を2-1のリードで折り返す。だが後半開始の50分、ロベカルがオーバーヘッドでのクリアをミスし、B・ラウドルップの同点弾を許してしまった。だがその5分後にリバウドの勝ち越し点が生まれ、3-2の勝利で事なきを得た。

準決勝ではオランダをPK戦で下し、ブラジルが2大会連続の決勝へ進出。しかしフランスとの決勝戦を迎えた日の朝、ロベカルと同室のロナウドが発作を起こして昏倒する。

ロベカルがすぐに助けを求め緊急入院したロナウドだが、試合直前にチームへ戻り強行出場。浮き足だったブラジルは集中力を欠いてしまう。

開始27分、右CKからジダンに頭で合わされ、フランスのリードを許す。さらに前半のロスタイム、左CKから再びジダンがヘディングシュート。ボールはロベカルの股間を抜け、ゴールに吸い込まれていった。

終了直前にも追加点を決められ、ブラジルは0-3の完敗。2大会連続5度目の栄冠はならなかった。それでもロベカルは優勝したフランスのデサイー、テュラムに並ぶ、大会ベスト・ディフェンダーに選ばれている。

銀河系軍団の一員

98-99シーズンのレアルはタイトル無冠に終わるが、99-00シーズンは決勝でバレンシアを3-0と圧倒して2季ぶりの欧州制覇。00-01シーズンは4季ぶりのリーグ優勝を果たす。99年には3度目のコパ・アメリカ(パラグアイ開催)に出場し、ブラジルの連覇に貢献している。

00年にフロレンティーノ・ペレスがレアル・マドリードの新会長に選ばれると、クラブはスター選手獲得による事業収益拡大化方針を打ち出す。

00年にはフィーゴ、01年にジダン、02年にロナウド、03年にベッカムと、毎年のように大物選手が加入。ロベカルは生え抜きのラウルとともに、「ギャラクティコ(銀河系)」と呼ばれる軍団の一員となった。

01-02シーズン、チャンピオンズリーグ決勝のレバークーゼン戦では、ロベカルの高いクロスからジダンが伝説のボレー弾。2-1の勝利に貢献し、自身3度目となる欧州クラブ王座のタイトルを手にする。トヨタカップもオリンピア(パラグアイ)を2-0と下して2度目の制覇。29歳となるロベカルは、キャリアのピークを迎えていた。

最後のビッグタイトル

02年6月、Wカップ・日韓大会に出場。初戦のトルコを2-1と退けたあとの第2戦、ブラジルは初出場の中国と対戦する。

前半の15分、ブラジルはゴール右25mにFKのチャンスを得た。セットされたボールの側に立ったのは、ロベカル、リバウド、ロナウジーニョの3人。ロナウジーニョが蹴るような仕草で注意をそらすと、ロベカルが細かいステップから左脚を一閃、うなるような弾丸ライナーがゴールネットに突き刺さった。

このあとリバウド、ロナウジーニョ、ロナウドもゴールを決め、「4R」の揃い踏みで4-0の圧勝を収める。最終節のコスタリカ戦はロベカルを温存、5-2と勝利し全勝で決勝Tに勝ち上がった。

トーナメント1回戦はベルギーを2-0と撃破。準々決勝はベッカム擁するイングランドを2-1と下し、準決勝はG/Lでも対戦したトルコに1-0の勝利。ブラジルは3大会連続の決勝へ進む。

決勝は、Wカップ初となるドイツとの強豪決戦。前半はドイツの守護神オリバー・カーンが好守でブラジルの猛攻を防ぐも、後半67分にロナウドが先制点。79分にもロナウドが追加点を決めて2-0と勝利し、前大会の雪辱を果たして5度目の栄冠に輝いた。こうしてロベカルは、すべてのビッグタイトルを手中にした。

サッカー小僧の引退

06年のWカップ・ドイツ大会にも、左SBのレギュラーとして出場。G/L最終節の日本戦は、主力温存でロベカルは休養となった。3戦全勝で勝ち上がったトーナメントの1回戦は3-0とガーナに余裕の勝利、準々決勝でフランスと戦う。

フランスは、大会限りの引退を表明していたジダンが全盛期を思わせる活躍。54分にジダンのFKからアンリの決勝ゴールを許し、0-1と敗れたブラジルは準々決勝敗退となる。

アンリにマークを剥がされ、決勝点を許してしまったロベカルは、己の限界を悟り33歳で代表からの引退を表明。15年の代表歴で125試合に出場、11ゴールの記録を残した。

レアル・マドリードには07年まで在籍。11シーズを過ごしたレアルでは公式戦512試合に出場、67ゴールを挙げている。

このあとトルコのフェネルバフチェ、ブラジルのコリンチャンスを経て、ロシアのアンジ・マハチカラでのプレーを最後とし、12年8月に39歳で現役を引退する。(15年には一時的に現役復帰)

引退後は指導者の道に進み、トルコやインドのクラブで監督を努めた。現在は古巣レアル・マドリードのアンバサダーに任じられ、フットサルイベントのエキシビション・プレーヤーとしても活躍している。

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