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《 サッカー人物伝 》 デヴィッド・ベッカム(前編)

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「 イングランドの貴公子 」デヴィッド・ベッカム( イングランド )

中盤右サイドから放たれる精度の高いクロスで、多くのチャンスを演出。プレースキックの名手として数々の名場面を生み出し、端正なマスクで世界的人気を誇った「イングランドの貴公子」が、デヴィッド・ベッカム( David Robert Joseph Beckham )だ。

ライアン・ギグスポール・スコールズらとともにマンチェスター・ユナイテッドのユース組織で育ち、90年代後半からのクラブ黄金期に中心的な役割を担った。03年にはレアル・マドリードに移籍し「ロス・ガラクティコス(銀河系軍団)」の最後の一員となる。

23歳で出場したWカップ・フランス大会のアルゼンチン戦では、相手の挑発に乗って退場処分。「試合を台無しにした戦犯」と国民からの非難を受けたが、キャプテンとして出場した4年後の日韓大会で雪辱を果たした。

マンチェスター・ユナイテッドの申し子

ベッカムは1975年5月2日、ロンドン北東部にあるエセックス州レイトンストーンに生まれた。ガス配管業を営む父親と、美容師として働く母親は、ロンドンの下町育ちながらともにマンチェスター・ユナイテッドの熱狂的ファン。幼い日のベッカムも、自然と両親の影響を受けるようになった。

11歳のとき、ボビー・チャールトンが主宰するサッカースクールに参加。そこで行われた技術コンテストで最高得点を挙げて優勝し、ベッカム少年はたちまち各クラブから注目される存在となった。

14歳のときに入団テストを受け、マンチェスター・ユナイテッドのユースチームに入団。16歳となった91年に、練習生としての契約を結ぶ。

ギグス、スコールズ、ニッキー・バット、ネビル兄弟ら「ファージーズ、フレッジリングス(ファーガソンのひな鳥たち)」と呼ばれる逸材がユースにひしめく中、ベッカムも着実に成長を遂げていった。

92年、チームはFAユースカップの決勝に進出。決勝のクリスタル・パレス戦、それまで控えだったベッカムは出場の機会を得て1ゴールを記録。ユナイテッドユースの優勝に貢献した。

同年9月には、リーグカップのブライトン戦でトップチームデビュー。翌93年1月には18歳でプロ契約を結び、94年12月のチャンピオンズリーグ、ガラタサライ戦でプロ初ゴールを記録する。

しかしその後、フィジカルの弱さからベッカムに出場の機会はなく、ファーガソン監督は試合経験を積ませるため、彼にレンタルで3部リーグのプレストン行きを命じる。

そしてプレストンでのデビュー戦、ベッカムはCKから直接ゴールを決めて、劣勢にあったチームを2-2の引き分けに導く。さらに翌月の試合でもFKを叩き込み、5試合で2得点の活躍。ベッカムは僅か1ヶ月でユナイテッドに呼び戻された。

4月のリーズ・ユナイテッド戦でプレミアリーグデビュー。サブながらも常時ゲームに出場するようになったベッカムは、「孤高のキング」エリック・カントナのストイックな練習態度を見習い、持ち味のキック力を磨いていった。

FAカップ準決勝のチェルシー戦でゴールを挙げ、決勝のリバプール戦ではカントナの決勝点をアシストして優勝に貢献。95-96シーズンを制したプレミアリーグでも33試合に出場し、ベッカムは右サイドハーフのポジションを確固たるものにする。

衝撃の超ロングシュート

96-97シーズンの開幕戦、ウィンブルドンFCに2-0とリードした試合終了直前、ベッカムがセンターサークル手前から推定60mの超ロングシュート。高い放物線を描いたボールは前に出ていたキーパーの頭上を越し、ゴールネットへ吸い込まれていった。

この離れ業にスタンドが騒然とする中、開幕戦を視察していたイングランド代表のグレン・ホドル監督は、当時21歳だったベッカムの招集を即決。この試合の2ヶ月後、9月1日から始まったWカップ地区予選のモルトバ戦で、代表デビューを飾った。

このあとベッカムは、ホドル監督の切り札としてW杯予選の全試合に出場。ウィングとしてはスピードに欠けるものの、一気に局面を変えるロングフィードと、ピンポイントで合せるアーリークロスはイングランドの武器となり、Wカップ出場決定に大きな役割を果たした。

96-97シーズン、ユナイテッドはプレミアリーグを2連覇。ベッカムは36試合8ゴールの活躍で、PFA年間最優秀若手選手賞を受賞する。シーズン終了後にカントナが突然の現役引退。チームの中核を担うようになったベッカムは、栄光の7番を引き継ぐことになった。

97-98シーズンはアーセナルにプレミア優勝を奪われるも、ベッカムは自己最高の9ゴールとリーグ最多の13アシストを記録。2年連続のベストイレブンに選ばれている。

屈辱のレッドカード

98年6月、Wカップ・イングランド大会が開幕。しかしG/L初戦チュニジアとの試合に、ベッカムの姿はなかった。

この頃のベッカムは、人気アイドルグループ “スパイス・ガールズ” のメンバー、ヴィクトリアとの交際ゴシップでタブロイド紙を賑わせていた。そのためか、ホドル監督は「プレーの集中を欠いている」という理由で、ベッカムを先発から外したのである。

チュニジアには2-0と勝利し、次のルーマニア戦もベンチスタート。前半33分にポール・インスが負傷で退き、ようやくベッカムに出番が訪れるも、試合は1-2の敗戦となった。

フラストレーションが募っていくベッカムだが、第3戦のコロンビア戦ではついに先発出場。1点をリードした29分、25mの距離からのFKを叩き込み2-0の勝利に貢献。代表初ゴールをWカップの大舞台で決めた。

決勝Tの1回戦は、アルゼンチンとの対戦。PKで互いに1点ずつを取り合ったあとの16分、ベッカムのパスからドリブルで抜け出したマイケル・オーウェンが勝ち越しゴール。前半を2-1のリードで折り返す。

しかし後半開始直後、ベロンのFKからサネッティが同点弾。ゲームは振り出しに戻った。その2分後、背後から倒されたベッカムが相手の挑発に乗って右足を振り上げると、シメオネが大げさなジェスチャーで転倒。主審のレッドカードを目にしたベッカムは、失意のままピッチを去っていった。

このあと10人での戦いを強いられたイングランド。必死の防戦で延長戦に持ち込むが、とうとうPK戦で力尽きてしまった。戦犯とされたベッカムは、イギリスのマスコミから「10人の賢者と1人の愚者」の批判を受けてしまう。

ヴィクトリアとの結婚

本国イングランドでは激しいバッシングに悩まされたベッカムだが、99年7月にヴィクトリアと正式結婚。すでに3月には長男のブルックリンが誕生しており、私生活の充実が彼の心に平穏をもたらした。

98-99シーズン、アーセナルとリーグ優勝を争ったユナイテッドは、99年5月16日の最終節でトッテナムと対戦する。リーグタイトル獲得には、この最終戦での勝利が絶対条件だった。

試合開始早々にトッテナムのリードを許すが、ベッカムが同点弾。その後アンディ・コールのゴールが生まれ、ユナイテッドが2-1の逆転勝利。2季ぶりのリーグ優勝を果たす。

その6日後の5月22日、ユナイテッドはFAカップの決勝でニューカッスルと対戦。シュリンガムとスコールズのゴールで2-0の快勝を収め、95-96シーズンに続く2冠獲得となった。

トレブルの偉業達成

さらにその4日後の5月26日、チャンピオンズリーグの決勝へ進んでいたユナイテッドは、バルセロナのカンプノウ・スタジアムでドイツ王者バイエルン・ミュンヘンと戦った。

中盤のキーマンであるスコールズとロイ・キーンが、準決勝のユベントス戦で警告を受け決勝は出場停止。この窮地にベッカムが、代わって中盤でゲームをコントロールすることになった。

開始6分、マリオ・バスラーにあっさりFKを決められ、バイエルンの先制を許してしまう。ベッカム、ギグスを中心に反撃を試みるユナイテッドだが、ローター・マテウスの統率するDF陣と、守護神オリバー・カーンの好守に阻まれてしまう。

後半に入っても、あわやのシュートが2度ポストを叩くなどバイエルンが終始優勢。ユナイテッドはシェリンガムとスールシャールを投入して打開を図るも、劣勢は変わらず追い込まれていった。

試合終盤、バイエルンはバスラーとマテウスをベンチに下げる余裕で、勝利へのカウントダウン。残り時間は1分となり、ベッカムは最後の望みをかけて前線へボールを送った。そのボールは相手にクリアされるも、ユナイテッドが左CKのチャンスを獲得。このとき試合は90分を超え、3分のロスタイムが表示される。

ピーター・シュマイケルが自陣ゴールから駆け上がり、セットプレーに加わると、キッカーのベッカムは彼の頭を狙って浮き球を放った。すると鉄壁を誇ったバイエルン守備陣に乱れが生じ、半端なクリアを拾ったギグスがシュート。シュリンガムが同点のフィニッシュを決めた。

バイエルンの選手が呆然とする中、攻勢を続けるユナイテッドは再び左CKのチャンスを獲得。今度はベッカムが速いボールを蹴ると、いち早く跳んだシェリンガムがヘディング。ファーサイドに落ちたボールをスールシャールが右足で捉え、逆転ゴールを叩き込む。

会場の興奮が収まらない中、試合は2-1で終了。ユナイテッドが劇的勝利で “トレブル(三冠)” の偉業を達成した。終了間際における僅か3分間の大逆転劇は、「カンプノウの奇跡」と呼ばれるようになる。

さらにこの年の11月にはトヨタカップに出場。南米王者のパルメイラス(ブラジル)を1-0と下し、ユナイテッドは4つめの栄冠を手にした。ベッカムはこの年の顕著な活躍で、バロンドール賞次点とFIFA年間最優秀選手賞の2位(どちらも1位はリバウド)に選ばれた。

ユーロ2000の収穫

00年6月、ユーロ2000(オランダ・ベルギー共催)に出場、G/L初戦の相手はポルトガルだった。開始3分、ベッカムのクロスからスコールズが先制点。さらに18分にはベッカムのお膳立てから追加点が生まれ、早くも2-0とリードする。

しかし22分にフィーゴのシュートで1点返され、37分にはジョアン・ピントの同点弾を浴びてしまう。さらに後半の59分にヌーノ・ゴメスの逆転ゴールを許し、2-3の逆転負けとなってしまった。

この試合の最中、自国スタンドからのブーイングを受け流していたベッカムだが、息子の名前を持ち出されたことに怒り、罵声を浴びせるサポーターに向かって中指を突き立てた。この行為は咎められたものの、行き過ぎたアンチの言動にも非難の目が向けられる。

第2戦はドイツとの対戦。前の試合とは打って変わって、スタンドからはベッカムを応援するファンからの歌声が聞こえた。後半の53分、ベッカムのFKをオーウェンが触り、アラン・シアラーが決勝点。イングランドの1-0の勝利は、公式試合としては実に35年ぶりとなる、ドイツ戦の白星となった。

最終節のルーマニア戦は、2-2のまま試合終盤を迎えた。このまま引き分けでも予選突破となるはずだったが、89分にガリー・ネビルのファールからPKを決められてしまい、2-3の敗戦。グループ3位で大会を去ることになった。

それでも大会終了後にベッカムに寄せられたのは、非難の声ではなく「よく頑張った」という激励の声。自国サポーターの彼に対する厳しい目は、変化の兆しを見せていた。

後編「最後のギャラクティコ」へ続く

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