「 最後のギャラクティコ 」デヴィッド・ベッカム( イングランド )
前編「イングランドの貴公子」より続く
ベッカムとは良好な師弟関係を築いてきたファーガソン監督だが、ヴィクトリアと結婚した頃から彼の変貌ぶりに危惧を抱くようになる。
かつてはシャイで従順だった若者が、今は派手なファンションに身を包み、ヴィクトリアとの私生活が大衆紙を賑わすようになっていたからだ。ポール・ガスコインなど、天狗となったスター選手が転落していく例を知るファーガソンは、ヴィクトリアが彼に悪い影響を与えていると考え、折に触れて忠告を与えた。
最初に問題が起きたのは、結婚まもない99年9月。オーストリアでのチャンピオンズリーグ2回戦を明後日に控えていたにもかかわらず、ベッカム夫妻は友人のファッション・デザイナーが主催した新作発表パーティーに出席。そこでの浮かれ具合を新聞に書き立てられ、ベッカムはファーガソン監督に謝罪。クラブに罰金を払う羽目になった。
そして00年の2月、息子ブルックリンが病気を患ったため、ベッカムはクラブの了解を得て練習を欠席。その一日は息子の看病に当たった。しかし当夜、妻ヴィクトリアがイベントの撮影でロンドンに出かけたことを知ったファーガソンが大激怒、翌日練習場に現れたベッカムと口論になった。
翌日の試合でベッカムはベンチメンバーからも外され、クラブ過去最大の罰金も科せられた。00-01シーズンのリーグ3連覇にベッカムは貢献するも、師弟二人の関係は、次第に微妙なものとなっていく。
00年9月より、Wカップ欧州予選が開始。ベッカムは代表キャプテンとしてチームを牽引し、同組となったドイツとしのぎを削り合った。
10月に行われたドイツ戦は、ホームのウェンブリー・スタジアムで0-1の敗戦。雪辱を期して、翌01年9月のアウェーでの戦いに臨む。
試合はオーウェンがハットトリックを記録。新鋭ジェラードも25mの弾丸シュートを叩き込み、5-1の歴史的大勝で借りを返す。ベッカムは全5得点のうち4得点に絡んだ。
そして同年10月6日、予選最後の試合を残してドイツと勝ち点で並んだイングランドは、本大会出場を懸けてホームのオールド・トラッフォードでギリシャと対戦する。
予選6得点のオーウェンが欠場したイングランドは、前半36分にギリシャのリードを許すという苦しい展開。後半68分にシェリンガムのゴールで追いつくも、直後の69分に失点。その後はギリシャの堅守に阻まれ、虚しく時間だけが過ぎていった。
先に終了したドイツ対フィンランドの結果は、0-0の引き分け。イングランドがWカップ出場を決めるには、同点に追いつかなければならなかったが、攻め手が見つからないまま後半ロスタイムを迎える。
敗色濃厚となる中、93分にシェリンガムが倒されFKのチャンスを獲得。キッカーのベッカムがいつものように強く踏み込み、右足を振り抜くと、鋭く曲がるボールが25m先のゴールへ吸い込まれていった。
起死回生のゴールで2-2の同点、直後に試合終了の笛が吹かれた。イングランドは勝点17で並ぶも、直接対決の大量点が効いて1位を確保。ドイツをプレーオフに追いやり、見事Wカップ出場を決めた。3年前の批判から一転、ベッカムは国民のヒーローと称えられた。
しかし好事魔多し。W杯大会を直前に控えた02年4月、CL準々決勝のディポルティーボ戦で左足甲を骨折。全治6~8週間と診断され、1ヶ月半後に迫ったW杯への出場は悲観視された。
それでも諦めなかったベッカムは、最新医療機器 “高気圧酸素カプセル” を使って懸命のリハビリ。どうにか大会本番に間に合わせた。
02年5月31日、Wカップ・日韓大会が開幕。イングランドが戦うグループは、スウェーデン、アルゼンチン、ナイジェリアの強豪が揃った “死の組”。チームは兵庫県の淡路島でキャンプを張り、日本にベッカムフィーバーが巻き起こる。
G/L初戦の相手はスウェーデン。前半24分、イングランドが最初のCKを獲得。ベッカムの放ったキックはキャンベルの頭を捉え、イングランドに先制点が生まれた。しかし後半の59分に追いつかれ、まだ体調が万全ではないベッカムは、足が止まって63分に交代。試合は1-1で引き分ける。
第2戦は、4年前の因縁の相手であるアルゼンチンとの戦い。最後尾から細かいパスを繋いで攻めるアルゼンチンに、イングランドは堅い守備からロングボールを使った速攻で対抗。試合は0-0のまま前半を終えようとしていた。
その44分、オーウェンがゴール前で倒され、イングランドがPKを獲得。ベッカムはペナルティーマークにボールをセットすると、積年の思いを乗せて渾身のキック。シュートはゴールの真ん中を突き破った。
後半アルゼンチンの猛攻を、全員守備ではねのけてイングランドが1-0の勝利。ベッカムは4年前シメオネへの報復行為で一発退場、敗戦の戦犯とされた雪辱を果たす。
最終節はナイジエリアと0-0で引き分け、イングランドはグループ2位でベスト16に進出。優勝候補とされたアルゼンチンは、“死のF組” の敗者となった。
トーナメントの1回戦は、デンマークと対戦。開始5分、ベッカムの左CKからファーディナンドが先制。22分にはオーウェンが追加点を決める。さらに44分、クリアのこぼれ球を拾ったベッカムのアシストから、ヘスキーの3点目が生まれる。
デンマークに3-0と完勝を収めたイングランドは、準々決勝でブラジルと戦う。前半23分、オーウェンが相手の裏をかく頭脳的な動きからゴール。イングランドが先制した。
しかし前半のロスタイム、ロナウジーニョが軽やかなステップからDFを振り切り、右アウトサイドのパス。リバウドに同点弾を決められた。
後半の50分、ブラジルが右30mの距離でFKのチャンス。クロスを警戒して前に出るGKシーマンに、ロナウジーニョが頭上を越える球で直接ゴール。ついに逆転されてしまった。57分にロナウジーニョが一発退場となるも、イングランドは数が少なくなった相手を攻めきれない。
ベッカムの痛む左足も、もはや限界。後半は動きが止まってしまい、チャンスらしいチャンスもなく試合は1-2で終了。「ブラジルは輝いていた。今日は我々の日ではなかった」の言葉を残し、大会を去って行った。
03年2月5日、FAカップでアーセナルに0-2と敗れた試合直後の更衣室で、「スパイク蹴り上げ事件」と呼ばれる騒動が起こる。
ファーガソン監督が敗戦の責任をベッカムに質すと、日頃から不満を溜めていたベッカムは口答えで応酬。憤慨したファーガソンの蹴り上げたスパイクが、ベッカムの左目まぶたを直撃した。我を忘れたベッカムが流血しながら監督に掴みかかろうとするも、側にいたギグスやファン ニステルローイに止められ、最悪の事態は免れた。
ベッカムはこのことを隠そうともせず、事件の噂はたちまち世間に広まった。二人の師弟関係に、決定的な亀裂が入ってしまったのである。
同年4月にマンチェスター・ユナイテッドは、チャンピオンズリーグの準々決勝でレアル・マドリードと対戦。事実上の決勝と言われた大一番だった。
アウェーの第1レグは1-3の敗戦。逆転勝利を目指し、ホームで行われた第2レグの試合に臨む。しかし先発メンバーの中にベッカムの姿は無く、代わりにベロンが起用された。
ゲームはロナウドのハットトリックを許して後半の60分まで2-3と劣勢。追い込まれたファーガソン監督は、不調のベロンを下げてベッカムを投入する。
71分、ベッカムが怒りのFKを決めて同点。さらに84分、ベッカムはFWのようにゴールへ突進し、逆転のゴールを叩き込んだ。しかしアウェーゴールで後れをとり、ユナイテッドにはまだ得点が必要。ロスタイムの91分、ベッカムは最後の望みを懸けてFKを蹴った。
だがボールは無情にもバーを越え、ゲームは終了した。ユナイテッドは第2レグを4-3と勝利したが、2戦合計5-6で敗れ去った。そしてこの試合の2ヶ月後、ベッカムのレアル・マドリードへの移籍が発表される。
03年7月にはレアルへの入団会見が行われ、新背番号23(7番はラウルの番号)がお披露目された。スペインではプレースキックの名手として知られていたベッカムだが、スピードやドリブル、1対1の強さなど、「ギャラクティコ(銀河系軍団)」にふさわしい選手かどうか懐疑的な目を向けるむきもあった。
つまり戦力としてよりも、レプリカユニフォームの売り上げやスポンサーの獲得、アジア市場への進出など、ビジネス拡大戦略の駒として “ベッカムブランド” を買ったのでは、と邪推されてしまったのだ。
しかもベッカムのポジションである右サイドにはフィーゴが君臨しており、イングランドプレーヤーの加入はチームに混乱をもたらすのではと危ぶまれた。事実、守備の要イエロとマケレレが、クラブのスター偏重主義に不満を抱いて退団してしまう。
レアルの新監督に就任したのは、前年マンUでアシスタントコーチを務めていたカルロス・ケイロス。攻撃陣がスター選手で渋滞するチームを任されたケイロス監督は、ベッカムを手薄となった中盤の底に配置する。
するとこの起用が当たり、ベッカムは得意のロングボールと広い視野でゲームをコントロールした。スペイン・スーパーカップ優勝でさい先の良いスタートを切ると、リーグ開幕戦でもゴールを記録するなど16試合で6得点の活躍。
また豊富な運動量でフィールドを駆け回り、守備に攻撃にとピッチ全体をカバー。前掛かりになりがちなチームのバランスを取った。
04年2月のバリャドリッド戦、右サイドでボールを受けたベッカムは、反対側を駆け上がるジダンに高精度のロングクロス。鮮やかなボレー弾がネットを突き刺すと、2大スター共演による超絶ゴールは満員のスタンドを沸かせた。
レアルはリーグ後半戦に失速してタイトルを逃してしまうが、ベッカムはキックの素晴らしさと真摯な姿勢でスペインでも絶大な人気を得る。
04年6月、ポルトガル開催のユーロ04に出場、G/L初戦でフランスと戦った。前半の38分にベッカムのクロスからランパードが先制弾。後半28分にもPKのチャンスを得るが、ベッカムのキックが止められ追加点とはならなかった。
試合は1-0のまま進み、イングランドの勝利が見えたかに思えたロスタイム、ジダンのFKで追いつかれてしまう。さらにロスタイムの3分、アンリが倒されフランスがPKを獲得。これをジダンに確実に決められ、土壇場で勝利をさらわれてしまった。
このあとイングランドはG/Lを勝ち抜くも、準々決勝では地元ポルトガルにPK戦で敗戦。1人目のPKを蹴ったベッカムは、ゴールを外して勝利を呼び込めなかった。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会に出場。初戦のパラグアイ戦は、ベッカムのFKが相手のオウンゴールを呼び込み1-0の勝利。第2戦はトリニダード・トバコの堅い守りに苦しめられたものの、終盤にベッカムのクロスからクラウチのヘディングゴールが決まり、2連勝を収める。
最終節はスウェーデンと2-2で引き分けて、グループ1位でベスト16に進出。トーナメント1回戦は、ベッカムのFKでエクアドルに1-0と勝利する。ベッカムは、Wカップ3大会で得点を記録した初の英国人選手となった。
しかし数日前から体調が悪く、ベッカムはエクアドル戦でも嘔吐を繰り返していた。6日後に行われたポルトガル戦は、左足の負傷により52分で交代。イングランドはPK戦で敗れ、準々決勝敗退となった。敗退の翌日、ベッカムは代表キャプテンの座を退くことを発表する。
06-07シーズン、レアルは4シーズンぶりのリーグ優勝を果たすが、カペッロ監督の構想外となったベッカムの出番は減っていった。07年1月、レアルとの契約満了を控え、MLSのロサンゼルス・ギャラクシーへの移籍を表明。生え抜きのラウル一人を残し「銀河系軍団」は姿を消した。
ベッカムにはプレミアやセリエAからの誘いもあったが、活動の拠点をロスに移そうとする妻ヴィクトリアの思惑が働いての移籍と言われた。ちなみにヴィクトリアら家族はスペインに来なかったので、ベッカムは4年間マドリードとロンドンを往復する生活を送っていた。
LA・ギャラクシーでは怪我などで精彩を欠き、レンタルされたACミランでも往年の力を見せることは出来なかった。それでも09年にLA・ギャラクシーに復帰すると、タイトル獲得に貢献している。
12-13シーズンにパリ・サンジェルマンへ移籍し、出場10試合ながらリーグ・アン優勝に寄与。13年5月18日、シーズン終了をもって38歳で現役を引退した。
22年間の現役生活で得たクラブタイトルは24に及び、14年間の代表歴で115試合に出場、17ゴールの記録を残している。引退後は自身のファッションブランドを立ち上げるなど、サッカー以外の活動で目立っているようだ。
17年12月、ベッカムは古巣のオールド・トラッフォードで行われたイベントに参加。同じくイベントに招かれたファーガソンと談笑する姿が見かけられ、二人が和解したことを伺わせた。