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《 サッカー人物伝 》 マルセロ・デサイー

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「ザ・ロック」マルセロ・デサイー(フランス)

抜群の運動能力と高い技術、戦術眼を持ち合わせ、最終ラインの壁となった。強靱なフィジカルと突破を許さない守備能力で「ザ・ロック」と呼ばれたフランスのディフェンダーが、マルセロ・デサイー( Marcel Desailly )だ。

オールラウンダーな能力を持つ世界屈指のセンターバックとして、自国開催の98年ワールドカップ初優勝とユーロ2000制覇に貢献した。またマルセイユやACミランで、欧州チャンピオンズリーグ優勝を果たす。

ミランではボランチとしてライカールトの抜けた穴を埋め、中盤の重しとなってチーム戦術に安定をもたらした。その後移籍したチェルシーでも、FAカップ優勝に貢献している。

ガーナ生まれのディフェンダー

デサイーは1968年9月7日、ガーナの首都アクラで生まれた。元々はオデンケ・アベイという名前だったが、幼少期に母親がフランス領事館の外交官と再婚。新しい父親のもと、マルセロ・デサイーという名前に改められた。

デサイーが4歳のとき、一家はフランスのナントに移住。12歳でFCナントの下部組織に入団し、センターバックとしての基礎を学んでいった。このときユースチームでともに訓練を受けたのが、終生の盟友となるディディエ・デシャンである。

7歳年上の異母兄弟、セス・アンドコールもFCナントのプロ選手。将来を嘱望されたMFだったが、23歳の若さで自動車事故死してしまう。その知らせを聞いた16歳のデサイーは深く悲しみ、義兄の分までサッカーに打ち込むことを心に誓った。

86年、18歳でFCナントとプロ契約。3シーズン目からレギュラーの座を掴み、国内屈指のディフェンダーとして知られるようになっていく。

89年、チームメイトのデシャンが、フランスの名門オリンピック・マルセイユに移籍。その3年後の92年には、デサイーもマルセイユに引き抜かれた。

チャンピオンズリーグ優勝と八百長疑惑

当時のマルセイユには、フランス実業界の風雲児ベルナール・タピが会長としてクラブに君臨。豊富な財力でスター選手をかき集め、欧州制覇への野心を燃やしていた。

92-93シーズン、マルセイユはディヴィジョン・アン5連覇を達成。GKにファビアン・バルテズ、CBにデサイー、バジール・ボリ。中盤にデシャン、フランク・ソゼー。前線にもアレン・ボクシッチ、ルディー・フェラー、アベディ・ペレと強力な陣容を揃え、同年のチャンピオンズリーグでは2年ぶり2度目の決勝へ進んだ。

決勝の相手は、当時ヨーロッパ最強と言われたACミラン。強固な守備陣を誇る両チームは、がっぷり四つの戦い。デサイーはミランの誇る2トップ、ファン バステンとマッサーロを封じた。

そして44分、ペレの蹴った右CKをボリが頭で叩き込んで1-0。これが決勝点となり、マルセイユが悲願のチャンピオンズリーグ優勝を達成。フランスのクラブでは、初の欧州制覇という快挙となった。

しかしその喜びもつかの間、マルセイユの八百長疑惑が発覚。リーグ優勝を決めた試合で相手選手の買収が行われたとの告発があり、タピ会長の右腕であるバルネスGMが逮捕される。

捜査の結果、マルセイユは92-93シーズンのリーグ優勝を取り消されることになり、チャンピオンリーグのタイトルは認められたものの、トヨタカップへの出場権は剥奪された。

その間にもタピ会長の脱税疑惑などスキャンダルは続き、93年9月には処罰としてマルセイユの2部降格が決定。クラブに失望したボクシッチ、ソゼー、ストイコビッチ、パウロ・フットレらが次々とチームを離れていった。

2年連続のチャンピオンズリーグ決勝

デサイーもチャンピオンズリーグで戦ったミランに誘われ、シーズン途中の11月に活躍の場をセリエAに移す。

バレージマルディーニ、コスタクルタ、アルベルティーニらが揃う世界一の守備陣の中で、デサイーはライカールトの抜けた後釜としてボランチを務めることになった。

抜群の身体能力を持つデサイーは、中盤底の壁としてチーム戦術に安定をもたらし、ミランのリーグ3連覇に貢献。94年のチャンピオンズリーグも2年連続の決勝に進んだ。

決勝の相手は、クライフ監督率いるバルセロナ。欧州随一の堅守を誇るミランと、ロマーリオストイチコフら華麗な攻撃を展開するバルサ「ドリームチーム」の戦いとなった。

ミランは守備の要であるバレージと、コスタクルタの二人が累積警告で出場停止。エースのファン バステンも故障で長期離脱中と主力を欠き、前評判ではバルサの圧倒的有利が予想されていた。

両チームが一進一退の攻防を見せた22分、サビチェヴィッチのパスからマッサーロがゴール。劣勢だと思われたミランが先制した。さらに前半のロスタイム、ドナドーニの折り返しから、再びマッサーロが得点を決める。

そして後半直後の47分、右サイドでボールを奪ったサビチェヴィッチが、前に出たGKスビサレッタの意表を突くループシュート。リードを3点に拡げ、反撃を図るバルサの出鼻を挫いた。

その11分後、デサイーが後方から果敢な攻め上がりを見せ、オフサイドトラップをかいくぐって4点目。バルサの息の根を止める。

不安視された守備でも、デサイーが「ザ・ロック」と呼ばれる壁となって立ちはだかり、バルサの攻撃を完封。4-0の快勝を収めたミランは、5度目のビッグイアーを獲得した。

優勝に大きな役割を果たしたデサイーは、異なったクラブで2年連続欧州チャンピオンに輝いた最初の選手となる。

フランス鉄壁の守備陣

フランス代表には、93年8月に行われたW杯欧州予選のスウェーデン戦でデビュー。予選では順調にグループ首位をキープしていたフランスだが、10月のイスラエル戦でロスタイムに逆転負けを喫するという不覚。W杯出場決定は11月17日の最終戦まで持ち込まれた。

最終戦はグループ3位のブルガリアをホームに迎えての試合。フランスは引き分けてもW杯出場となるはずだったが、1-1の同点で進んだ89分、ジノラの余計なプレーからカウンターで失点。デサイー必死の戻りも追いつかず、目の前で起きた逆転劇に頭を抱えるだけだった。

こうして予選グループ最終戦で3位に転落。フランスは「パリの悲劇」と呼ばれる大失態で、W杯出場を逃してしまうことになった。

このあとエメ・ジャケがフランスの新監督に就任。ジャケ監督はカントナパパン、ジノラといったスター選手を外し、新鋭ジダンを中心としたチーム作りに着手する。

96年6月、イングランド開催のユーロ96に出場。主将のデシャンが中盤底で睨みを効かし、GKバルテズ、デサイー、ブラン、テュラム、リザラスで形成する守備陣は鉄壁。フランスは予選グループで因縁のブルガリアを3-1と打ち破り、準々決勝に進んだ。

準々決勝は延長0-0でオランダにPK戦の勝利。準決勝もチェコと延長を戦って0-0、だが今度はPK戦で敗れてしまう。安定した守備でベスト4入りを果たしたフランスだが、エースストライカー不在が課題となった。

ワールドカップ初優勝

ミランには97-98までの5シーズン在籍。不動のボランチとして、チャンピオンズリーグ優勝、UEFAスーパーカップ優勝、2回のリーグ優勝に貢献した。そして98年夏には、プレミアのチェルシーに移籍する。

98年6月、自国開催のWカップ大会に出場。フランスは総得点9、失点1の好調な内容で1次リーグを3戦全勝。力の違いを見せてベスト16に勝ち上がった。

トーナメント1回戦はパラグアイと対戦。フランスは司令塔のジダンを出場停止で欠くも、中盤を支配して終始攻勢を見せた。しかしチラベルト、ガマラ、アジャラと南米屈指の守備陣を誇るパラグアイから得点を奪えず、ゲームはスコアレスのまま延長に突入する。

延長も後半に入った113分、ピレスのクロスをトレゼゲが頭で合せ、詰めていたブランがゴール。W杯初となる、ゴールデンゴールでの決着だった。

準々決勝の相手はイタリア。堅守を誇るチーム同士の戦いは、またもスコアレスのまま延長戦となった。それでも双方得点が生まれずPK戦へ。フランスが4-3と勝負を制し、準決勝進出を決める。

準決勝ではクロアチアを2-1と撃破、地元フランスが初めてW杯の決勝に進んだ。しかしデサイーとCBコンビを組むブランが、試合終盤にレッドカードで退場。ブラジルとの決勝に不安を残した。

決勝はフランク・ルブフとCBコンビを組んで試合開始。ブラジルは当日の朝に起きたロナウドのアクシデントで集中を欠き、ジダンのヘディング2発でフランスが優位に立つ。

しかし後半の68分、デサイーが2枚目のイエローカードを受けて退場処分。10人となったフランスだが、前掛かりとなったブラジルの裏を突いてプティがダメ押し点。元気のないカナリア軍団を3-0と下し、初の栄冠を手にした。

激闘続きのユーロ2000

98年の夏に移籍したチェルシーでは代表のチームメイト、ルブフとCBコンビを形成。デサイーはキャプテンを任され、UEFAスーパーカップ優勝に貢献する。翌99-00シーズンはデシャンも加わり、FAカップ優勝を果たした。

00年6月、ユーロ2000(ベルギー・オランダ共催)に出場。G/Lでデンマークとチェコに連勝して早くも準々決勝進出を決めると、第3節のオランダ戦では休養となったデシャンに代わってゲームキャプテンを務めた。

準決勝は激戦の末スペインを2-1と撃破。死闘となった準決勝のポルトガル戦は、1-1の延長後半にジダンがPKを決めて、ゴールデンゴールでの勝利を収める。

決勝のイタリア戦は、1点をリードされた後半ロスタイムに起死回生の同点弾。延長103分にトレゼゲのゴールデンゴールが生まれ、フランスがW杯に続くビッグタイトルを手にした。

日韓W杯の屈辱

ユーロ終了後に代表を退いたデシャンのあとを受け、デサイーが新キャプテンに就任。01年6月には日本を破ってコンフェデレーションズカップに優勝する。ちなみに準決勝のブラジル戦では、デサイーが決勝点を挙げている。

しかし鉄壁を誇ったフランスの守備陣も、レギュラーメンバーが皆30歳を過ぎて脚力に衰えが見え始めていた。

02年5月31日、Wカップ・日韓大会が開幕。優勝候補と目されたフランスだが、司令塔のジダンが本番直前に太腿を故障し、G/Lの出場は難しくなった。

初戦はアフリカのセネガルと対戦。後半に入った60分、セネガルのカウンターからルブフが快足FWディウフに抜き去られて失点。フランスの反撃も空回りし、0-1の思わぬ黒星発進となった。

第2戦の相手はウルグアイ。前の試合でジョルカエフが股関節を痛めて欠場、開始16分にルブフが負傷交代し、25分には危険なタックルでアンリが一発退場となる。

1人少なくなったフランスだが、どうにかウルグアイの猛攻を耐えて0-0の引き分け。しかし最終節はアンリとプティが出場停止となり、傷だらけのフランスは瀬戸際に追い込まれてしまった。

第3戦はジダンが復帰。だが負傷が癒えないままの出場で動きは鈍く、試合は0-2の完敗。キャプテンのデサイーは、ついにチームを立て直すことが出来なかった。

アンリ(プレミア)、トレゼゲ(セリエA)、シセ(リーグ・アン)と各リーグの得点王を揃えながら、前大会王者は1点も記録することなく大会を去っていった。

生まれ故郷ガーナへの貢献

04年6月にはポルトガルで開催されたユーロ04に出場するも、デサイーの出番は1試合に留まった。フランスは準々決勝で大会初優勝を果たしたギリシャに敗れ、デサイーは04年を限りに代表からの引退を発表する。

12年の代表歴で116試合に出場、3ゴールを記録。代表キャップ116は、この時点でフランス代表最多記録だった。(現在はテュラムの142キャップが最多記録)

チェルシーには04年まで在籍。そのあとカタールのクラブでプレーし、06年5月に37歳で現役を引退する。

引退後はテレビ解説者として活動。07年からはミランでスカウト業務に従事している。またガーナとフランスを結ぶ親善大使も務め、生まれ故郷に子供達のためのスポーツ施設を開設している。

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