《 サッカー人物伝 》 クラレンス・セードルフ

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「中盤の創造主」 クラレンス・セードルフ ( オランダ )

高い身体能力と巧みな足捌き、そして迫力あるボール奪取で中盤を支配。創造性溢れる長短のパスで攻撃のリズムを刻み、守備にも長けたオランダの万能MFが、クラレンス・セードルフ( Clarence Clyde Seedorf )だ。

無尽蔵のスタミナと優れた戦術眼を持ち、複数のポジションを高いレベルでこなした。ミスのないボール扱いの上手さは特筆もので、簡単にボールを失う場面はほとんどなかったという。また精度の高いミドルシュートで、自らも得点を奪った。

オランダ代表で目立った活躍はなかったが、アヤックス(オランダ)、レアル・マドリード(スペイン)、ACミラン(イタリア)と、異なった3ヶ国のクラブでチャンピオンズリーグ優勝を経験した唯一の選手となっている。

早熟の才能

セードルフは1976年4月1日、南米スリナム共和国の首都パラマリボで生まれた。元サッカー選手の父親ヨハンは代理人業を営んでおり、長男のクラレンスが2歳のとき一家でオランダに移住する。

6歳になると地元アルメレのジュニアクラブに入団。7歳でアヤックスのセレクションを受け、3,500人の狭き門を突破してユースアカデミーの一員となる。

世界でも指折りの指導者と育成環境の中で、セードルフは天賦の才を開花。右MFでU-14、U-16代表に選出されるなど、着実にステップアップしていった。

92年11月、ファン ハール監督に見いだされたセードルフは、エールディヴィジのフローニンゲン戦でトップチームデビュー。16歳242日という、当時アヤックスの最年少プロデビューだった。

当時のアヤックスは若手有望選手の宝庫。その中でもアカデミー出身のスリナム系選手、セードルフ、クライファート、ダーヴィッツの3人は「デ・カベル(ザ・ケーブル)」と呼ばれ、固い友情を結んだ。

トップチームでも着実に力をつけてゆき、3年目となる94-95シーズンにレギュラーの座を獲得。34試合6得点の活躍でリーグ2連覇に貢献する。やたら決まり事にうるさく、話好きなセードルフは、弱年ながら「おじいちゃん」と仲間からあだ名されていたそうだ。

アヤックスはチャンピオンズリーグでも快進撃を続け、22年ぶりの決勝へ進出。前年度王者ACミランとの決勝戦をクライファートのゴールで1-0と破り、クライフ時代以来4度目の欧州クラブチャンピオンに輝いた。

このとき19歳だったセードルフも先発出場を果たすが、後半の53分にカヌーと交代。それに納得出来なかったセードルフは、試合中にもかかわらず監督へ理由を問いただし、周囲を閉口させたという。

シーズン終了後、クラブからの契約更新の申し出を断り、イタリアのサンプドリアに移籍。セリエA挑戦は子供の頃からの目標であり、セードルフはオランダ史上最年少(当時)でその目標を果たした。

セードルフのPK失敗

95-96シーズン、セードルフはサンプドリアで32試合に出場して3得点を記録。潜在能力の高さを証明するも、チームに馴染めず本来の力を出し切れなかった。

だがそんな彼に目をつけたのが、レアル・マドリードのカペッロ監督。カペッロからの熱いラブコールを受け、セードルフは翌96-97シーズン、活躍の場をスペインのリーガ・エスパニョーラに移す。

オランダ代表には、94年12月のユーロ予選・ルクセンブルグ戦でデビュー。5-0と大勝した試合でデビュー戦ゴールを記録している。その後もユーロ予選で3ゴールを挙げ、セードルフは代表レギュラーに定着する。

96年6月、ユーロ96に出場。オランダはG/Lをイングランドに続く2位で勝ち抜け、準々決勝に進んだ。ちなみにイングランド戦は1-4と大敗しているが、唯一の得点はセードルフのものである。

準々決勝はフランスと対戦。デサイー、ブラン、デシャンなど欧州随一の堅守を誇るフランスに、オレンジ軍団の攻撃陣は沈黙。試合は延長を戦っても両者得点は生まれず、PK戦となった。

フランスはジダンなど5人全員が成功。しかしオランダは4人目に蹴ったセードルフが失敗。4-5とPK戦を落とし、準々決勝敗退となった。

レアルでの栄光

ミヤトビッチ、シュケル、ロベカルなど大型補強を行ったレアルで、セードルフに与えられた背番号は10。彼への期待の大きさを表すものだった。

96-97シーズンはリーグ戦全38試合に出場して6ゴールを記録。2季ぶりのリーグ制覇に大きな役割を果たした。ピッチを縦横無尽に駆けるスタミナと、インテリジェンスに溢れたプレーは「7つの肺と明晰な頭脳を併せ持つ男」と称賛された。

97-98シーズンの開幕戦、アトレティコ・マドリードを相手に驚異の40m弾。伸びるライナーでゴールに突き刺さったシュートは、観客の度肝を抜いた。

レアルはこのシーズンの優勝を逃したものの、チャンピオンズリーグでは決勝に進出。決勝の相手はユベントス。戦いの舞台は古巣アヤックスのホーム、アムステルダム・アリーナだった。

デル・ピエロ、インザーギ、ジダン、デシャン、ダーヴィッツらを擁し、当時世界最強と謳われたユベントスの猛攻にレアルは大苦戦。それでもセードルフらの奮闘でその猛攻を耐えた後半の66分、ミヤトビッチのゴールが決まり先制点。このまま守り切って、レアルが32年ぶり7度目となる優勝を果たした。セードルフにとっても2度目のビッグタイトル獲得だった。

この年の12月にはトヨタカップに出場。南米王者ヴァスコ・ダ・ガマ(ブラジル)との戦いでラウルの決勝点を引き出し(2-1の勝利)、自身初となるクラブ世界一のタイトルを得た。

オランダ代表とスリナム系選手

96年10月からWカップ欧州予選が開始。しかし代表のヒディンク監督は、オランダのお家芸となったチームの内紛に苦慮。特にスリナム系の選手が起こすトラブルに悩まされた。

ダーヴィッツは監督に暴言を吐いて代表を離脱。その後ヒディンクと和解してチームに戻ったが、白人選手との対立を続けた。

クライファートはディスコで知り合った女性から、97年に集団婦女暴行罪で訴えられていた。のちに証拠不十分で不起訴となるも、チームでは微妙な立場だった。

セードルフは、W杯予選のトルコ戦でベンチの指示を無視し、勝手にPKを蹴って失敗。試合は0-1と敗れ、チームの統制がとれていないことを明白にしてしまった。

W杯出場は決めたものの、本番に向けて不安材料を抱えるオランダ代表。そこでヒディンクは、ライカールトに代表アシスタントコーチの就任を要請する。

3人にとってライカールトはスリナム系選手の先達であり、若手だったアヤックス時代のお手本。誰にも慕われる彼の人柄は、チーム内の融和を図るのにうってつけだった。

この融和策が功を奏したのか、オランダは98年のWカップ・フランス大会で大きな騒動を起こすこともなく、ベスト4入りの好成績を残す。

しかし代表の10番を背負いながら、セードルフの先発出場は7試合中3試合に留まった。ヒディンク監督の信頼を得られず、目立った活躍もないまま大会を終えてしまったのである。

出しゃばりプレジデント

大会終了後の98-99シーズン、ヒディンク監督がレアル・マドリードの指揮官に就任。レギュラーを外されたセードルフの出番は徐々に減っていった。ヒディンクは成績不振でシーズン終了を待たずに解任となるも、セードルフの置かれた立場が変わることはなかった。

知的で人懐っこいセーフドルではあったが、とにかく口数が多くて出しゃばりなのが欠点。コーチが練習の説明を始めると、我慢できずに「それよりも・・」と口出し。チームメイトたちにも指図をし、「エル・プレジデンテ(大統領)」と名付けられて、煙たがれるようになっていた。

またある試合のハーフタイムでは、監督に向かって戦術を解説。「それならお前がやれ!」とキレられたこともあったという。

99年12月、シーズン途中でレアルからイタリアのインテル・ミラノに移籍。リッピ監督の信頼を得てレギュラーの座を獲得し、99-00シーズンのコッパ・イタリア準優勝に貢献する。

だが、混迷期にあったインテルで実力を充分発揮することが出来ず、唯一インパクトを残したのは、02年3月のユベントス戦でドローに持ち込んだ2ゴールのみであった。

インテルでは2シーズンを過ごし、02-03シーズンにフランチェスコ・ココとのトレードで、ライバルチームのACミランへ移籍する。

代表で出番を失った10番

00年6月、ライカールト監督率いるオランダは、自国開催(ベルギーと共催)のユーロ2000に出場。セードルフはG/L初戦のチェコ戦に先発出場するも、精彩を欠いて後半の57分に交代。チームは準決勝まで進んだが、彼に出場の機会は与えられなかった。

代表で中盤右サイドのポジションを与えられていたセードルフだが、いつの間にか中央に寄って試合を仕切ろうとする悪いクセがあった。

また上手すぎるせいか、時に手を抜いているかのようなプレーが自国サポーターに不評。使いにくい選手として、チームでの出番を失ってしまったのだ。

その後ファン ハール監督のもとで代表レギュラーの座を得るが、オランダはW杯欧州予選で敗退。02年のWカップ・日韓大会に出場することは出来なかった。

ACミランの中核

ルイ・コスタリバウド、ピルロなど中盤にタレントを揃えるミランで、決して期待が高くなかったセードルフだが、やがてチームで重要な役割を果たすようになる。

アンチェロッティ監督は、司令塔のピルロを中盤底のポジションにコンバート。レジスタとして中盤の深い位置からゲームを組み立てさせた。

そして中盤の右左にセードルフとガットゥーゾを配置。二人の豊富な運動能力と守備力でピルロの弱点をカバーした。またセードルフの積極的な攻撃参加は、戦術に厚みをもたらす。

02-03シーズンは、ミランの26年ぶりとなるコッパ・イタリア優勝に貢献。同年のチャンピオンズリーグでもチームは決勝へ進出する。オールドトラッフォードで行われたファイナルは、ユベントスとの同国ライバル対決となった。

負けないサッカーに徹する両チームの戦いは、延長を終わっても0-0のまま。決着はPK戦に持ち込まれた。2人目に登場したセードルフはPKを失敗、それでも守護神ジダがユベントスの3本を止め、ミランが9シーズンぶり3度目の優勝。セードルフは異なった3チームでCL制覇を果たした。

12月には南米王者のボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)とトヨタカップを戦うが、ミランはPK戦で敗北。セードルフはピルロ、コスタクルタとともにPKを外している。

翌03-04シーズン、ミランは5シーズンぶりのスクデットを獲得。アンチェロッティ監督から絶大な信頼を得たセードルフは、世界屈指のスター軍団の中で、確固たる地位を築いていった。

04-05シーズンもCL決勝に進むが、リバプールに「イスタンブールの悲劇」と呼ばれる歴史的敗戦。セードルフは後半の85分に交代し、最後のPK戦には参加していない。

4度目のCLチャンピオン

04年6月にはユーロ04に出場。セードルフは5試合中4試合に先発出場して、ベスト4進出に貢献する。しかし大会後に就任したファン バステン監督の評価は低く、06年のWカップ・ドイツ大会のメンバーには選ばれなかった。

その後クラブでの活躍が認められ、06年11月に代表へ復帰。07年のユーロ予選に参加するも、若手選手を重用するファン バステン監督と対立。ユーロ08(オーストリア・スイス共催)開催前に代表辞退を発表する。15年の代表歴で87試合に出場、11ゴールを記録している。

06-07シーズン、チャンピオンズリーグを順調に勝ち上がったミランは、準々決勝でバイエルン・ミュンヘンと対戦。ホームでの第1レグは、終盤までリードしながら追いつかれて2-2の引き分け。アウェーで戦う第2レグが苦しくなった。

だが前半の27分、Pエリア前でボールを受けたセードルフが、DFの股間を抜く鮮やかなシュートで先制。さらにその4分後、縦パスからノールックで背中のインザーギにスルーパス、追加点をアシストする。ミランはバイエルンに2-0の快勝、セードルフのスーパープレーで準決勝進出を決めた。

準決勝は、マンチェスター・ユナイテッドを2戦合計5-3で撃破。セードルフも1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献している。

そして決勝戦は、CL因縁の相手であるリバプールとの戦い。試合はインザーギの2ゴールでミランが勝利、2年前の雪辱を果たした。セードルフは、4度目となる欧州クラブチャンピオンのメンバーとなる。

この年の冬には、日本で行われたクラブワールドカップに参加する。準決勝はセードルフのゴールで浦和レッズに1-0の勝利。決勝ではボカ・ジュニアーズを4-2と下し、4年前にトヨタカップで敗れた借りを返した。

指導者への道

セードルフは10-11シーズンのスクデット獲得にも重要な役割を果たし、ミラノでで9シーズンを過ごした。12年夏にはクラブとの契約が終了し、ブラジル(妻ルビアナの母国)のボゴダフォへ移籍する。

ボゴダフォでは人生初のハットトリックを決めるなど、リオ州選手権優勝に貢献。そしてブラジルで2シーズンをプレーした14年1月、ACミランからの監督就任要請を受け、37歳で現役を引退した。

13-14シーズン途中からチームを引き継ぎ、本田圭佑、バロテッリの在籍するミランを指揮したセードルフだが、中位に停滞するミランを浮上させることが出来ずタイトル無冠。リーグ戦終了後の6月に解任となった。

その後、中国の深圳、スペイン2部・デポルティーボの監督を歴任。18年にはガーナ代表監督に就任し、盟友のクライファートをアシスタント・コーチに迎えた。しかし19年のアフリカ・ネイションズカップで結果が残せず、大会終了後に退任している。

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