《 サッカー人物伝 》 ファン・セバスティアン・ベロン

「 スキンヘッドの魔法使い 」ファン・セバスティアン・ベロン( アルゼンチン )

スキンヘッドで髭面というコワモテだが、魔法の右足でエレガントに試合を組み立てた。テクニックに長けたゲームメーカーでありながら、疲れを知らないスタミナとファイティング・スピリットで裏方的な役割も受け持った多才なMFが、ファン・セバスティアン・ベロン( Juan Sebastián Verón )だ。

アルゼンチンで早くから頭角を現し、イタリアに渡ってブレイク。正確無比な中長距離のパスで攻撃を操り、パルマやラツィオにタイトルをもたらした。その後移籍したマンチェスター・ユナイテッドで評価を落としてしまったが、母国アルゼンチンで輝きを取り戻す。

アルゼンチン代表でWカップに3度出場。98年フランス大会は司令塔としてチームのベスト8進出に貢献するも、優勝候補として臨んだ02年日韓大会では力を出し切れなかった。8年ぶりに出場した10年南ア大会では、ベテランとしてチームを支える。

小さな魔法使い

ベロンは1975年3月9日、ブエノスアイレス州の州都ラ・プラタで生まれた。父親のファン・ラモン・ベロンは、コパ・リベルタドーレス3連覇を果たした強豪エストゥディアンスの中心選手。

名ウィングだった父親が、華麗な足技と大きなわし鼻から “ブルハ(魔法使い)” の愛称で親しまれていたことから、のちにプロ選手となった息子セバスティアンも、“ブルヒーター(小さな魔法使い)” と呼ばれるようになる。

父親が移籍したコロンビアで4年間を過ごし、その後アルゼンチンに戻ると、エストゥディアンスのユースチームに入団。18歳でクラブとプロ契約を交し、93年にロザリオ・セントラル戦でトップチームデビューを飾った。

しかしこの年のチームは成績不振、下位に低迷し2部リーグ降格となってしまった。94-95シーズン、チームの主力に成長したベロンは、若きエースのパレルモとともに1部リーグ復帰に貢献する。

そして高いテクニックとゲームメーカとしての能力が評価され、95-96シーズンの途中にはアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズへの移籍を果たす。

当時のボカには、憧れのマラドーナやカニーヒアといった名選手たちが在籍。ベロンは実戦を通して彼らの華麗なプレーを学んでいった。またボカのカルロス・ビラルド監督は、父ラモンの元チームメイト。ベロンのことも幼い頃からよく知っていた。

途中加入したボカでは17試合に出場して4ゴールを記録。翌96-97シーズンにはサンプドリアからオファーが舞い込み、マラドーナの助言を受けて21歳でセリエAに挑戦することになった。

欧州挑戦の1年目

アルゼンチン代表には96年に初招集。6月20日のポーランド戦で代表デビューを飾った。またU-23の代表選手としてオリンピックの南米予選に参加。アルゼンチンは96年のアトランタ五輪で銀メダルを獲得したが、サンプドリア移籍が重なったベロンは大会に出場していない。

サンプドリアではチームに馴染めず、ベロンはなかなか実力を発揮できずにいた。しかし彼の多才な能力を高く評価するエリクソン監督は、根気よくベロンを試合に起用し続けていった。

その期待に応え、1年目のシーズンは32試合に出場して5ゴールを記録。翌97-98シーズンは29試合で2ゴールながら、チームの中核としての地位を確立する。

そしてサンプドリアでの顕著な働きがイタリアで注目されるようになり、98-99シーズンにはパルマACに移籍した。

アルゼンチン代表での台頭

アトランタ五輪出場は逃したが、同年から始まったW杯南米予選では、中盤の右サイドとして代表に定着。ベロンの精度の高いロングキックは、細かいパス回しを身上とするアルゼンチンのアクセントとなった。

パサレラ監督の信頼を得たベロンは、代表の攻撃に厚みを増す存在として主力に成長。同世代のエルナン・クレスポアリエル・オルテガ、クラウディオ・ロペスとともに、アルゼンチンの予選1位突破に貢献する。

また、やんちゃな性格とセクシーな見た目から女性人気も高く、この頃から「アルゼンチン代表のセックス・シンボル」と呼ばれ、自国の美女たちと浮き名を流し始めた。

Wカップを1ヶ月後に控えた4月には、敵地のマラカナン・スタジアムでブラジルと対戦。守備的に戦った試合は無得点のまま引き分けになるかと思えたが、後半の84分、ベロンが深い位置から前線のC・ロペスへ40mのロングパス。決勝点のお膳立てをした。

ワールドカップの激闘

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。ベロンはシメオネとともにダブルボランチを組んだ。初戦の日本戦は慎重な戦いで1-0の勝利、第2戦のジャマイカ戦はバティストゥータのハットトリックとオルテガの2得点で5-0の大勝を収める。

控え選手中心で臨んだ最終節のクロアチア戦も1-0と勝利、3戦全勝でグループリーグを勝ち上がった。

トーナメントの1回戦はイングランドと対戦。2-2の同点で迎えた後半の47分、シメオネの挑発に乗ったベッカムが一発退場。しかしアルゼンチンの攻撃は、10人になったイングランド必死の守りに阻まれ、勝負はPK戦に持ち込まれる。

アルゼンチンはベロンら4人がPKを成功。GKロアがイングランドの2本を止め、120分あまりの戦いを制す。

準々決勝はオランダとの戦い。前半12分にクライファートのゴールで先制されるも、その5分後、ベロンのロングボールからC・ロペスが同点弾。後半72分にオランダのヌーマンが警告2枚で退場となり、アルゼンチンが優位に立ったかに思えた。

しかし終盤の87分、Pエリアでのダイビング行為を咎められたオルテガが、ファン デルサールに暴力行為。一発退場となってしまった。その直後、F・デ ブールのロングフィードをベルカンプが芸術的なトラップから決勝弾。アルゼンチンはベスト8敗退となった。

それでもベロンは全5試合にフル出場。ゲームを組み立てるだけではなく、豊富な運動量と確かな戦術眼であらゆる局面に顔を出し、チームをサポート。多才な能力を世界に知らしめた。

栄光の落とし穴

パルマでは、盟友クレスポとともに中心選手としてプレー。90年代後半より積極的な補強を続けていたチームは、ブッフォン、カンナバーロテュラム、キエーザ、アスプリージャといったタレントを揃え、98-99シーズンのコッパ・イタリア優勝とUEFAカップ優勝を果たす。

翌99-00シーズン、恩師エリクソンが監督を務めるSSラツィオに移籍。ラツィオには代表の同僚であるアルメイダ、センシーニ、シメオネらが在籍しており、ベロンはすぐにチームへ溶け込んだ。

さっそくシーズン最初には、UEFAスーパーカップを制覇。リーグ戦でもユベントスと優勝争いを演じた。一時9ポイント差をつけられるも、後半戦に失速したユーベを猛追する。

そして首位ユーベに2ポイント差と迫ったリーグ最終戦。2位のラツィオがレジーナに3-0と勝利したのに対し、ユベントスは格下ペルージャにまさかの敗戦。ラツィオは逆転で26年ぶり2度目となるスクデットを獲得。さらにコッパ・イタリア優勝も果たす。

00-01シーズンはアルメイダとセンシーニがチームを去るが、クレスポとC・ロペスの2人が加入。ベロンとの強力タッグが期待された。だがこのとき、ベロンに偽造パスポート使用疑惑が持ち上がる。

00年3月、ウディネーゼの南米選手が使っていたパスポートが偽造されたものだと発覚。セリエAの外国人選手(EU外)出場枠は3人、イタリア国籍を取得するためのパスポート偽造が横行していたのだ。

ベロンやウルグアイのレコバにも疑いの目が向けられたが、翌年にようやく無実だと認定される。また同じ頃には、エリクソンがイングランド代表監督のオファーを受け、ラツィオを辞任する。

これらの出来事はベロンのメンタルに影響を与え、プレーは安定を欠いていった。そのためリーグ戦の出場は、故障もあって前シーズンの31試合から22試合に激減。ラツィオも3位で連覇はならなかった。

失望の中にあったベロンだが、翌01-02シーズンにファーガソン監督のラブコールを受けて、プレミアの名門マンチェスター・ユナイテッドへ移籍する。

優勝候補アルゼンチンの敗退

02年6月、Wカップ・日韓大会に主将として出場。ビエルサ監督率いるアルゼンチンは、イングランド、スウェーデン、ナイジェリアと同居する「死のグループ」に入った。

G/L初戦の相手はナイジェリア。後半の68分、ベロンの左CKからバティストータがヘッドでゴール。これが決勝点となり、アルゼンチンは白星スタートを飾った。

第2戦は、エリクソン監督が指揮するイングランドとの戦い。前半終了直前の44分、Pエリア突破したオーウェンがアジャラに体を寄せられて転倒。イングランドにPKが与えられた。「わざと転んだ」と抗議するアルゼンチンの訴えは認められず、主将のベッカムに決められリードを許してしまう。

足首を痛めたベロンは前半で交代。後半は圧倒的に攻めまくるアルゼンチンだが、全員で守るイングランドを崩せず、0-1の敗戦となってしまった。

最終節のスウェーデン戦、負傷の癒えないベロンは欠場した。試合は1-1と引き分け、3位に沈んだアルゼンチンはまさかのG/L敗退。優勝候補はあっけなく大会から消えていった。

大会後ビエルサは監督を退任。後任のホセ・ペケルマン監督は教え子であるリケルメアイマールを重用し、ベロンが代表に呼ばれることはなくなった。

低迷からの復活

大きな期待を受けてユナイテッドに入団したベロンだが、ベッカムギグススコールズロイ・キーンと分厚い中盤を誇るチームにあって、本来のパフォーマンスを発揮することが出来なかった。

02-03シーズンユナイテッドは2季ぶりのリーグ優勝を果たすも、目立った活躍のなかったベロンは蚊帳の外。ファーガソン監督の信頼も失っていった。

03-04シーズンにはチェルシーへ移籍。ベロンに使われた移籍金は、2年前の半額と価値が暴落していた。ここで3たびクレスポと一緒になるが、チームに馴染めず、04-05シーズンはイタリアのインテル・ミラノにレンタルされる。

インテルでは2シーズンをプレー。05年のカルチョポリスキャンダルを逃れた名門クラブで、セリエA優勝とコッパ・イタリア2連覇を経験。06年6月にはインテルを退団し、アルゼンチンへ帰国。古巣であるエストゥディアンスと契約する。

エストゥディアンスではさっそく主力として活躍。12月の優勝決定戦ではボカ・ジュニアーズを2-1と破り、23年ぶりのリーグ制覇を果たす。

07年6月、ベネズエラで開催されたコパ・アメリカで、5年ぶりに代表へ復帰した。ベロンはカンビアッソ、マスケラーノと3ボランチの一角を担い、アルゼンチンの決勝進出に貢献。決勝ではドゥンガ監督率いるブラジルに0-3と敗れるが、33歳のベテランは健在ぶりを見せつけた。

現役最後の輝き

その後もエストゥディアンスで活躍を続け、08年には南米年間最優秀選手賞を受賞。09年はコパ・リベルタドーレスでチームを39年ぶり4度目の優勝に導き、UAEで行われたクラブワールドカップでは準優勝。ベロンは2年連続の南米年間最優秀選手賞に輝く。

10年6月、8年ぶりとなるWカップ・南アフリカ大会に出場。指揮官はかつてボカでプレーを学んだマラドーナだった。

第1戦のナイジェリア戦から先発出場。中盤底でメッシを支え、1-0の勝利に貢献する。第2戦の韓国戦は右ふくらはぎを痛めて欠場。不在となった司令塔の代わりをメッシが務め、試合は4-1で連勝を収めた。

G/L最終節のギリシャ戦は先発に復帰。ベロンの老獪なゲームメイクにより、終始ゲームの主導権を握り続けたアルゼンチンは、2-0の快勝でG/L1位突破を果たす。

トーナメント1回戦のメキシコ戦はベンチスタート、3-0とリードした後半69分からの出場となった。準々決勝はドイツに0-4と完敗、試合終了までベロンの出番は訪れなかった。

マラドーナ監督は、決勝Tから3トップの攻撃的布陣を採用。はじき出される形となったベロンだが、このことがメッシの負担を増やし、期待されたエースにゴールは生まれなかった。

ベロンはこの大会を最後に代表から引退。代表では73試合に出場し、9ゴールを記録している。

12年4月にエストゥディアンスで現役を引退すると、クラブのスポーツディレクターに就任する。その後短期間の現役復帰を果たし、14年5月に2度目の現役引退を発表。この年の10月にはエストゥディアンスの会長に就任、しかし16年12月に再び現役に復帰した。

そして42歳でコパ・リベルタドーレスに出場、5試合を戦った。17年10月にエストゥディアンスの会長に再任。21年3月に会長職を辞し、現在は副会長としてクラブに携わっている。

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