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《 サッカー人物伝 》 ラディスラオ・クバラ

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「伝説となった亡命者」ラディスラオ・クバラ(ハンガリー/チェコスロバキア/スペイン)

頑丈な身体と敏捷性を備え、パワフルなシュートを武器としたインサイド・フォワード。50年代バルセロナに数々の栄光をもたらし、クラブの伝説となったプレイヤーが、ラディスラオ・クバラ( Ladislao Kubala Stecz )だ。

24歳で東欧から亡命。その後入団したバルセロナでは、アグレッシブなプレーとボールテクニックでカタルーニャのサポーターを魅了した。そしてチームを4度のリーグ制覇、5度のカップ優勝、フェアーズカップ(UEFAカップの前身)連覇に導き、クラブで絶大な人気を誇った。

Wカップの出場はなかったが、生まれ故郷のハンガリー、移住したチェコスロバキア、亡命先のスペインと、異なった3ヶ国で代表キャップを刻むという異色の経歴を持つ。

コスモポリタンの誕生

クバラは1927年6月10日、ハンガリー王国の首都ブダペストで生まれた。ちなみに、ハンガリー代表最強チーム「マジック・マジャール」の中心選手であるフェレンツ・プスカシュも、同い年で同じブダペストの生まれである。

工場労働者の両親はハンガリー、スロバキア、ポーランドにルーツを持ち、のちに自らを「コスモポリタン(世界市民)」と称するようになったクバラ。彼の母国にこだわらない精神は、生まれつきのものだった。

11歳のときハンガリー3部リーグのガンズTEに入団。ボクシングのトレーニングで体を鍛えていたクバラは、その頃から3~5歳上の選手とプレーしていたという。

17歳となった44年、ハンガリーの名門フェレンバーロスに移籍。このときチームメイトになったのが、のちに「マジック・マジャール」の点取り屋となるシャンドール・コチシュである。

フェレンバーロスではデビューシーズンに19ゴールを挙げる活躍を見せるも、46年にチェコスロバキアのブラティスバラに移籍。チェコスロバキアは父親の生まれ故郷、クバラがハンガリーでの兵役を嫌って移籍したと言われている。

そしてブラティスバラ入団後、クバラはクラブとナショナルチームの監督を兼任するフェルナンド・ダウチクに呼ばれ、チェコスロバキア代表のユニフォームに袖を通す。そして46年10月27日のオーストリア戦で代表デビューを飾った。

チェコスロバキア代表では、6試合に出場して4ゴールを記録。やがてクバラはダウチク監督の妹アンナと結婚し、息子ブランコも生まれた。

自由への逃避行

48年、ハンガリー政府に呼び戻されたクバラは、妻子とともに帰国。ブダペストのバシャシュSCでプレーすることになった。ハンガリー代表にも招集され、5月のチェコスロバキア戦に出場。ハンガリー代表では3試合のキャップを刻んでいる。

第2次大戦終了後の46年に、占領下に置かれたハンガリーの王制が廃止。その後ソビエト軍の駐留が続き、国家体制は共産主義の色を強めていく。

そして49年には、共産党独裁によるハンガリー共和国が成立。モスクワ支配と自由の抑圧に嫌気の差したクバラは、西側への亡命を決意する。

49年1月、偽のパスポートを手にしたクバラは、妻子を残して寒風吹き荒れる冬のアルプス越えを決行。目的地はオーストリアのインスブルック、当時アメリカ軍の占領地だった。

だがクバラら亡命希望者を乗せたトラックが、国境付近で立ち往生。雪と氷に覆われた逃走路を徒歩で突破するという、苛酷な道行きとなった。

スペルガの悲劇

ハンガリーに残した妻子とはイタリアで落ち合う手はずとなり、セリエAのプロ・パトリアでプレーしながら家族の合流を待った。このチームで顕著な活躍を見せたクバラのプレーは、すぐにイタリア名門クラブの興味を引くことになる。

そして当時欧州最強を誇り「グランデ・トリノ」と謳われたACトリノから、ポルトガル・SLベンフィカへの遠征試合に招待したいとのオファーが彼に舞い込む。もちろん費用は全部クラブ持ち、契約が前提の申し込みだった。

クバラはすぐにそのオファーを受け入れるが、出発直前に家族がイタリアに到着する。妻アンナは幼い息子をタイヤに隠し、ドナウ川を泳いで渡るという命がけの逃避行。クバラは疲れ果てた妻と衰弱した息子を看るため、遠征試合への参加を断念した。

この決断は、クバラの命を救うことになる。ポルトガル遠征を終えたACトリノの一行を載せた旅客機が、トリノ郊外の丘陵地に建つスペルガ聖堂に激突。主将ヴァレンティノ・マッツォーラ(サンドロ・マッツォーラの父)ら選手18名を含む搭乗31人が全員死亡するという、悲劇的な事故(スペルガの悲劇)が起きたのだ。

亡命者から英雄へ

もしこの事故が起きなかったとしても、クバラがすぐにトリノでプレーする可能性はなかった。ハンガリーサッカー協会からの申し立てが認められ、FIFAより1年間の公式戦出場停止処分を受けてしまったのだ。

だがその頃、恩師で義兄のダウチク監督が西側に亡命。ダウチクはハンガリー、チェコ、ロシア、ブルガリア、ルーマニアなど東側から逃れてきた選手を集め、50年に「第7旅団チーム」(通称ハンガリア)を結成。クバラを中心とした “ハンガリア” はスペインツアーを行い、レアル・マドリードやエスパニョール、スペイン代表などと興行試合を催した。

このときクバラの卓越したプレーに着目したレアルは、チームへの入団を打診。しかしFIFAから制裁を受けている選手の扱いにクラブ首脳陣の意見がまとまらず、もたもたしているうちにライバルのバルセロナがオファー。バルサはクバラの出したダウチクを監督にするとの条件を即座にのみ、50年6月に契約を交す。

クバラにはハンガリー協会との問題が残っていたが、バルサが政府の力を借りてスペイン国籍の遅滞ない取得を画策。こうしてスペイン国籍を取得したクバラは、51年4月にリーガ・エスパニョーラデビューを果たす。

この年のコパ・デル・ジェネラリスモ(総統杯、現コパ・デル・レイ)では、7試合6ゴールの活躍で優勝に貢献。クバラはさっそく最初のトロフィーを手にした。

リーグ戦に本格参入となった51-52シーズン、入団のいきさつより非難を受けたクバラは、メディアや観客から強烈なブーイングを受けてしまう。

それでも第2戦の強豪ビルバオ戦では、ドリブルで抜いての強烈なロングシュートを決めリーグ戦初ゴール。啞然とする観客の度肝を抜いた。

しかし敵地の試合ではスタンドから汚いヤジが投げつけられ、相手選手からは遠慮ないタックルが繰り返された。しかも審判には明らかなファールでも見て見ぬ振りをされ、負傷で途中交代する試合が続く。

だが怪我に強いクバラは、負傷をしてもすぐに試合に復帰。故障明けのゲームとなった52年2月のヒホン戦(9-0の勝利)では、一人で7得点を記録。これは今でもスペインリーグの記録である。

クバラは痛めつけながらも、26試合に出場して19ゴール、リーグ制覇に貢献する。またバルサはこの他にも、コパ・デル・ジェネラリスモ、コパ・エヴァ・デュアルテ(国内スーパーカップ)、ラテン・カップ(南西ヨーロッパクラブのチャンピオンシップ)、コパ・マルティーニ・ロッシ(クラブ国際親善大会)のタイトルを獲得。

5冠制覇の立役者となったクバラ。開幕当初亡命者に浴びせられた罵声は、シーズンが終わる頃には称賛へと変わっていた。

クバラと「マジック・マジャール」

翌52-53シーズン、クバラは結核を患ってしまいチームを長期離脱。実戦への復帰は困難だと思われた。しかしシーズン最終盤に奇跡の回復、チームのリーグ2連覇を助け、コパ・デル・ジェネラリスモ3連覇にも寄与した。

スペイン代表には53年7月に招集され、5日の親善試合アルゼンチン戦で初出場を果たす。スペイン代表では61年までの9年間で19試合に出場し、11ゴールを記録。57年11月のトルコ戦(3-0の勝利)ではハットトリックを達成している。

しかし国内リーグの隆盛に対し、当時スペイン代表の成績はいまひとつ。Wカップは54年大会、58年大会と連続で本大会出場を逃し、クバラが大舞台のピッチに立つことはなかった。

54年のWカップ・スイス大会では、当時欧州で無敵を誇り「マジック・マジャール」と恐れられた故郷のハンガリーチームが、優勝候補の筆頭と目されていた。結局決勝で西ドイツに負けて準優勝に終わってしまうが、もしクバラがハンガリーチームにいたら、おそらく優勝していただろうと言われている。

しかしクバラ自身は「ハンガリーを離れたことに、後悔はない」と後年語っている。

カンプノウのレジェンド

バルセロナで英雄となった亡命者には、「クバラマニア」と呼ばれる熱狂的なファンが生まれた。宿敵レアル・マドリードのレジェンド、アルフレッド・ディ・ステファノはクバラを “強い男” と表現、「砲弾を持ってしても彼を倒すことは出来ないだろう」と讃えている。

ホームのラス・コルツには、その雄姿を見るために多くの「クバラマニア」が詰めかけた。やがて6万人の収容規模を持つスタジアムも、押し寄せる観客に対処しきれなくなり、クラブは市内にあるラス・コルツの土地を売って新スタジアム建設に着手。そして57年9月、10万人の収容規模を誇る郊外の新本拠地、 “カンプノウ(新しいスタジアムの意)” へ移転する。

しかしこのとき、ディ・ステファノ、プスカシュ、レイモン・コパ、フランシスコ・ヘントといったスター選手を揃えたレアル・マドリードが、リーグタイトルを独占。55-56シーズンから始まったチャンピオンズカップでも、3連覇を達成していた。

それに対抗すべく、バルサは58年にエレニオ・エレラ監督を招聘。のちにイタリアで「グランデ・インテル」の時代を築き、カテナチオ戦術を確立することになる名将である。

規律に厳しいエレラ監督は、選手に厳格な自己管理を要求。飲酒や喫煙を禁じた。その方針にクバラは真っ向から対立。バルサの英雄は酒と夜遊びを愛し、それを通して仲間との結束を強めるのが彼の流儀だった。

当然エレラ監督はクバラのやり方を認めず、チームの主力から外した。そしてクバラが呼んだ「マジック・マジャール」のメンバー、コチシュとチボール、若手のルイス・スアレス、ブラジル出身のエヴァリストといった選手を中心に据え、58-59、59-60シーズンのリーグ連覇を達成。59年にはコパ・デル・ジェネラリスモ優勝とフェアーズカップ2連覇も果たした。

59-60シーズンのチャンピオンズカップでは、準決勝で宿敵レアル・マドリードと対戦。しかしクバラを外して臨んだこの戦いで、バルサは2戦合計2-6の惨敗。これはエレラ監督にとって致命傷となった。

このあとクラブはエレラ監督を解任。頑固な性格からメディアやソシオと確執を続けていたのに加え、チームの象徴であるクバラを使わなかったことが、クラブ首脳陣の不興を買ってしまったのだ。

翌60-61シーズンのチャンピオンズカップ、バルサはトーナメントの1回戦でレアルと対戦。2戦合計4-3でついに宿敵を打ち破った。レアルはここまでチャンピオンズカップを5連覇。バルサは大会で無敵を誇った強豪を、初めて敗退に追い込んだチームとなった。

このあとバルサは決勝まで進むも、ベンフィカに2-3と敗れて惜しくも準優勝。そしてクバラはこの大会を最後に、35歳で現役からの引退を発表する。

クバラの引退試合は、61年8月30日に超満員のカンプノウで行われた。この試合には特別招待選手として、ディ・ステファノとプスカシュが参加している。

バルサには11年間在籍、349試合に出場し272ゴールを記録した。そしてクラブに多くのタイトルをもたらし、カタルーニャ人に愛される伝説となった。

指導者としての後半生

このあとクラブのユースコーチを経て、バルサの監督に就任。しかしフェアーズカップで敗退を喫し、監督を解任されると63年に現役へ復帰する。そしてカナダのトロント、スペインのエスパニョール、スイスのチューリッヒで兼任監督としてプレーし、69年に2度目の引退となった。

引退後、スペイン代表監督に就任。その後11年にわたってナショナルチームの指揮官を務め、78年のWカップ・アルゼンチン大会では、選手時代に叶わなかった大舞台の試合を経験する。

そのあともクラブ監督を歴任。95年には68歳でパラグアイ監督に就任し、それを最後に指導者のキャリアを終える。

晩年はバルサOB選手会の会長を務め、02年5月17日、バルセロナ市内の病院で死去。享年74歳だった。

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