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《 サッカー人物伝 》 ギジェルモ・スタービレ

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「ワールドカップ初代得点王」ギジェルモ・スタービレ(アルゼンチン)

1930年のウルグアイ大会から始まったFIFAワールドカップ。その初代得点王となったのが、アルゼンチンのストライカー、ギジェルモ・スタービレ( Guillermo Antonio Stábile )だ。

圧倒的なスピードと天性のセンスを持ち、いつの間にか相手ゴール前に現れることから「エル・フィルトラドール(侵入者)」の異名をとった。第1回W杯のメキシコ戦でハットトリックを達成。アルゼンチンは準優勝に終わったものの、4試合で8得点を挙げて得点王に輝く。

W杯の活躍によりイタリアのジェノアへ移籍、欧州でも絶大な人気を誇った。引退後は指導者の道に進み、アルゼンチン代表監督に就任。コパ・アメリカ優勝6回の輝かしい実績を残している。

キャリアの開始

スタービレは1906年1月17日、ブエノスアイレス南区のパルケパトリシオで生まれた。地元クラブ、スポルティボ・メタンでキャリアを開始。20年に名門CAウラカンのユースチームに移籍し、18歳となった24年にトップチーム入りする。

そこでポジションを右ウィングからCFに移すと、天性の得点能力を発揮。25年と28年のプリメーラ・ディビシオン(アルゼンチン1部リーグ)優勝、コパ・イバルグレン(プリメーラとロザリオの2大リーグ対抗戦)優勝に貢献。ウラカンに在籍した6年間で119試合に出場し、102ゴールを記録した。

独特のポジショニングと得点感覚を持ち、「侵入者」のあだ名通り、いつの間にかゴール前に現れてゴールを奪っていったスタービレ。俊敏な身のこなしと確実なボールコントロールも際立っていた。

第1回ワールドカップ大会

1930年7月、隣国ウルグアイでワールドカップ第1回大会が開催。25歳のスタービレも代表メンバーに選ばれた。

ちなみに当時の勢力図は、アルゼンチンとウルグアイが南米サッカーの2大強国。南米選手権とオリンピックでしのぎを削り合っていた両者は、強烈なライバル関係にあった。ちなみにブラジルがサーカー王国となるのは、もうしばらく先の話である。

グループリーグ初戦の相手は、2週間に及ぶ船旅で大西洋をはるばる渡ってきたフランス。だがこの試合で出場したFWは、ボカ・ジュニアーズの点取り屋ロベルト・チェロ。プリメーラ得点王3回を誇るアルゼンチン屈指のFWだった。

当時、試合途中での選手交代は認められておらず、先発を外れたスタービレが記念すべきW杯初戦のピッチに立つことはなかった。

アルゼンチンはハーフバックのルイス・モンティが、良くも悪くも目立つ活躍。荒っぽいタックルで相手選手2人の脚を痛めつけ、ゲームの主導権を掌握。81分に訪れたFKのチャンスには、壁作りにもたつくフランスの間隙を突いて得点を決める。

追い込まれたフランスだが、その3分後、FWランジェールがドリブル突破でゴールへ疾走。フランスの同点ゴールが生まれるかに思えた。しかし彼がゴールに迫った瞬間、試合終了を告げるホイッスル。しかし時間はまだ6分残っていた。

突然鳴り響いたホイッスルに会場内は騒然。アルゼンチンサポーターが大喜びする中、フランスの選手がブラジル人主審に詰め寄り猛抗議、騎馬警官も顔を出すという事態となる。

30分近い中断のあと、主審が誤りを認めて試合を再開。だがフランスはすでに戦意を失っており、試合はこのままアルゼンチンの勝利で終わった。

世界への登場

このあと、アルゼンチン主将のマヌエル・フェレイラが私的事情により帰国。またエースのロジェがパニック障害に陥り、4日後に行われる次戦への出場が不可となってしまう。

思わぬ形でチャンスを得たスタービレは、第2試合のメキシコ戦に出場。これがスタービレの代表デビュー戦となった。

開始8分、スタービレはいきなり代表初ゴールを記録、その9分後にも得点を挙げた。そしてアルゼンチンがメキシコを5-3とリードした後半の80分、スタービレはダメ押し点を決めてハットトリックを達成する。

これは長い間ワールドカップのハットトリック第1号とされてきたが、その後の調査で訂正。2日前のアメリカ対パラグアイ戦で、パテナウデ選手(アメリカ)が決めた3得点が現在では第1号と認定されている。

メキシコ戦の主審を務めたサウセド(ボリビア)は、拙いジャッジで5つものPKを乱発。80分にアルゼンチンのPKが宣告されたときには、我慢できなくなった観客がグラウンドに乱入したと伝えられる。W杯と言っても、世界各地から集められた審判たちの技量は玉石混淆だった。

G/L最終節はチリと対戦。2戦連続出場となったスタービレは、前半の12分、13分と立て続けに得点を記録。だが15分にチリのエース、ギジェルモ・スビアブレに1点返され、前半を2-1で折り返す。

後半開始の47分、モンティがジャンプした選手に蹴りを入れるというラフプレー。両軍入り乱れての乱闘となり、警察の介入でようやく騒ぎが鎮められた。

試合再開後、アルゼンチンが追加点を入れて3-1の勝利。G/L全勝を収めたアルゼンチンは、トーナメントの準決勝に進む。

準決勝はアメリカとの戦い。決してサッカー強国とは言えないアメリカだが、この大会ではプロ経験のある英国出身選手を多数補強。強靱なフィジカルを押し出した英国流サッカーで、準決勝に勝ち上がっていた。

しかし試合が始まると、巧さと激しさ、そして老獪さを併せ持つアルゼンチンがアメリカを圧倒する。前半10分にアメリカのハーフバック、トレーシーが足を骨折。20分にはモンティの先制点でアルゼンチンがリードした。

それでもアメリカは前半を1失点に抑えたが、負傷者が続出した後半に守備陣が崩壊。56分にアルゼンチンの2点目を許すと、69分にスタービレが追加点。さらに得点を重ねた終盤の87分、スタービレの6点目で締めくくる。

終了直前に1点を返されるが、アルゼンチンが相手を寄せ付けない強さを見せて6-1の勝利。最初の世界王者を決める決勝へ進んだ。

決勝、ウルグアイ戦の激闘

決勝の相手は開催国のウルグアイ。2年間のアムステルダム五輪、決勝戦と同じ顔合わせだった。ウルグアイはホセ・ナサシ、ホセ・アンドラーデ、ペドロ・セアらの名選手を擁して24年、28年のオリンピックを連覇。当時世界最強のチームと見られていた。

ライバル意識むき出しの両者は、試合球を巡っても激しいやり合い。主審を交えた協議により、コイントスでの決着。前半はアルゼンチン製、後半はウルグアイ製のボールが使われることになった。

開始12分、パブロ・トラドのシュートがキーパーの股間を抜いてウルグアイが先制点。それでもアルゼンチンは20分に追いつき、37分にはスタービレのゴールで逆転に成功。ホセ・ナサシがオフサイドの抗議を行うが、この訴えは退けられた。

2-1とリードして進んだ後半の57分、ペドロ・セアが巧みなドリブルから同点ゴール。ウルグアイサポータから大歓声が挙がった。さらに68分、イリアルテにミドルシュートを決められ逆にリードを許すと、終了間際にも隻腕選手エクトル・カルロスのヘッドで2-4。アルゼンチンは最後に力尽きてしまった。

こうして記念すべきWカップ第1回大会王者は、開催国のウルグアイに決まった。敗者となったスタービレは優勝トロフィーを手にする事は出来なかったが、4試合で8ゴールを挙げて大会得点王に輝く。

ウルグアイ国民が歓喜に沸く一方、ブエノスアイレスでは憤慨した市民がウルグアイ大使館に押しかけ、投石をして器物破損。ついには両国の国交断絶までに発展した。一時交流の途絶えた両チームが再び対戦するのは、2年半後のことである。

ヨーロッパへの挑戦

W杯の活躍で世界の注目を集めたスタービレは、大会後にイタリアのジェノアへ移籍。当時は大陸越えの旅がまだ簡単ではない時代。このため彼の刻んだ代表キャップは、W杯に出場した4試合が全てとなった。

デビュー戦となったボローニャとの試合では、いきなりハットトリックを記録。たちまちサポーターからの人気を得る。その後も高いパフォーマンスを続けるが、31年と33年に重傷を負いチームを長期離脱。

34年にイタリアで開催される第2回Wカップが近づき、スタービレのアズーリ入りも噂されたが、長引く故障でそれが実現することはなかった。ちなみに、ルイス・モンティは31年にユベントス移籍。その後イタリアへ帰化し、アズーリの一員としてWカップ優勝に貢献している。

34年、同じセリエAのナポリに移籍。しかし怪我の影響で目立った活躍は無く、20試合で僅か3ゴールの成績に終わった。翌35年にはジェノアに復帰。リハビリに努める一方、共同監督としてチームの指導も行う。ジェノアには通算5シーズン在籍、41試合で16ゴールを記録している。

36年、フランス2部のレッドスター・パリと契約。W杯開催に尽力したFIFA会長、ジュール・リメが1897年に創設したクラブである。ここでスタービレは監督兼選手としてチームを牽引し、38-39シーズンの2部リーグ優勝に貢献。レッドスターが1部リーグ昇格を果たしたのを見届け、34歳で現役を引退する。

指導者スタービレ

レッドスター・パリでも人気者だったスタービレは、フランスへの帰化を勧められたが、それを断り故郷のアルゼンチンへ帰国。ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発する数週間前のことだった。

アルゼンチン帰国後は、CAウラカンやラシン・クラブの監督を務めるほか、アルゼンチン代表監督も長く兼任する。

ラシン・クラブではチームをプリメーラ・ディビシオン3連覇(49~51年)に導き、アルゼンチン代表では41、45、46,47、55、57年と、6度のコパ・アメリカ優勝を達成。代表の戦績は123戦83勝と高い勝率を誇り、指導者としても輝かしい実績を残した。

ちなみに40年代は、強豪リーベル・プレートが形成する「ラ・マキナ(ザ・マシーン)」の時代。スタービレ監督は「ラ・マキナ」の攻撃力を活用し、南米選手権で無敵を誇った。47年の優勝は「ラ・マキナ」の一員で、のちにレアルのレジェンドとなるアルフレッド・ディ・ステファノの活躍によるものである。

Wカップは50年のブラジル大会から再開されたが、アルゼンチンは国内事情で予選大会を棄権する。政策の失敗で経済が混乱し、有力選手が国外に流出。また開催国ブラジルとは近年の大乱闘試合で関係が悪化しており、それも棄権の理由となった。

続く54年のスイス大会も、独裁政権下の政情不安で不参加。このあと国内政治が落ち着いた57年に、ようやくW杯予選へ参加する。

そしてアルゼンチンは「トリオ・デ・ムエルテス(死のトリオ)」と呼ばれた主力3選手(ウンベルト・マスキオ、アントニオ・アンジェリノ、オマール・シボリ)らの活躍で南米予選を勝ち抜き、24年ぶりのW杯出場を果たした。

58年6月、Wカップ・スウェーデン大会が開幕。しかしアルゼンチン協会は、イタリアのクラブに引き抜かれた「トリオ・デ・ムエルテス」を招集せず、スタービレ監督はベストチームを編成することが出来なかった。

G/Lの初戦は、前大会王者の西ドイツに1-3の完敗。続く北アイルランド戦は3-1と勝利するも、最終節の試合でマソプスト擁するチェコスロバキアに1-6の惨敗を喫する。

さしもの名将スタービレも、士気の上がらないチームを立て直せず、グループ最下位で大会を去って行った。

60年には、パン・アメリカン選手権(南米総合競技大会)で優勝。これを花道に20年間務めた代表監督の職を辞し、国立サッカースクールの理事に就任。後進の育成を担う。

66年12月26日、心臓発作により自宅で倒れたスタービレは、そのまま帰らぬ人となった。享年61歳だった。

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