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《 サッカー人物伝 》 リカルド・サモラ

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「 神聖なる男 」リカルド・サモラ ( スペイン )

長身で抜群の反射神経を持ち、果敢な飛び出しで多くのピンチを救った。1920~30年代に活躍したスペイン史上に残る伝説的なゴールキーパーが、リカルド・サモラ( Ricardo Zamora Martínez )だ。

白いシャツとハンチング帽子をトレードマークとし、「エル・ディビーニョ(神聖なる男)」の愛称で呼ばれた。イタリアのコンビ、チェコスロバキアのプラーニチカと並んで当時世界最高の名手と讃えられ、今もスペインの最優秀GK賞「サモラ賞」にその名を残す。

19歳のとき出場したアントワープ・オリンピック(20年)で世界デビュー。若くして代表の正GKとなり、銀メダル獲得に貢献した。34年にはWカップ・イタリア大会に出場。準々決勝で開催国と対戦し、再三の好守で優勝を狙うアズーリを苦しめた。

オリンピックでの活躍

サモラは1901年1月21日、カタルーニャの州都バルセロナで生まれた。裕福な医者の息子として生まれるも、子供の頃は体が丈夫でなく、5歳のときに結核で命を落としかけ、8歳の時には傷口からの感染症により、足を切断する寸前までいった。

その後は健康に育っていったサモラは、仲間とのサッカーに熱中。「勉強に身を入れるように」と忠告する両親の言葉に従わず、競技にのめり込んでいく。

そしてウニベルシタリオSCのユースチームでGKとしてのキャリアを始め、早熟な才能を認められて、15歳のときにカタルーニャの名門エスパニョールと契約。若き守護神として17-18シーズンのカタルーニャ州選手権優勝に貢献する。

20年にはアントワープ五輪出場を目的として、スペイン代表チームが創設。ジョゼップ・サミティエール、フェリックス・セスマガ、ホセ・マリア・ベラウステ、ピチーチらとともに、19歳のサモラも初代ナショナルチームのメンバーに選ばれる。

アントワープ五輪のサッカー競技は、参加14ヶ国によるトーナメント方式で行われた。1回戦はデンマークに1-0の勝利。サモラは代表デビュー戦を白星で飾った。だが2回戦では地元ベルギーに1-3と敗れてしまう。

決勝に進んだのはベルギーとチェコスロバキア。試合は開催国ベルギーが2得点目を記録すると、疑惑のジャッジに抗議してチェコがボイコット。金メダルはそのままベルギーのものとなったが、試合放棄したチェコは失格処分。銀メダルの行方は、残りチームの順位決定戦で決まることになった。

スペインは順位決定戦の第1回戦でスウェーデンに2-1と勝利。順決2回戦でイタリアを0-2と下す。そして2位決定戦ではオランダを3-1と撃破、初出場のスペインが銀メダルを獲得した。

代表の正GKとして銀メダル獲得に貢献したサモラだが、イタリア戦で相手選手を殴って退場処分となった。その帰り道、ハバナの葉巻を密輸しようとして逮捕。投獄され、罰金を科されるという事件を起こしている。

スペイン最高のキーパー

19年、同じカタルーニャ州のバルセロナへ移籍。当時のバルセロナは名将ジャック・グリーンウェルに率いられ、サミティエール、セスマガ、パウリーノ・アルカンタラ、エミリ・サジ・バルバ、といったタレントを擁した「第一次黄金期」の時代。

サモラは常勝チームの守護神として、カタルーニャ州選手権優勝3回(チームは4連覇)とアルフォンソ13世国王杯(現在のコパ・デル・レイ)2回制覇に貢献する。

3シーズン目の22年にバルサ首脳陣と衝突し、古巣からのラブコールを受けエスパニョールへ復帰。だがこの時受け取った契約金を税務局に虚偽申告し、1年間出場停止処分のペナルティーを科せられている。

24年には2度目となるパリ・オリンピックに参加、スペインは1回戦でイタリアに0-1と敗れてしまう。28年のアムステルダム・オリンピックもメンバーに選ばれるが、すでにプロ選手と見なされていたサモラの出場は認められなかった。

29年にはサッカーの母国、イングランドと対戦。サモラは試合中に胸骨を骨折したにもかかわらずプレーを続け(当時は試合中の交代が認められていなかった)、4-3の勝利に貢献。スペインは英国4協会(イングランド+スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)以外で、初めてサッカーの母国を倒したチームとなった。

サモラは「猫のような反射神経、鋼の精神、強い個性、ゴールライン上での安定感。GKとして必要なものを全て備えている」と称賛され、両肘と前腕でボールを弾く彼のパンチング技は「ラ・ザモラナ」と命名された。

その一方でコニャックを痛飲し、1日に3箱を空けるヘビースモーカーだったというサモラ。そんなスポーツマンらしからぬ生活習慣も、ファンの間で議論の対象となった。

初代「サモラ賞」

28年にグリーンウェルがエスパニョールの監督に就任。サモラは中心選手としてチームを牽引し、28-29シーズンのカタルーニャ州選手権と国王杯優勝の2冠達成に大きな役割を果たした。

29年には各地方の選手権を統合する形で、全国リーグのプリメーラ・ディビシオン(スペイン1部リーグ。現在のラ・リーガ)が創設される。

リーグ開始1年目のチャンピオンはバルセロナ。エスパニョールは10チーム中7位と低迷したが、試合平均最小失点を記録したサモラは、この年から設けられた最優秀GK賞を受賞。この賞は初代受賞者にちなみ、「サモラ賞」と呼ばれるようになった。

30年、長らく過ごしたカタルーニャ州を離れ、高額の契約金で首都の名門クラブ、レアル・マドリードに移籍。歴史的背景により、当時からカタルーニャ人のマドリードに対する対抗意識は強烈なもの。しかもサモラはカタルーニャ選抜の一員でもあった。

禁断の移籍は物議を醸し出し、サモラはカタルーニャのサポーターから裏切り者扱いをされることになる。

31年には、強力フルバックコンビとして知られたジャシント・キンコセスとシリアコ・エアスティがアラベスから加入。サラスとともに鉄壁の守備陣を形成し、31-32シーズンにはプリメーラ・ディビシオンを無敗で初制覇する。

翌32-33シーズンは、バルサとの契約を打ち切られたFWサミティールが入団。盤石の強さを誇ったレアルは、ライバルのバルサを引き離してリーグ2連覇を達成。34年にはスペイン杯(共和制への移行で国王杯から改称)のタイトルを獲得する。

ワールドカップの死闘

第1回Wカップ・ウルグアイ大会への参加を見送ったスペインだが、第2回大会は予選に参加。隣国ポルトガルとの戦いを制し、Wカップ初出場を果たす。

34年5月、Wカップ・イタリア大会が開幕。大会形式は出場16チームによる勝ち抜きトーナメントで行われた。

スペイン1回戦の相手は、若手中心のチームで欧州に乗り込んできたブラジル。スペインは前半で3点をリードしてブラジルを圧倒、キャプテンマークを巻いたサモラも好守であわやのシュートを阻み、反撃をレオニダスの1点に抑えて3-1の快勝を収める。

準々決勝の相手は開催国のイタリア。独裁者ムッソリーニにより優勝を義務づけられていたイタリアは、なりふり構わぬ姿勢で挑んできた。

試合開始から、危険なタックルを仕掛けてくるイタリア。その攻撃の多くは、ゴールを守るサモラに向けられた。だがベルギー主審はイタリアのファールをとらず、試合は次第に荒れ模様となっていく。

そんなイタリアのラフプレーに耐えた31分、ランハラが倒されスペインがFKのチャンスを獲得。レゲイロの蹴ったキックは完全な当たり損ないだったが、それが幸いし、名GKコンビの逆を突いて先制点が生まれた。

スコアが動いたことにより、両チームの戦いはさらにヒートアップ。荒々しいプレーで知られたルイス・モンティがランハラを負傷退場に追い込むと、報復に出たスペインもイタリアの右ハーフ、ピッツィオロの脚を骨折させる。

後半直後の45分、イタリアのFKをサモラがかろうじて弾くが、詰めていたフェラーリにこぼれ球を叩き込まれて同点とされてしまう。スペインはサモラのプレーを妨害する行為があったと主審に抗議を行うも、この訴えが認められることはなかった。

試合は1-1で延長にもつれ込むが、決着がつかないまま120分を終了。当時はPK戦がなかったため、翌日に再試合が行われることになった。

再試合は、前日の荒れたゲームのおかげでスペインは7人、イタリアは4人の選手を入れ替えての対戦となった。イタリアの集中攻撃を受けて脚を負傷したサモラも、欠場を余儀なくされてしまう。

スペイン左ウィングのボシュが、開始5分で負傷。重傷だったが退場も出来ず、残り時間はほとんどピッチを歩くだけだった。またこの試合のスイス人主審もイタリア寄りの笛を吹いたため、スペインは早くも劣勢に立たされた。

12分、ジュゼッペ・メアッツァのヘディングゴールが決まりイタリアが先制。スペインは挽回のチャンスも無く、0-1の敗戦となってしまった。このあとイタリアは決勝へ進み、至上命題の優勝を果たすことになる。

それでもサモラのプレーは見る者に強い印象を残し、大会ベストイレブンと最優秀GK賞に輝いている。

レジェンドの後半生

36年6月、大統領杯(スペイン杯から改称)の決勝でバルセロナと対戦。早い時間で10人での戦いを強いられたレアルだが、バルサの猛攻を凌いで2-1とリード。試合終盤にはサモラが決定的なシュートをスーパーセーブで防ぎ、逃げ切っての優勝を果たす。そしてこの優勝が、サモラ現役最後のタイトル獲得となった。

36年7月、陸軍のクーデターによるスペイン内戦が勃発。反乱軍シンパと見られたサモラは、共和国政府によって投獄されてしまう。その後、アルゼンチン大使館の仲介を得て釈放。37年に国内の戦火を逃れてフランスに移住する。

フランスではOGCニースでプレーし、そこでサミティールと再会する。OGCニースで1シーズンを過ごしたあと、38年に37歳で現役を引退した。代表歴16年で刻んだキャップは46試合。これは当時のスペイン代表最多出場記録であり、40年近く破られることはなかった。

反乱軍のフランコ将軍が権力を掌握し、内戦が終結した39年にサモラは故郷へ帰国。アトレティコ・アビアシオン(アトレティコ・マドリード)の監督に就任し、チームを39-40、40-41シーズンのリーグ2連覇に導く。

その後はスペイン代表監督やエスパニョールなどのクラブ監督を歴任し、61年に現場を退いた。晩年はレジェンドとしての余生を過ごし、78年9月8日に死去。享年77歳だった。

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