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《 サッカー人物伝 》 オレグ・ブロヒン

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「初代、ウクライナの矢」オレグ・ブロヒン(ソ連 / ウクライナ)

俊足を飛ばし、切れ味鋭いドリブルで敵陣を引き裂いた左ウィング。そのずば抜けたスピードと得点力から「ウクライナの矢」と呼ばれたプレーヤーが、オレグ・ブロヒン( Oleg VladimirovichBlokhin )だ。

陸上選手だった両親の血を引いて、ディナモ・キエフ黄金期の快足ウィングとして活躍。スピードに乗ったドリブルは誰も止められず、スペースに走り込んでのシュートも正確で、ソ連リーグでは5回の得点王に輝く。

75年には、ソ連のクラブとしては初となるUEFAカップウィナーズカップ制覇に大きく貢献。ベッケンバウアークライフを差し置いて同年のバロンドール賞に選ばれ、ソ連最高の選手と称された。

サラブレッド・スプリンター

ブロヒンは1952年11月5日、旧ソ連邦ウクライナの首都キエフで生まれた。ロシア人の父ウラジミールは、内務省に勤務する元アスリートの役人。ウクライナ人の母エカテリーナ・アダメンコは、近代五種競技のソ連チャンピオンで、女子100m走のソ連記録を持ちヘルシンキ五輪にも出場した有名選手だった。

そんな両親の遺伝子を引き継ぎ、スプリンターの才能を発揮したオレグ少年。早くから陸上界に注目されるが、彼が熱中したのはサッカー。10歳のときにディナモ・キエフのユースチームへ入り、本格的な競技生活に入る。

ディナモでは17歳でトップチームに昇格。69年11月、ロコモティフ・モスクワ戦でトップリーグデビューを果たす。父親の指導により、クロスカントリーで体幹とバランス感覚を鍛えたブロヒン。そのうち彼のドリブルを止められる者はいなくなり、72年には14ゴールを挙げて初の得点王に輝く。

こうして20歳の若さでディナモの主力に成長。72年7月にはソ連代表に招集され、16日のフィンランド戦でデビューを果たす。

続く8月にはミュンヘン・オリンピックに出場。2連勝で迎えた1次リーグの第3戦、ブロヒンのハットトリックでメキシコに4-1と大勝。ソ連は全勝によるグループ1位で2次リーグへ進む。

2次リーグの初戦はモロッコに3-0と快勝。次のポーランド戦はブロヒンのゴールで先制するも、終盤に逆転され1-2の敗戦。最終節のデンマーク戦で4-0の圧勝を収めたが、ポーランドに及ばずグループ2位。決勝進出を逃し3位決定戦に臨むことになった。

3位決定戦でもブロヒンが先制点を挙げるが、試合は東ドイツと2-2の引き分け。両チームが銅メダルを分け合った。ブロヒンは初めての国際大会で6ゴールの活躍、その才能を証明した。

五輪決勝はポーランドが大会2連覇中のハンガリーに2-1と勝利し初の金メダル。ポーランドは74年のWカップでも旋風を起こすことになる。

ロバノフスキーと「ウクライナの矢」

翌73年は18ゴールを挙げて2年連続得点王、初のリーグMVPにも選ばれている。74年にはヴァレリー・ロバノフスキーが監督に就任。ソ連きっての戦術家のもとで、ディナモ・キエフは70~80年代の黄金期を築くことになる。

ロバノフスキー監督は、細かいデータを採って選手のコンディションやメンタルを分析し、これを基にして個々の強化メニューを作成。選手たちのスプリント能力を効果的に鍛えた。またあらゆる状況に応じた約束事も厳格に規定し、プレッシングと機能的な連動による堅守速攻の戦術を構築する。

ディナモは選手たちがスピードを殺さず、休みなく働き回る「トータル・サッカー」を展開。快足を誇るブロヒンは、まさに速攻戦術にうってつけの人材。その速さとゴールを射貫く鋭さで、「ウクライナの矢」の異名をとるようになった。

74年にはソ連リーグ優勝と、ソ連カップ制覇の2冠を達成。優勝の立役者となったブロヒンは、20得点で3年連続のリーグ得点王。2年連続のMVPにも選ばれ、名実ともにソ連を代表する選手となる。

74-75シーズン、ディナモは欧州カップウィナーズカップに出場。第1回戦は、ブルガリアのCSKAソフィアにホームで1-0の勝利、アウェーでも1-0と勝ちを収める。どちらもブロヒンの挙げた決勝点だった。

第2回戦、西ドイツのフランクフルトに2戦合計で5-3の勝利、準々決勝はトルコのブルサスポルに2戦合計3-0の完勝を収める。準決勝もオランダのPSVを2戦合計4-2で下し、ディナモはついに決勝へ進んだ。

決勝はハンガリーの名門、フェレンツ・バロシュと対戦。ディナモはバロシュをスピードで圧倒、ブロヒンのアシストによる得点で前半を2-0とリードすると、後半の67分にはブロヒンがダメ押しゴール。ディナモが3-0の勝利で、ソ連初のヨーロッパタイトルを手にする。

「鉄のカーテン」に閉ざされていたソ連クラブのタイトル獲得は欧州中を驚かせ、5得点で優勝の原動力となったブロヒンは、その名を西側世界に知らしめることになった。

バロンドール賞受賞

75年9月には、チャンピオンズカップ優勝を果たしたバイエルン・ミュンヘンと欧州スーパーカップで対戦。当時のバイエルンは、ベッケンバウアーゲルト・ミュラーらW杯優勝メンバー6人を揃えた世界最強チームだった。

第1戦は、敵地オリンピア・シュタディオンでの戦い。0-0で折り返した後半の67分、自陣でボールを受けたブロヒンは、一気の加速で左サイドをドリブル突破。あっという間に相手Pエリアに達すると、3人を抜いての左足シュートで名手ゼップ・マイヤーの牙城を破った。このゴールが決勝点となり、ディナモは第1戦をモノにする。

さらにバイエルンをホームのセントラル・スタジアムに迎えての第2戦は、ブロヒンが快足を飛ばして2ゴール、2-0の快勝を収める。ディナモは2つ目のヨーロッパタイトルを獲得、ベッケンバウアー、シュヴァルツェンベック、マイヤーによるバイエルンの堅守も、ブロヒンの韋駄天ぶりになすすべがなかった。

ベッケンバウアーは「ブロヒンのゴールは素晴らしかった」と絶賛、敗軍の将となったデットマール・クラマー監督も「誰も彼のスピードに追いつけなかった」と惜しみない称賛を送っている。

これらの活躍により、ブロヒンはソ連選手としてレフ・ヤシンに続く2人目のバロンドール賞を受賞。投票でベッケンバウアーやクライフといったビッグネームを大きく引き離しての、価値ある受賞だった。

2度目の銅メダル

76年7月、2度目のオリンピックとなるモントリオール大会に出場。ソ連代表チームはディナモ・キエフを主体とするチーム。監督を務めるロバノフスキー監督のほか、フィールドプレーヤー9人がディナモの選手で占められていた。

1次リーグは、アフリカのザンビアが棄権したため3チームによる対戦。初戦でカナダを2-1と下し、第2戦ではブロヒンのゴールなどで北朝鮮を3-0と圧倒。貫禄の首位で準決勝に勝ち上がる。

準決勝は健闘するイランを退け2-1の勝利。準決勝で同じ東欧のステートアマチーム、東ドイツと対戦する。

ゲームは両チームがともにスピードを生かしたカウンターの応酬。ソ連が押し気味にゲームを進めるが、東ドイツの堅守を崩せず、後半にミスを突かれて2失点。終盤にPKで1点を返すが、逃げ切られて1-2の敗戦を喫してしまう。

3位決定戦では、若手で編成されたブラジルチームを2-0と下して、2大会連続の銅メダルを獲得。五輪決勝は、東ドイツが前大会優勝のポーランドを3-1と下して金メダル。東ドイツにとってサッカー競技唯一のタイトルとなった。

ワールドカップ・スペイン大会

ソ連最高の選手と称されるようになったブロヒンだが、W杯での活躍は待たされることになる。74年W杯予選・大陸間プレーオフでは、ソ連が政情不安だったチリへの遠征試合を拒否して失格処分。78年のW杯は欧州予選で敗退を喫し、ブロヒンがキャリアのピークにあった時期での出場を逃してしまう。

欧州選手権も76年、80年大会と続けてグループ予選敗退。81年にようやくディナモの名選手だったベスコフ監督の下で欧州予選を勝ち抜き、ソ連は3大会ぶりのWカップ出場を決める。

82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。ブロヒンは29歳にして初めて大舞台のピッチに立った。

1次リーグの初戦は先制しながらも、ジーコら「黄金の中盤」を擁するブラジルに1-2の逆転負け。続くニュージーランド戦は、ブロヒンが素晴らしいスピードでDF網を切り裂きチャンスを創出。自らも1点を決め3-0の快勝を収める。

最終節はスコットランドと2-2の引き分け。ソ連はブラジルに続くグループ2位で、2次リーグに進んだ。

3チームで戦った2次リーグの初戦はベルギーに1-0の勝利、第2戦はポーランドと0-0で引き分ける。ベルギー戦を3-0と勝利したポーランドに得失点差で及ばず、ソ連はここで敗退。ニュージーランド戦の1点に留まったブロヒンは、強いインパクトを残すことなく大会を去った。

新旧2トップの活躍

85年、ディナモは2度目となるリーグ戦とカップ戦の2冠を達成。それにより出場した85-86シーズンのカップウィナーズカップでも快進撃を続けた。

33歳のベテランとなっていたブロヒンは、新鋭イゴーリ・ベラノフと2トップを組んでチームを牽引。ディナモはついに2度目の決勝に進む。

86年5月に行われた決勝の相手は、スペインのアトレティコ・マドリード。開始5分、「ディナモの魔術師」ザバロフのゴールで先制。その後もディナモの「トータル・サッカー」はアトレティコを圧倒、終盤にもブロヒンらの追加点が生まれ、3-0の完勝を収める。

ブロヒンとベラノフはそれぞれ大会5得点を記録、新旧両エースの活躍でディナモは2度目となる欧州カップ戦王者に輝いた。

ワールドカップ・メキシコ大会

この年にはWカップ大会を控えていたが、事前の強化試合でソ連チームは不振を極め、開幕の1ヶ月前にマロフェエフ代表監督が解任。後任として実績充分のロバノフスキー監督が呼び戻された。

大会本番まで時間の残されていない状況に、ロバノフスキー監督は自らが率いるディナモ・キエフの選手を中心にチームを編成。ディナモの「トータル・サッカー」戦術がそのまま代表に移植される。

86年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。G/L初戦の相手はハンガリー。ブロヒンはベンチスタートとなったが、ソ連はスピードに乗った攻撃で相手守備陣を粉砕。ベラノフのPKなどで6-0の圧倒的勝利を収める。

第2戦はプラティニ擁するフランスと対戦。ソ連はこの優勝候補と互角に渡り合い、1-1の引き分け。ブロヒンは後半58分に、ザバロフと代わって出場を果たしている。

最終節のカナダ戦は主力を温存、ブロヒンはキャプテンマークを巻いて先発した。0-0で折り返した後半の57分、ソ連はプロタソフに代わりベラノフを投入。するとすぐにチャンスが生まれ、58分にブロヒンが先制ゴール。74分にも途中出場のザバロフが追加点を挙げ、2-0と勝利する。

勝ち点5でフランスと並んだが、得失点差で上回りグループ1位で決勝Tに進出。ソ連の多彩でスピード豊かな攻撃は、一躍大会の注目を集めた。

トーナメントの1回戦はベルギーとの対戦。前半27分、ベラノフの25mシュートでソ連が先制。後半の56分にシーフォのゴールで追いつかれてしまうが、70分にベラノフが勝ち越し点。準々決勝が見えてきた。

しかし高地・酷暑の試合続きに北国チームの足が止まった77分、ベルギーにネットを揺らされ同点。オフサイドにも思えたが、主審により得点は認められた。延長に入って集中力の途切れたソ連は、102分、110分と立て続けに失点しまう。

111分にベラノフがPKで1点を返すも、スピードを失ったチームに反撃の力はなく、3-4と敗れ去ってしまった。激戦となった試合に、最後までブロヒンの出場機会は訪れなかった。

栄光の継承

ディナモ・キエフには88年まで在籍。その後オーストリアとキプロスのクラブでプレーし、90年に37歳で現役を引退する。17年の代表歴で112試合に出場、42ゴールを挙げた。

19年を過ごしたディナモ・キエフでは、ソ連歴代最多となる431試合211得点を記録。リーグ優勝8回、カップ戦優勝5回、カップウィナーズカップ優勝2回などのタイトル獲得に貢献した。個人でもリーグ得点王5回、リーグMVP3回、ソビエト最優秀選手賞3回、バロンドール賞など数多くの名誉に輝いている。

引退後はギリシャで指導者となり、各クラブの監督を歴任。97年にはウクライナ共和国の国会議員に選出され、03年にウクライナ代表監督となる。

06年、ブロヒン監督に率いられたウクライナ代表は、独立後初めてとなるWカップ・ドイツ大会に出場。「ウクライナの矢」の名を引き継いだディナモ・キエフ出身のアンドリー・シェフチェンコがチームのエースとなり、ウクライナはベスト8の成績を残す。

このあとブロヒンは、12年~14年までディナモ・キエフの監督を務めている。

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