94年のワールドカップ・アメリカ大会。グループリーグのベルギー戦で衝撃的な60mドリブルシュートを決め、かのスーパースターを彷彿とさせるゴールから「砂漠のマラドーナ」と呼ばれた中東のストライカーが、サイード・オワイラン( Saeed Al-Owairan )だ。
巨体を揺らしながらゴールに迫る姿は迫力満点。得点力だけではなく人を使うセンスにも長けていた。守護神アルディアイエとともに、アジア勢としては2度目となるW杯グループリーグ突破の立役者となり、同年のアジア年間最優秀選手賞に選ばれている。
だが栄光のピークにあった96年に、国教であるイスラムの厳しい戒律を破って服役。2年のブランクを経てサッカー界に復帰するが、全盛期の力を取り戻すことは無く、失意のままキャリアを終えることになった。
1967年8月19日、首都リアドで生まれたオワイランは、対岸にある東アフリカからの移民をルーツに持つ黒人系のアラブ人。少年時代からサッカーに興じ、やがてその高い身体能力が注目され、16歳でリアドの古参クラブ、アル・シャバブに入団する。
ユースチームでストライカーとしてのスキルを磨き、20歳となった88年にトップチームデビュー。すると早くも華々しい活躍を見せ、アル・シャバブ初の公式タイトルとなるクラウン・プリンスカップ(サウジ杯)優勝に貢献した。
しかし2年目はチームの成績不振とともにスランプに陥り、期待外れの成績に終わるが、90-91シーズンにレベルアップを果たして復活。アル・シャバブのサウジ・プレミアリーグ初制覇に大きな役割を果たす。
91-92シーズンは初の得点王に輝き、チームをサウジ・プレミアリーグ2連覇と同年のアラブ・チャンピオンズリーグ優勝に導く。
そして翌92-93シーズン、アル・シャバブは国内クラブ初となるサウジ・プレミアリーグ、クラウン・プリンスカップ、ガルフ・クラブチャンピオンズカップ(アラブ湾岸諸国によるクラブチャンピオンシップ)の3冠を達成。アジア・クラブ選手権でも準優勝する。
偉業達成の立役者となったオワイランは、この年の最優秀アラブプレーヤー賞とベスト・サウジプレーヤー賞に輝いている。
オワイランのスピードに乗ったドリブルと左足の強力なシュートは、対峙する相手を圧倒。高い個人技で得点を量産し、アル・シャバブ黄金期の中心を担っていった。
サウジアラビア代表には91年に初招集。サウジは70年代後半から潤沢なオイルマネーを投入し、環境を整えながら国を挙げてのサッカー振興を図っていた。
そして80年代からは、マリオ・ザガロやカルロス・ペレイラといった著名な指導者たちを代表監督に招聘。84年、88年のアジアカップでは、「砂漠のペレ」と呼ばれた黒人系選手マジェド・アブドラーの活躍で大会2連覇を果たすなど、アジアの盟主として名乗りを上げていた。
オワイランは92年9月に行われたアラブ・カップで国際大会デビューし、G/Lのパレスチナ戦で初ゴールを記録した。決勝戦の対エジプト戦では同点弾を決めるが、終盤に失点して2-3の敗戦。初の国際舞台は準優勝に終わる。
続く10月には、サウジ主催で始まった大陸王者対抗戦「キング・ファハド・カップ(後のコンフェデレーションズカップ)」に出場。サウジはアメリカを3-0と下してアルゼンチンとの決勝に臨むが、1-3の完敗で準優勝。サウジ唯一の得点はオワイランの挙げたものである。
この決勝戦の9日後、広島で行われたアジアカップに出場。サウジはグループリーグを1位突破、準決勝のUAE戦をオワイランの先制ゴールで2-0と勝利し、開催国日本との決勝を行う。
大会3連覇を狙うサウジだが、オフト監督率いる日本にゲームの主導権を握られ苦戦。前半36分、高木琢也に胸トラップからのシュートを決められて失点すると、その後の反撃も日本の組織的守備に抑えられ0-1の敗北。またもや準優勝の結果となってしまった。
93年5月よりWカップ・アジア予選が開始、サウジは悲願のWカップ初出場を目指し、第1次予選を戦った。
代表の10番を背負ったオワイランは、ホームのマカオ戦でハットトリックを記録するなど6試合6得点の大活躍。無事に1次予選を突破し、集中開催で行われるファイナルステージに進出。
カタール・ドーハでの最終予選では、サウジアラビア、イラン、イラク、日本、韓国、北朝鮮の6ヶ国でアジアのWカップ出場枠2つを争うことになった。
サウジ初戦の相手は、最大のライバルとなる日本との試合。双方慎重にゲームを進めた前半の20分過ぎ、ラモス瑠偉のパスを受けた福田正博がGKの逆を突いた完璧なシュート。しかしこれはサウジの若き守護神、アルディアイエによる驚異的な反応で防いだ。
サウジもオワイランを中心に攻撃を仕掛けるが、日本の組織的ディフェンスに封じられて不発。強敵を相手に0-0の引き分けという無難なスタートも、主将のアブドラーが試合中に怪我を負い戦線離脱。困難な最終予選の戦いが予想された。
第2戦も北朝鮮と接戦を演じ、後半の勝ち越し点で2-1の勝利。第3戦は韓国に終盤まで0-1とリードされる苦しい展開となり、ようやく終了直前にマダニの同点弾が生まれて命拾いをする。第4戦も開始1分でイラクのゴールを許すが、36分にオワイランが同点ゴール。2戦連続の引き分けとなった。
第4戦までの日程を終わり、勝ち点を5とした日本が予選1位。サウジも同じ勝ち点ながら、得失点差で及ばず2位となった。しかし韓国、イラン、イラクも勝ち点4で続く混戦状態。Wカップに出場する2チームは、最終戦の結果で決まることになった。
最終節のイラン戦は打ち合いのゲームとなり、激闘を制したサウジが4-3の勝利。悲願のWカップ初出場を決めた。最終戦でイラクと戦った日本は「ドーハの悲劇」に沈んで予選3位、韓国に抜かれWカップ初出場を逃す。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。初出場のサウジを率いるのは、アルゼンチンの名将ホルヘ・ソラーリ。サウジ代表はアジア予選から何人も指揮官が交代し、ソラーリ監督は大会5ヶ月前に代表を任されたばかりだった。
G/L初戦の相手は強豪国オランダ。開始18分に新鋭ファド・アミンの先制ヘッドでリードするも、後半ミスから失点し1-2の逆転負け。しかし初出場サウジの思わぬ善戦は、楽勝ムードだったオランダを慌てさせた。
第2戦は北アフリカの雄、モロッコと対戦。1-1で迎えた前半終了直前の45分、アミンのロングシュートが決まり勝ち越し。後半はGKディアイエを中心に1点を守り抜き、モロッコに2-1の勝利。66年イングランド大会の北朝鮮以来、実に28年ぶりとなるアジア勢の勝利だった。
第3戦は百戦錬磨の古豪ベルギーとの戦い。開始5分、自陣でボールを受けたオワイランは猛然とドリブルを開始。一気の加速で4人のDFを抜き去り、あっという間にゴール前へ到達。最後は鋭い切り返しからシュートを放ち、名手プロドームの頭上を抜くゴールを決めた。
このあと守護神アルディアイエが美技を連発。ベルギーの反撃を凌いで1-0と勝利し、アジア勢として7大会ぶり2度目の決勝トーナメント進出を決める。
マラドーナの「伝説の5人抜きゴール」を思い起こさせる、オワイランの60m独走ゴール。彼のセンセーショナルなプレーは世界に衝撃を与え、記憶に残るゴールとして刻まれることになった。
トーナメント1回戦はスウェーデンに3-1の敗北。それでもオワイランは巧みなスルーパスで得点を演出し、主力としての働きを見せた。この活躍により、オワイランはこの年のアジア年間最優秀選手賞を受賞する。
こうしてアラブの英雄となったオワイラン。王室からロールスロイスが与えられるなど、国民の人気者となっていく。彼の元には欧州強豪クラブからのオファーが殺到するも、当時の決まりで国外でのプレーが許されず、アル・シャバブに留まることになった。
だがその私生活は次第に自堕落となってゆき、クラブや警察ともトラブルを起こすようになる。最初の事件は、アル・シャバブを許可なく離れモロッコのカサブランカで2週間遊興。これにより警告と罰金を科せられた。
そして96年には、イスラム教の戒律を破っての飲酒が見つかり現行犯逮捕。しかもこの時はラマダン中、アラブ人ではない女性を相手にしての飲酒発覚だった。
この罪により、オワイランは1年間の活動を禁じられただけではなく、6ヶ月の禁固刑を受けて服役。2年間のブランクを経てアル・シャバブに復帰したものの、もはや全盛期の輝きを取り戻すことはなかった。
それでも98年には代表に呼び戻され、Wカップ・フランス大会に出場。オワイランは初戦のデンマーク戦と2戦目のフランス戦で先発出場したが、新たにスターとなったサーミー・アル・ジャービルの引き立て役。チーム自体にも4年前の勢いはなく、2連敗で早くも敗退が決定してしまう。
01年までアル・シャバブでプレーを続け、34歳で現役を引退。代表の8年間で75試合に出場、24ゴールを挙げている。19シーズンを過ごしたアル・シャバブでは598試合に出場、238ゴールを記録しクラブの黄金期を支えた。
現在は貿易業を営んでいると伝えられるオワイラン。のちのインタビューでWカップのスーパープレーを振り返り、「あれは紛れもなく人生最高のゴール、たがそれが重くのしかかって人生が変わった。何度もあのゴールを見せられたけど、もうウンザリだ」と語っている。
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