「 スイスの重戦車 」 ステファン・シャプイサ ( スイス )
抜群のスピードを誇り、重戦車さながらの強引なドリブル突破も迫力満点。左足から強烈なシュートを放ち、多くのゴールを生み出してきたスイスの点取り屋が、ステファン・シャプイサ( Stéphane Chapuisat )だ。
小国の出身ながら、ボルシア・ドルトムントのエース・ストライカーとして90年代に活躍。95-96シーズンにブンデスリーガ優勝を果たすと、翌シーズンにはチャンピオンズリーグ優勝、トヨタカップ制覇に貢献した。
スイス代表では、同じくドイツでプレーするクヌップと強力2トップを組み、アメリカW杯・欧州予選で大活躍。長らく低迷が続いていた母国を、28年ぶりとなるWカップ本大会出場に導いている。
シャプイサは1969年6月28日、レマン湖の北岸に位置する都市ローザンヌで生まれた。父親はスイス代表のディフェンダー、ピエール・アルベール・シャプイサ。小さい頃からストライカーとしての素質を見せたシャプイサは、父親の英才教育よりその才能を磨いていった。
父親の移籍でチューリッヒへ移り住み、9歳のときチューリッヒ・レッドスターの下部組織に入団。そのあと生まれ故郷の名門クラブ、ローザンヌ・スポルトに移籍し、すぐにサテライトチームで頭角を現して16歳でトップチーム昇格を果たす。
だがトップチームで活躍の場は与えられず、地元の中堅クラブ、エトワール・マレーに一時移籍。86-87シーズン、マレーで出場機会を得たシャプイサは、32試合16ゴールの活躍。翌シーズンにはローザンヌへ呼び戻されることになった。
ローザンヌに復帰を果たした87-88シーズン、33試合で12ゴールを記録。18歳ながらゴールへの嗅覚はチームでもトップクラス、攻撃陣のレギュラーとして躍動した。
88-89シーズンは故障に悩まされ1ゴールに終わるも、89-90シーズンに10ゴールを挙げて復活を遂げる。89年6月、シャプイサは若きエース候補として代表に初招集。21日の親善試合ブラジル戦でデビューし、決勝ゴールを挙げる活躍で注目を集めるようになる。
90-91シーズンは開幕から順調にゴールを量産。そのシーズン途中、ドイツのバイエル・ユルティンゲンからオファーが舞い込む。ブンデスリーガ挑戦の夢を知る父親が、息子の願いを叶えるためクラブ探しに奔走。またシャプイサも着実に実績を重ね、21歳で掴んだチャンスだった。
移籍直後の練習で負傷し、ブンデスデビューが遅れてしまったシャプイサ。小国からの移籍ということで彼への期待度は低かったが、怪我から回復した10試合で4ゴールの活躍。周囲の評価を改めさせた。
しかしユルティンゲンは成績不振で2部リーグ降格。それでも大器の片鱗を見せたシャプイサには、ブンデスリーガの名門ボルシア・ドルトムントから声が掛かり、新たに挑戦の場を移すことになる。
ドルトムントでは左ウィングで起用され、シャプイサは開幕から絶好調。決してエレガントとは言えないが、爆発的なスピードはドイツの屈強なディフェンダーを慌てさせ、左足による強烈なシュートはGKを呆然とさせた。
移籍1年目の91-92シーズンは37試合で20ゴールを記録し、得点ランキングでリーグ2位。このシャプイサの活躍より、近年成績の芳しくなかったドルトムントを2位まで押し上げる。
翌シーズン以降も安定して2ケタ得点を続け、ブンデスリーガ屈指のストライカーとしての地位を確立。イタリアからのオファーにも目を向けず、ドルトムントでキャリアを重ねていった。
戦前に行われた第2回Wカップからの出場実績を持ち、54年大会ではホストを務めた伝統国のスイス。だが60年代半ば以降は低迷が続き、しばらくWカップや欧州選手権などの国際大会に姿を見せることはなかった。
そんな暗黒時代にあった92年、英国人のロイ・ホジソンがスイス代表監督に就任。ホジソン監督はスウェーデンに初めてゾーンプレス戦術をもたらし、チャンピオンズカップではローカル・クラブのマルメFFを率いて、強豪インテル・ミラノを撃破した実績を持つ名将だった。
ちょうどこの頃シャプイサを始め、アドリアン・クヌップ、チリアコ・スフォルツァ、アラン・ズッターらドイツで活躍する若手選手たちが台頭。ホジソン監督は若い彼らの力を積極的に活用、攻撃力に優れたチームを作り上げ、対外試合でも好成績を収めるようになっていた。
92年8月より、W杯欧州予選が開始。初戦のエストニア戦、シャプイサ、クヌップの2トップがそれぞれ2得点、司令塔のスフォルツァとMFブレギーも得点を挙げ6-0と圧勝する。
続くスコットランド戦も、クヌップの2得点とブレギーのゴールで2連勝。そして第3戦では、グループ最大の強敵イタリアと試合を行った。
敵地カリアリで行われた試合は、アウェーのスイスが17分に先制。その4分後にはシャプイサが追加点を決め、リードを2点に広げる。だが終盤の83分にR・バッジオのゴールを許し、後半のロスタイムにも失点。2-2と引き分け惜しくも勝ち星を逃してしまった。
第4戦はシャプイサ、スフォルツァの得点でマルタに3-0の快勝。第5戦はルイス・フィーゴ、ルイ・コスタを擁するポルトガル相手に、シャプイサのゴールで1-1と引き分ける。
前半を折り返した93年4月のマルタ戦を2-0とモノにし、天王山となった5月のイタリア戦では見事1-0の勝利。ついにW杯出場が見えてきた。
第8戦はスコットランドに1-1の引き分け。第9戦はポルトガルに0-1の敗戦と足踏みしてしまうが、11月の最終戦ではクヌップ、ブレジー、シャプイサのゴールでエストニアに4-0と圧勝。
こうしてイタリアに続く予選グループ2位となったスイスは、7大会28年ぶり、8度目のWカップ出場を決める。
欧州予選ではシャプイサがトップの6得点、クヌップがバッジオと並ぶ5得点、ブレジーが4得点と、スイス勢がグループ得点ランクの上位を占め、その攻撃力を見せつけた。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。初戦は開催国アメリカとの対戦だったが、クヌップは怪我で欠場となった。前半39分にブレジーのFKで先制するも、6分後にウィナルダのFKで追いつかれ、初戦を1-1と引き分ける。
続くルーマニア戦ではクヌップが戦線復帰。ズッターのゴールで16分に先制するも、ゲオルゲ・ハジの同点弾を許し前半を1-1で折り返す。後半52分、シャプイサの得点で再びリードを奪うと、そのあと怪我明けのクヌップが立て続けに2得点。終わってみれば4-1の快勝となった。
第3戦は「カリブの怪人」バルデラマを擁するコロンビアに0-2の敗戦。それでもスイスはルーマニアに続くグループ2位を確保、自国開催の54年大会以来となる決勝トーナメントに進んだ。だがトーナメント1回戦ではスペインに0-3と完敗し、ベスト8入りはならなかった。
FWにシャプイサとカール=ハインツ・リードレ、ゲームメーカーにアンドレアス・メラー、中盤にパウロ・ソウザ、守備陣にユルゲン・コーラー、マティアス・ザマーと陣容を整えたドルトムントは、94-95シーズンにブンデスリーガ初優勝を果たすと、翌95-96シーズンもリーグ2連覇。
96-97シーズンのチャンピオンズリーグでも快進撃を続け、準決勝でマンチェスター・ユナイテッドを完封しついに初の決勝へ。シャプイサも3得点を挙げて、決勝進出に貢献している。
ミュンヘンで行われた決勝の相手は、前年度王者のユベントス。当時ユベントスはマルチェロ・リッピ監督のもとで黄金期を迎えており、ドルトムントの勝利を予想する声は少なかった。
開始29分、リードレのゴールでドルトムントが先制。さらにその5分後、メラーの右CKからリードレが頭で合わせて追加点。前半でドルトムントが2点をリードするという、予想外の展開となった。
66分、後半開始から登場したデル・ピエロが、ボクシッチからのクロスにバックヒールでゴール。1点差となりゲームの行方は分からなくなってきた。
70分、ドルトムントは左サイドで再三チャンスを作っていたシャプイサに代え、19歳のラース・リッケンを投入。その直後、メラーのパスに抜け出したリッケンがGKペルッツィの頭上を抜くループシュート。ファーストタッチによる貴重な3点目が決まった。
こうしてドルトムントが3-1の勝利、ドイツ勢としてはバイエルン・ミュンヘン、ハンブルガーSVに続くビッグイアー獲得となった。
そして同年の12月にはトヨタカップに出場し、ブラジルのクルゼイロと対戦する。前半34分、メラーのFKからシャプイサがクロス、主将のツォルクが頭で合わせドルトムントが先制する。さらに終盤にも得点を追加し、2-0の勝利でクラブ世界一に輝いた。
96年6月にはユーロ・イングランド大会に出場。スイスが最初に欧州選手権予選へ参加したのは64年、それから32年目にして初めての本大会出場だった。しかしシャプイサは前年に負った怪我の影響で不調、スイス代表もG/Lで1勝も挙げられず敗退となってしまった。
その後、98年のWカップ・フランス大会、ユーロ2000(オランダ・ベルギー共催)、02年のWカップ・日韓大会と続けて出場を逃し、スイスは再び低迷期を過ごすことになる。
ドルトムントには99年まで在籍。ここでキャリアのハイライトとなる8シーズンを過ごし、公式戦278試合出場122ゴールの記録を残した。
このあと故郷のスイスに戻り、チューリッヒのグラスホッパーと契約。00-01シーズンには21ゴールを挙げて、スイスリーグの得点王に輝く。02年にはベルンのヤングボーイズに移籍し、35歳となった03-04シーズンには23ゴールで2度目の得点王。往年のスピードこそ衰えていたが、得点感覚の鋭さは相変わらずだった。
しばらく低迷が続いていたスイス代表だが、大ベテランとなったシャプイサがチームを牽引し、予選を勝ち抜いて、久しぶりの大舞台となるユーロ04・ポルトガル大会に出場する。
しかしフランス、イングランド、クロアチアの同居する「死の組」に入り大苦戦。またも1勝も挙げられずにG/L敗退を喫してしまう。それでも90年代末からの若手育成策が功を奏し、これ以降スイスはWカップとユーロの常連国となっていく。
05年には古巣のローザンヌ・スポルトに復帰し、06年に37歳で現役を引退。17年の代表歴で103試合に出場、21ゴールを挙げている。
現在はヤングボーイズのアカデミー・コーチとして、若手の育成に当たっているそうだ。
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