スポンサーリンク
スポンサーリンク

《 サッカー人物伝 》 リリアン・テュラム

スポンサーリンク
スポンサーリンク

本職のセンターバックだけではなく、右サイドバックとしてもハイレベル。インテリジェンス、身体能力、技術といった要素を高い次元で兼ね備えたフランスのディフェンダーが、リリアン・テュラム( Ruddy Lilian Thuram-Ulien )だ。

フランスのモナコで頭角を現し、セリエAのパルマとユベントスでも堅陣を築いて数々のタイトル獲得に貢献。その完璧な守備能力は、CBコンビを組んだカンナバーロに「別の惑星から来た選手」と言わしめた。

自国開催となった98年Wカップ、準決勝のクロアチア戦でミスを犯し先制を許すも、汚名返上の2ゴールで逆転勝利。また抜群の守備力でフランスのWカップ初優勝に大きく貢献し、「世界最高のディフェンダー」と称された。

夢は神父からフットボーラーへ

テュラムは1972年1月1日、カリブ海のフランス領グアドループ島・ポワンタピトールに生まれた。このとき年明けすぐに生まれた新生児ということで地元メディアの取材を受け、新聞記事にも掲載されたエピソードを持つ。

幼少期に父親が死亡。母親の苦労を見て育ったテュラムは、カトリックの神父になることを目指して勉強に励み、学校の成績も優秀だったという。

9歳のとき母親がフランスに職を得て、一家でパリ近郊のフォンティーヌ・ブローへ移住する。この地でサッカーと出会い、移民の子供たちで構成されたクラブでキャリアを開始。夢は神父からフットボーラーへと変わっていった。

83年には地元クラブのRPCフォンティーヌ・ブローへ入団。ここでMFとしてプレーし、ズバ抜けた運動能力で16歳の時にはフランスのユース代表にも選ばれている。

その才能が注目され、18歳となった90年にフランスの名門ASモナコと契約する。当時モナコの監督はアーセン・ベンゲル。テュラムはベンゲル監督によってDFにコンバートされ、91年5月のトゥールーズ戦でトップチームデビューを果たす。

90-91シーズンの出場はこの1試合に留まったものの、クープ・ドゥ・フランス(フランスカップ)優勝を経験。テュラムはベンゲル指導のもとディフェンダーとしての才能を伸ばし、91-92シーズンは19試合に出場する。

そして92-93シーズンはレギュラーに定着し、カップウィナーズ・カップの決勝進出に貢献。だが決勝ではドイツのブレーメンに0-2と敗れ、欧州タイトル獲得とはならなかった。翌93-94シーズンのチャンピオンズリーグでは、バルセロナに続くグループ2位で準決勝に進出。準決勝ではミランに0-3の完敗を喫してしまったが、テュラムの高い能力はチームの守備を支えた。

欧州屈指のディフェンダー

代表には94年8月に22歳で初招集、17日のチェコ戦で同い年のジダンとともにデビューを飾った。フランスは94年のW杯を「パリの悲劇」と呼ばれる失態で出場を逃し、そのあと代表監督に就任したエメ・ジャケはカントナパパン、ジノラといった旧世代のスター選手を排してチームを刷新。テュラム、ジダンら移民系の選手をチームの中心に据え、自国開催となる98年W杯に向けての準備を整える。

このとき代表ではデサイーとブランがすでに強固なCBコンビを組んでいたため、テュラムは主に右SBとしてプレーすることになった。

96年6月にはイングランドで行われたユーロに出場。直前の自動車事故でジダンが不調に陥ったものの、フランスは堅い守備でベスト4入りを果たす。全試合に出場したテュラムは1対1の強さ、正確なポジショニングで右サイドを制圧するだけでなく、果敢なオーバーラップで攻撃に参加。右SBのポジションを不動のものとした。

ユーロ96終了後、イタリアのパルマACへ移籍。パルマでは当時18歳の守護神ブッフォン、23歳のカンナバーロとともに強力な守備トリオを形成。アンチェロッティ監督指揮のもと、チームはリーグ2位の好成績を収めた。

テュラムによるディフェンスは、身体能力、技術、フィジカル、スタミナ、戦術眼、読みの鋭さ、マークの厳しさなど、どれを取っても一級品。欧州屈指のディフェンダーと目されるようになる。

ついに世界の頂点へ

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。1次リーグのサウジアラビア戦でジダンが一発退場になるというアクシデントはあったものの、ホスト国のフランスは3戦全勝で決勝トーナメントに勝ち上がった。

トーナメントの1回戦はチラベルト率いるパラグアイに、ブランの延長ゴールデンゴールで1-0の勝利。準々決勝ではイタリアとスコアレス延長120分の接戦を演じ、PK戦を制して準決勝に進出する。ここまでの5試合でフランスの喫した失点は僅か1点、テュラム、デサイー、ブランを中心とした守備陣は抜群の安定感を見せた。

準決勝の相手は、独立後初出場となったクロアチア。前半はフランスが中盤を支配して攻勢をかけるも、堅く守るクロアチアのゴールを割れなかった。0-0で折り返した後半の46分、オフサイド崩れからシュケルのゴールを許し失点。右サイドのテュラムが上がり切れなかったことによるミスだった。

その直後、敵陣でボバンからボールを奪ったテュラムは、ジョルカエフとワンツーを交わしてゴールへ突進、リターンパスから汚名返上の同点ゴールを決める。

さらに69分、ボールを受けたテュラムは右サイドを一気のオーバーラップ。アンリとの壁パスはヤルニにカットされるが、強引にボールを奪い返したテュラムは20mの距離からシュート。これが見事ネット右隅へ突き刺さり、殊勲の逆転弾となった。

こうしてクロアチアを2-1と下したフランスは、地元開催の大会で決勝へ進出。決勝のブラジル戦はブランが出場停止、デサイーも後半の68分に一発退場となってしまうが、テュラムを中心に守り切って逃げ切り。ジダンのヘッド2発などで3-0の快勝を収め、フランスが初の優勝杯を手にした。

優勝に貢献したテュラムは、大会ベストディフェンダーに選ばれただけでなく、ロナウド、シュケルに続くブロンズボール賞を獲得。名実ともに「世界最高のディフェンダー」となった。

名門ユベントスへの移籍

98-99シーズン、パルマはUEFAカップ優勝とコッパ・イタリア優勝の2冠獲得を達成。しかしこの頃からクラブの財政難が表面化し、主力が次々とチームを離脱。パルマの弱体化は進んでいった。

そんな渦中にあった01-02シーズン、テュラムはブッフォンとともに名門ユベントスへ移籍する。このあと03年にパルマACの親会社パルマラットが破産。翌04年にクラブはパルマFCと改称し、再建の道を歩むことになった。

移籍したユベントスでは、01-02、02-03シーズンとリーグを2連覇。04年にはインテルでプレーしていたカンナバーロがユベントスに加入。パルマ時代の強力守備トリオが再結成され、04-05シーズンに2季ぶりとなるスクデットを獲得。テュラムはユベントスで充実したキャリアを築いた。

代表キャリアと「カルチョポリ・スキャンダル」

2000年にはオランダ・ベルギー共催のユーロに出場。激戦続きとなった大会で、フランスは厳しい戦いを勝ち抜いて98年W杯に続くビッグタイトルを獲得。テュラムも守備陣の中心として大きな役割を果たした。

02年6月、Wカップ・日韓大会が開幕。リーダーのブラン、デシャンが抜けたものの、フランスが誇る鉄壁の守備陣は相変わらず健在。2大会連続優勝が期待された。

しかし大会直前、司令塔のジダンが脚を故障して初戦を欠場。セネガル戦で0-1の思わぬ敗北を喫すると、第2戦はウルグアイと0-0の引き分け。ジダンが強行出場したデンマーク戦も0-2と落とし、優勝候補のフランスは1点も記録することなく早々と大会から去って行った。

04年6月にはユーロ04(ポルトガル開催)に出場。フランスはG/Lを1位で突破したものの、準々決勝で伏兵のギリシャに0-1と敗れてベスト8敗退。大会終了後テュラムは、ジダンとともに代表からの引退を表明する。

05-06シーズン、ユベントスはリーグを2連覇。しかし06年の夏にクラブ幹部による不正疑惑「カルチョポリ・スキャンダル」が発覚。ユベントスは04-05、05-06シーズンのリーグ優勝を剥奪され、セリエBへ降格処分となる。

この事態にブッフォンやデル・ピエロらが残留を表明するも、多くの主力選手がユベントスを離脱。カンナバーロはレアル・マドリードへ、テュラムはバルセロナへ活躍の場を移した。

ワールドカップ・ドイツ大会

最盛期を築いた選手たちのいなくなったフランス代表は、ドイツW杯予選で大苦戦。この危機に、ドメネク監督からの要請を受けてジダン、マケレレとともに代表へ復帰。その後フランスは無事予選1位突破を果たし、Wカップ出場を決める。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。34歳となっていたテュラムは、ギャラスとCBコンビを組んで初戦から先発出場。ボランチのマケレレ、ヴィエラと連携を取って中央を固め、不調だった攻撃陣をカバー。G/L3試合を失点1に押さえて、スイスに続く2位で決勝トーナメントに勝ち上がった。

トーナメントの1回戦は若手を揃えたスペインと対戦。G/Lでは警告2枚で出場停止になるなど振るわなかったジダンが、ここに来てようやく調子を上げ、勢いのある相手に3-1の快勝。準々決勝に進んだ。

準決勝はジダンが全盛期の輝きを取り戻し、強敵ブラジルに1-0の勝利。スコア以上に相手を圧倒しての勝利となった。

準決勝の相手は、G/Lから好調さを維持するポルトガル。前半の33分、アンリがカルバーリョに倒されPKを獲得。これをジダンが確実に決めて先制する。フランスの守備ラインはコンパクトな陣形を保ち、フィーゴが牽引するポルトガル攻撃陣を完封。1-0の勝利を収めた。

マン・オブ・ザ・マッチの働きを見せたテュラムは、素早い寄せと鋭いタックルでC・ロナウドのドリブル突破を阻止。空中戦も制してポルトガルの放り込みをことごとく跳ね返し、勝利の立役者となった。

決勝はユーロ2000のファイナルでも戦ったイタリアとの対決。開始7分、マテラッツィのファールで得たPKをジダンが決めてフランスが先制。だが19分にマテラッツィのヘディングゴールを許し、1-1の同点とされてしまう。

膠着状態となった試合は延長に突入。延長後半の110分、マテラッツィの挑発に乗ったジダンが頭突きをお見舞いして一発退場。このあとPK戦で敗れてフランスは優勝を逃してしまった。

引退後の活動

08年のユーロ(スイス・オーストリア共催)はキャプテンとして出場。しかしフランスは2敗1分けの最下位でG/L敗退を喫してしまう。移籍したバルセロナでは控えに甘んじる試合が続き、出番を求めてユーロ08終了後にパリ・サンジェルマンとの契約を発表する。

しかし移籍に際するメディカルチェックで心臓の異常が発覚。後の再検査で問題なしと診断されたが、実兄を心臓発作で亡くしていたテュラムは安全を考慮し引退を決意。パリSGとの契約を解除し、36歳で現役から退く。

15年の代表歴で歴代最多となる142試合に出場。記録した得点は、98年W杯・クロアチア戦の2ゴールのみだった。

引退後は「リリアン・テュラム教育財団」を設立。人種差別反対運動に取り組み、政治の分野にも関与、サルコジ大統領から入閣を持ちかけられたこともあったという。また作家としても活動し、1冊の啓蒙書と3冊のグラフィックノベルを出版している。

コメント

タイトルとURLをコピーしました