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《 サッカー人物伝 》 ピーター・シュマイケル

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「 北国の番人 」 ピーター・シュマイケル ( デンマーク )

俊敏な反応で至近距離のシュートを防ぎ、1対1の場面でも絶対的な強さを見せた世界屈指のゴールキーパー。193㎝96㎏の巨体を活かし広い守備範囲でゴールを死守、その偉容から「白い巨人」と呼ばれたデンマークの名手が、ピーター・シュマイケル( Peter Bolesław Schmeichel )だ。
キャリアのピークを過ごしたマンチェスター・ユナイテッドでは、絶対的守護神として5度のリーグ優勝、3度のFAカップ優勝、チャンピオンズリーグ制覇に貢献。98-99シーズンのトレブル(三冠)達成に重要な役割を果たし、クラブの黄金期を支えた。

92年のユーロでは、出場権を剥奪されたユーゴスラビアに代りデンマークが急遽出場。下馬評の低かったチームにあって、ファインセーブ連発の奮闘で強豪のフランス、オランダ、ドイツを次々と撃破。伏兵デンマーク、ビッグタイトル獲得の立役者となった。

名門クラブへのステップアップ

シュマイケルは1963年11月18日、首都コペンハーゲンのあるシェラン島・グラッドサクセで生まれた。父親はポーランド出身のジャズシンガー、母親はデンマーク生まれの看護婦だった。

8歳でコペンハーゲン郊外のジュニアスポーツクラブに入団。そこでキーパーとしての優れた素質を見せたシュマイケルは、環境の整ったユースクラブのひとつ、BKヘロ(のちに合併してグラッドサクセ=ヘロとなる)にスカウトされる。

雪深い北国という環境にあって、サッカーの出来ない冬はハンドボールのGKとして活躍したというシュマイケル。のちに彼のトレードマークとなる「スタージャンプ(両手両足を大きく広げてシュートを阻止するハンドボールの技)」のスタイルは、この時期に培われた。

18歳となった81年にトップチーム昇格、その時の監督はスヴェンド・オーゲ・ハンセンという人物だった。シュマイケルはのちにハンセンの娘と結婚し、二人は義理の親子となる。

ディビジョン1(2部リーグ相当)でのデビュー戦では0-1の敗北を喫してしまったが、シュマイケルのパフォーマンスは地元紙で言及されるほどの高い評価を受けた。84年にはスーペルリーガ(1部リーグ)のフィビドブレに移籍し、87年にはデンマークの強豪ブレンビーIFと契約。着実にステップアップを果たしていった。

人口500万と市場の小さいデンマークリーグにあって、ブレンビーと契約するまでシュマイケルの収入は不安定。それまでは繊維工場の染色係や老人ホームの清掃係、広告会社の仕事などをして生活費を稼いでいたという。

移籍1年目からブレンビーの正GKとしてリーグ優勝に貢献。チームはその後も優勝を重ね、シュマイケルは3度のデンマーク最優秀GKを獲得。国内屈指のキーパーと認められるようになった。

90-91シーズンにはUEFAカップ(現EL)に出場、ブレンビーはクラブ初の準決勝進出を果たした。準決勝ではローマに2戦合計で1-2と敗れてしまったものの、シュマイケルはここまでの10試合で7試合のクリーンシート(無失点試合)を達成。その活躍が注目され、91年8月にはイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドへの移籍を果たす。

当時27歳でまだ無名だったシュマイケル獲得に際し、ユナイテッドが支払った移籍金は50万ポンド(約1億円)。その彼が8年後にユナイテッドでの栄光のキャリアを終えた時には、ファーガソン監督から「世紀の掘り出し物だった」と賛辞を受けることになる。

移籍1年目の91-92シーズン、シュマイケルは公式戦53試合でゴールを守って正GKの座を獲得。小国の出身ながら、名門クラブでもその実力に間違いがないことを証明した。

デンマーク代表の正GK

デンマーク代表には87年5月に23歳で初招集、20日のギリシャ戦で初キャップを刻んだ。このあとユーロ88(西ドイツ開催)の代表メンバーに選ばれ、第2キーパーとしてベンチ入り。初戦のスペイン戦こそ控えに回ったが、第2戦の西ドイツ戦、第3戦のイタリア戦では先発起用される。しかし強豪揃いのグループにあって3戦全敗、デンマークは良いところなく敗退を喫した。

88年10月から始まったW杯欧州予選には正GKとして出場。デンマークは最終戦を残してグループ首位に立つが、本大会出場を懸けた89年11月のルーマニア戦で1-3の敗北。首位争いをしていたライバルに土壇場でかわされ、各チーム2位のポイントランキングでも下位に沈み、2大会連続のW杯出場を逃してしまう。

90年から91年末までに行われていたユーロ予選も、ユーゴスラビアに続くグループ2位。またもメジャー大会への出場はならず、91-92シーズンを終えてシュマイケルら選手たちの気持ちはバカンス休暇に向いていた。

だがユーロ大会本番まで2週間を切り、国内紛争で揺れるユーゴスラビアの出場権剥奪が決定。急遽デンマークが繰り上げ出場することになり、選手たちが緊急招集された。

ユーロ優勝の快挙

92年6月、ユーロ92が開幕。だが直前に行われたソ連との親善試合は、準備不足もあり1-1の凡戦。しかも開催国スウェーデン、イングランド、フランスといった強豪と同組になり、デンマークの勝ち抜けを予想する者は選手を含め誰もいなかった。

初戦はイングランドと1-1の引き分け。それでもブライアン・ラウドルップの好調さもあり内容は悪くなく、手応えを感じた選手たちの士気は上がった。ところが第2戦はスウェーデンに0-1の敗北、勝ち上がりには最終節での勝利が必要となった。

最終節のフランス戦、開始8分にヘンリク・ラーセンのゴールでデンマークが先制。しかし後半の60分にJ・P・パパンの同点弾を浴び、その後も猛攻に晒される時間が続いた。

フランスの攻撃を耐えた78分、B・ラウドルップに代り投入されたエルストルップが勝ち越しゴール。デンマークは守護神シュマイケルを中心にフランスの反撃を凌ぎ、2-1の勝利。大方の予想を覆して、スウェーデンに続くグループ2位での勝ち抜けを決めた。

準決勝の相手は前大会王者のオランダ。開始5分、右サイドをドリブル突破したB・ラウドルップのクロスからラーセンが先制ゴール、しかし23分にベルカンプの同点弾を許してしまう。

33分、B・ラウドルップのヘディングシュートが弾き返されたところを、中央へ詰めていたラーセンが押し込んで勝ち越し。試合はこのまま終盤まで進み、デンマークの金星は目前となった。

だがその86分、オランダの右CKからフリットファン バステンとボールが繋がり、最後はライカールトが同点ゴール。ゲームは振り出しに戻ってしまった。このあと延長戦に入るも120分で決着はつかず、勝負の行方はPK戦に委ねられた。

両チームの1人目がそれぞれPKを決め、オランダの2人目としてファン バステンが登場。シュマイケルは決め打ちでゴール左へ横っ飛び、見事ファン バステンの強いシュートを弾きだした。このファインセーブが勝負を決め、5-4とPK戦を制したデンマークが初の決勝に進んだ。

決勝は90年W杯王者ドイツとの対戦。試合開始からドイツの攻勢が続くが、デンマークは守りを固めて対抗。そして18分にシュマイケルのロングキックで反撃開始、一気にゴール前へ攻め込むと、イエンセンのゴールで先制する。

この日絶好調のシュマイケル、相手エースのクリンスマンが放った決定的シュート2本を、咄嗟の反応で阻止。そのあとも好守を連発し、ドイツ選手を焦らせた。

試合終盤にも追加点が生まれ2-0。このあと粘り強い守備でドイツの反撃を抑え、ついに小国デンマークがユーロ初優勝の快挙を成し遂げる。

マンチェスター・ユナイテッドの絶対的守護神

ユーロ優勝で世界に名を馳せたシュマイケルは、所属するマンチェスター・ユナイテッドでも絶対的守護神として活躍。彼が加入した92-93シーズンからチームはプレミア優勝、FAカップ優勝、コミュニティ・シールド優勝とタイトルを重ね、彼自身も3度の欧州最優秀ゴールキーパー賞に輝く。

シュートへの反応、1対1の強さ、ハイボール処理、ボールを遠くへ飛ばす強肩、的確な指示、足元の巧さなど、キーパーに必要な資質をすべて兼ね備えてチームの最後尾に君臨。ユナイテッド黄金期の創出に重要な役割を果たした。

また1点が必要な最後の場面では、しばし前線に駆け上がり攻撃参加。95-96シーズンのUEFAカップではCKからのヘディングシュートを決め、96-97シーズンのFAカップではバイスクルシュートでネットを揺らした(オフサイド判定でノーゴール)ことさえあった。

その一方で激情家の面も持ち合わせ、ルーズなプレーをする味方選手には顔を真っ赤にして叱咤激励。敵と1対1の場面では鬼の形相で迫り、相手のゴールを阻止した。

そのためトラブルも多く、特にアーセナルのストライカー、イアン・ライトとは犬猿の仲。試合終了後に掴み合いをする騒動も起こす。チームメイトのロイ・キーンとも取っ組み合いのケンカをするほど仲が悪く、ファーガソン監督から叱責を受けたこともある。

それでもシュマイケルに対する仲間の信頼は厚く、97-98シーズン途中からはキャプテンを任されてチームを牽引した。

唯一のワールドカップ出場

94年アメリカW杯の出場は逃してしまったが、95年のコンフェデレーションズカップではアルゼンチンを破り優勝。そして96年のユーロ(イングランド開催)にはディフェンディングチャンピオンとして臨むも、1勝1敗1分けの成績であえなくG/L敗退となった。

96年9月から始まったW杯欧州予選では、ラウドルップ兄弟の活躍で見事G/Lを1位突破。デンマークは3大会ぶりのW杯出場を決めた。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。G/Lでは開催国のフランスが圧倒的な強さを見せ、3戦全勝の1位。デンマークは1勝1敗1分けの成績ながら、2位でべスト16に勝ち上がる。

決勝トーナメントの1回戦はナイジェリアと対戦。シュマイケルは落ち着いた対処でカヌーのシュートを防ぎ、相手の反撃を1点に抑えて4-1の圧勝を収める。

準々決勝は優勝候補、ブラジルとの戦い。開始2分、速いリスタートからデンマークが先制。しかし11分にベベトーのゴールを許し同点となる。27分、Pエリアでボールを受けたリバウドがシュマイケルをかわしてシュート、勝ち越し点を奪われてしまう。

後半50分、R・カルロスがオーバーヘッドでのクリアを失敗。そのミスを突いてB・ラウドルップが同点ゴールを決める。その10分後、ドゥンガの縦パスを受けたリバウドが、左足を振り抜き弾丸シュート。さしものシュマイケルもポスト際に飛び込んだ強烈なボールを止められず、逆転を許してしまった。

熱戦の試合は2-3でデンマークの敗北。シュマイケルは唯一のWカップ出場となった大会で、ベスト8入りの成績を残した。

トレブル達成に果たした役割

98-99シーズン、ユナイテッドはプレミアとFAカップの国内2大タイトルを獲得。シュマイケルはFAカップ準決勝のアーセナル戦でベルカンプのPKを止め、優勝に大きな功績を残した。

そしてチャンピオンズリーグでもついに決勝戦へ到達。ユナイテッドはトレブル達成を目指し、カンプノウでドイツ王者のバイエルン・ミュンヘンと戦った。

だがロイ・キーン、ポール・スコールズと、二人の主力を出場停止で欠くユナイテッドは試合開始から劣勢。前半6分に先制点を奪われると、カーンマテウスを中心としたバイエルンの強力守備陣に跳ね返されて反撃の糸口が掴めずにいた。

0-1と僅差のスコアながら、バイエルン優勢のまま試合は終盤戦に突入。だがロスタイムに入った90分、ユナイテッドは左CKのチャンスを獲得。シュマイケルは最後のチャンスに、当然のようにゴールを離れてセットプレーに加わった。

キッカーのベッカムは、頭ひとつ抜けたシュマイケルめがけ浮き球のクロス。一瞬バイエルの守備に乱れが生じ、そこからシェリンガムが起死回生の同点ゴールを決める。

さらにその2分後には、再びベッカムの左クロスからスールシャールが2-1の逆転ゴール。こうしてユナイテッドは「カンプノウの奇跡」と呼ばれる歴史的勝利で、トレブル達成の偉業をなした。

親子二代にわたる活躍

トレブル達成を置き土産に、36歳のシュマイケルは8シーズンを過ごしたマンチェスター・ユナイテッドを退団。絶対的守護神の抜けたユナイテッドは後釜探しに苦慮し、05年にファン デルサールを獲得するまで正GKが定着しなかった。

99-00シーズンはポルトガルのスポルディングCPでプレー、クラブの18年ぶりとなるプリメイラ・リーグ優勝に貢献する。

00年6月にはユーロ2000(オランダ・ベルギー共催)に出場。シュマイケルはキャプテンを務めたが、デンマークはオランダ、フランス、チェコを相手に3戦全敗。あえなく敗退となった。

翌01年2月に代表からの引退を発表。4月の親善試合、スロベニア戦が代表最後の試合となった。代表歴16年での129キャップは、同国の歴代最多出場記録である。

01-02シーズンはプレミアのアストンビラでプレー。02-03シーズンはマンチェスター・シティーにフリー移籍し、古巣ユナイテッドとマンチェスター・ダービーを行った。

シーズン終了後の03年4月、39歳で現役を引退。引退後は英国BBCの専属解説者を務めた。彼の息子カスパー・シュマイケルもレスター・シティーの正GKとして活躍中、14-15シーズンには奇跡のリーグ優勝に守護神として貢献した。

またカスパーはデンマーク代表のゴールも守り、21年6月にはユーロ2020に出場。デンマークはユーロ92大会以来の快進撃を見せたが、準決勝でイングランドと延長を戦い1-2の敗戦。惜しくも父親の偉業に届かなかった。

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