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《 サッカー人物伝 》 洪 明甫

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「アジア最高のリベロ」洪 明甫(大韓民国)

体格に恵まれたディフェンダーながら足元の技術も持ち合わせ、優れたリーダーシップと的確な状況判断でチームを統率。攻撃参加にも非凡な才を見せ「アジア最高のリベロ」と呼ばれたのが、洪 明甫(ホン ミョンボ / Homg Myung-Bo )だ。

大学時代に出場した90年イタリア大会を始め、4度のワールドカップで全試合に先発。アジア人最多の16試合出場を記録した。自国開催の02年日韓大会ではキャプテンとしてチームを牽引。母国のベスト4入りに貢献し、ブロンズボール賞を受賞する。

Jリーグのベルマーレ平塚と柏レイソルでも活躍。特にレイソルでは闘うメンタルを選手に植え付け、99年のナビスコカップ優勝に大きな役割を果たした。引退後は指導者の道に進み、12年のロンドン五輪で韓国を銅メダルに導く。

初めてのワールドカップ

洪 明甫は1969年2月12日、首都ソウルで生まれた。小学校5年のときからサッカーを始めるが、中学生になっても150㎝台と背が伸びず、当時はFWのポジションでプレーしていたという。

東北トンブク高校に進学してから体が急激に成長し、U-16代表にも選出。韓国の名門、高麗コリョ大学時代にはリベロとして華々しい活躍を見せ、盧 廷潤ノ ジュンユンらとともに89年の全国選手権優勝に貢献する。

韓国の将来を担う若手として注目された洪は、90年2月4日の国際親善試合、ノルウェー戦で代表デビュー。代表ディフェンダーが相次いで故障したという幸運もあり、90年W杯のメンバーに選ばれた。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。初戦のベルギー戦で、洪は一つ上のFW黄 善洪ファン ソンフォ(日本で言うと同学年)とともに先発出場を果たす。

しかしベルギーに0-2の完敗を喫すると、続くスペイン戦は1-3の力負け。第3戦は南米の古豪ウルグアイと接戦を演じるも、終了間際の90分に失点して0-1の敗戦。G/L全敗で大会を去ることになった。

21歳の洪は3試合をフル出場。しかし彼の初の大舞台は、まるで夢のように虚ろなまま終わっていったという。

驚異の新人

91年に高麗大学を卒業するとすぐに入隊、軍隊クラブの尚州尚武サンジュ サンムFCでプレーする。そして半年間の兵役を終えたあと、Kリーグのドラフトにかかり済州チェジュユナイテッドからの指名を受けた。

しかしすでにこの時、洪は黄 善洪も所属する浦項ポハン製鉄アトムズ(現、浦項スティーラーズ)と契約を交わしており、済州への入団を拒否。大きな騒動となったが、結局3対1のトレードで済州から浦項に入団する形をとっての解決をみた。

92年11月、蔚山現代ウルサン ヒョンデFCとの試合でプロデビュー。いきなりこのデビュー戦でゴールを記録するなど、1年目からチームの大黒柱として活躍。洪は最終ラインを統率しながら機を見て攻撃参加、浦項のリーグ優勝に大きく貢献し、新人選手では初となるリーグMVPを獲得する。

ドーハの奇跡

93年10月、94年W杯の出場2枠を6ヶ国で争うアジア最終予選が、カタールのドーハで集中開催された。韓国は初戦のイランに3-0の快勝、順調なスタートを切った。しかし第2戦は洪 明甫のPKなどでイラクから2点を奪うが、終盤に追いつかれて引き分けてしまう。

さらに第3戦、強敵サウジアラビアを終盤まで1-0とリードするも、ロスタイムにゴールを許して2戦連続の引き分け。内容の悪さに選手たちはダメージを受けてしまう。

第4戦は宿敵・日本との戦い。精力的な動きを見せる日本に、韓国は序盤から劣勢を強いられる。攻撃も前線へのパスコースを塞がれ、ロングボールを放り込むだけの単調なサッカーに終始してしまう。

後半の59分、ラモス瑠偉からのパスを左サイドで受けた吉田光範が中央へクロス。一旦タイミングを外したかに見えた三浦知良が、再び転がってきたボールをすかさずシュート。日本の先制点が生まれた。

この場面は洪がクロスボールへの対処を誤り、三浦のオフサイドを取れなかったことが失点に繋がってしまった。韓国は終盤に猛攻を仕掛けるも、必死で守る相手を崩せず試合は0-1で終了する。

韓国が日本に敗れたのは9年ぶり、完封負けとなると実に34年ぶりという屈辱の敗戦に、国内メディアから批判の声が上がった。

最終節を残して韓国は日本、サウジに1ポイント差で続く3位。最終節の試合に勝利しても、W杯へ出場するには上位2チームの結果待ちになるという、厳しい状況に追い込まれた。

最終節は北朝鮮に3-0と圧勝。しかし同時刻でプレーする日本、サウジともに終盤まで試合をリード。ベンチの雰囲気は重く、最後の試合を終えた選手たちに勝利の喜びはなかった。

だがピッチでうなだれる選手に、日本がイラクと引き分けたとの一報。韓国は得失点差で上回り逆転の2位、奇跡のW杯出場を決め、選手たちの表情は絶望から歓喜へと変わっていった。

世界を驚かせた洪の2ゴール

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。初戦は4年前にも戦ったスペインとの試合。前半は0-0で折り返すも、後半に入って立て続けに失点してしまう。しかし前半25分にDFナダル(テニス、ラファエル・ナダルの叔父)が一発退場、終盤に入るとスペインにその影響が現れだした。

85分、プレーの荒くなったスペインからFKのチャンスを獲得。洪が蹴ったFKは目前に築かれた壁をぶち抜き、ゴールへと吸い込まれていった。

1点差に迫った韓国はさらに攻勢を強め、89分に中盤でボールを奪った洪がドリブルからのスルーパス。それを途中出場の徐 正源ソ ジョンウォンが鮮やかに決め、土壇場で2-2の引き分けに持ちんだ。

第2戦はボリビアと0-0の引き分け。G/L突破を懸けた第3戦は、前回王者ドイツとの戦いになった。試合は前半を終わってドイツが3-0と大きくリード、ゲームは順当な結果に終わろうとしていた。

後半に韓国は反撃を開始。洪は前線に顔を出して攻撃の起点になるだけではなく、シュートを放って相手ゴールを脅かした。そして52分に洪のアシストから黄 善洪のゴールが生まれると、63分にはクリアボールを拾った洪が強烈なミドルシュート。ついに1点差へと詰め寄った。

このあと韓国が圧倒的な攻めを見せるが、3点目を奪えず2-3の敗戦。またもWカップ初勝利とG/L突破は叶わなかった。しかし韓国の大健闘は強豪ドイツを慌てさせ、洪は同年のAFC(アジアサッカー連盟)ベストディフェンダーに選ばれた。

Jリーグへの挑戦

浦項では4度ベストイレブンに輝くなど、Kリーグを代表する選手となった洪 明甫。97年に新しい活躍の場を求め、日本のベルマーレ平塚へ入団。韓国代表選手としては盧 廷潤に続くJリーグ挑戦だった。

97年12月には世界選抜のメンバーに選ばれて、ヨーロッパ選抜とのエキシビションマッチに出場。ベルマーレのチームメイト、中田英寿とともに先発のピッチに立っている。

ホーム&アウェーで行われるW杯アジア最終予選が97年9月より開始。車 範根チャ ブングン監督率いる韓国は、FW崔 龍洙チェ ヨンスの活躍もあり初戦から好調。カザフスタン、ウズベキスタンに連勝すると、アウェーの日本戦でも鮮やかな逆転勝利。ぶっちぎりの独走となり、2試合を残して早くも4大会連続のW杯出場を決めた。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。今度こそ1勝をと国民の期待は戦ったが、初戦はメキシコに1-3と逆転負け。第2戦はオランダに0-5と惨敗を喫して車監督は更迭となった。第3戦は健闘するもベルギーと1-1の引き分け。念願のWカップ初勝利はまたもお預けとなってしまった。

99年、西野朗監督からのラブコールを受けて柏レイソルに移籍。それまで守備に弱点を抱えていたレイソルだが、洪が3バックの中央に入ったことでディフェンスが安定する。またチームのキャプテンも努め、勝負に淡泊だったレイソルの選手たちを叱咤激励。南雄太、北嶋秀朗、明神智和、平山智規ら若手の成長を促した。

こうして前年Jリーグ中位に甘んじていたレイソルは、99年には年間総合順位で3位までに浮上。そしてナビスコカップ決勝では、強豪・鹿島アントラーズをPK戦で下してクラブ初のタイトルを獲得。洪は累積警告でこの決勝戦に出られなかったが、彼の与えた影響は計り知れないものがあった。

2000年には黄 善洪、01年には柳 想鐵ユ サンチョルがレイソルに入団。00年に年間総合勝点1位の好成績を残したレイソルは、韓国代表トリオを揃えて01年のリーグ初優勝を狙うも、洪が故障で後半戦を長期離脱。前年活躍した黄も不調に陥り優勝戦線から離脱していく。洪はこの年を限りにレイソルを退団、自国開催のW杯に備えるため古巣の浦項へ復帰する。

ヒディンク監督のチーム改革

01年1月、オランダの名将フース・ヒディンクが韓国代表監督に就任。保守的な韓国サッカーの改革に取り組んだヒディンクは、オランダ伝統の「トータルフットボール」を代表に移植する。そして韓国を体力まかせで前に蹴るだけのチームから、スピードと連動性に優れ、有機的に動く集団へと変えていった。

また縁故主義と学閥、年齢による厳しい上下関係がはびこる韓国社会で、外国人監督のヒディンクは、それらに囚われず無名でも力のある選手を抜擢。グラウンド内での敬語も禁止した。豊富な経験と実績を持ち、韓国の精神的支柱であった33歳の洪も、自分の原則を貫くヒディンク監督から例外扱いをされることはなかった。

リベロを置かないゾーンディフェンスの採用により、しばらく代表から外された洪は、02年2月の親善試合で9ヶ月ぶりに復帰。そのときヒディンクから「若手選手を率いる求心力として呼んだ。レギュラーの座は保証しない」と告げられる。

これを聞いた洪は復帰戦となったチュニジアとの試合で、力の限りを尽くしたベストパフォーマンスを披露、ヒディンク監督を満足させた。こうして代表レギュラーの座を実力で勝ち取り、キャプテンとして4度目のW杯へ挑むことになった。

ワールドカップの快進撃

02年6月、Wカップ・日韓大会が開幕。初戦はポーランドをスピードで圧倒、黄 善洪と柳 想鐵のゴールで2-0の快勝を収め、通算15試合目で悲願のW杯初勝利を手にした。続く第2戦はアメリカに先制されるも、終盤78分のFKから安貞桓アン ジョンファンが同点ゴール。1-1の引き分けに持ち込んだ。

G/L突破を懸けた第3戦、引き分け狙いのポルトガルを相手に韓国は果敢な攻め。その圧力に耐えきれずポルトガルは2人の退場者、優位に試合を進めた韓国は朴 智星パク チソンのゴールで1-0と強豪を撃破する。

こうして韓国はグループ1位で初の決勝トーナメントに進出。54年大会で初出場を果たして以来、6度目の挑戦でついに快挙を成し遂げた。

トーナメントの1回戦はイタリアとの戦い。開始5分にPKのチャンスを得るも、安 貞桓が失敗。その後18分にCKからヴィエリの先制点を許してしまう。いつものように守備を厚くして逃げ切ろうとするイタリアに対し、後半勝負を仕掛けるヒディンク監督は3人のFWを投入。攻め続ける韓国の勢いにアズーリたちは疲労の色を濃くしていった。

88分、ついに韓国が堅い守りをこじ開け薛琦鉉ソル ギヒョンが同点ゴール。試合は延長にもつれ込んだ。延長前半の103分、トッティがシミュレーションをとられ一発退場。攻勢を強める韓国は延長後半の117分、安 貞桓が殊勲のゴールデンゴール。劇的勝利を収めた。

アジア最高のリベロ

準々決勝は、W杯3度目の顔合わせとなるスペインとの対戦。疲れからいつもの迫力がない韓国に対し、ホームアドバンテージを警戒するスペインも慎重な戦い。試合は0-0で前半を折り返した。後半の50分、セットプレーからバラハが韓国のネットを揺らすが、ファールがあったとしてスペインの得点は認められなかった。

ゲームはスコアレスのまま2試合連続の延長に突入。延長前半に入ったばかりの2分、右サイド深くに切り込んだホアキンが完璧なクロス。モリエンテスのヘディングシュートが決まったかに思えたが、ホアキンのクロスがラインを割っていたと判定されて得点は取り消された。

このあと韓国の苦しい時間が続いたが、洪は最終ラインを統率してスペインの猛攻を凌ぎ、時には中盤まで上がって攻撃を組み立てた。ゲームは延長の120分を終わっても得点は生まれず、勝負の行方はPK戦に託された。

先攻の韓国は4人がPKを成功。そしてGK李 雲在イ ウンジェがスペイン4人目、ホアキンのキックを止め、勝利へリーチをかけた。韓国5人目のキッカーはキャプテンの洪 明甫。落ち着いてゴール右上にPKを決め、アジア勢として初めてとなる準決勝進出を決める。

イタリア戦、スペイン戦では明らかな誤審があったとして物議を醸したが、選手たちの闘志とヒディンク監督の積極采配が呼び込んだ勝利という事実に変わりはなかった。

準決勝は名GKカーンの牙城を敗れず0-1の敗戦。トルコとの3位決定戦でも洪のミスからハカン・シュキュルの先制ゴールを許し、惜しくも2-3と敗れて有終の美を飾れなかった。

それでも韓国の快進撃を支えた洪は、カーン、ロナウドに続くシルバーボール賞を受賞。「アジア最高リベロ」の実力を証明した。

指導者としての現在

03-04シーズンに北米MLSのロサンゼルス・ギャラクシーでプレーをしたあと、04年10月に35歳で現役を引退。代表歴13年で刻んだ136キャップは、車 範根に並ぶ韓国歴代1位の記録である。

引退後は指導者の道に進み、韓国代表アシスタントコーチやU-20代表監督を歴任する。09年から五輪代表を指揮、12年のロンドン・オリンピックでは3位決定戦で日本を2-0と下し、韓国サッカー初となる銅メダルを獲得した。

13年6月には韓国代表監督に就任。14年6月開催のWカップ・ブラジル大会に満を持して臨むが、1分け2敗の成績でグループ最下位。大会終了後に辞任を表明する。

現在は蔚山現代FCの監督を務める一方、引退後に設立した「洪明甫財団」の活動を通じて青少年代の支援・育成に当たっている。

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