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《 サッカー人物伝 》 ヘンリク・ラーション

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「 北欧の異端児 」  ヘンリク・ラーション  ( スウェーデン )

類い希な得点感覚を持ち、鋭い動きと優れたポジショニングセンスにより多くのゴールを陥れた。アフリカ人の血を受け継ぐ独特な個性で、北欧の異端児として活躍したストライカーが、ヘンリク・ラーション( Henrik Edward Larsson )だ。

スウェーデンでは小柄な部類に入るも空中戦に強く、キーパーの頭上を抜くループシュートを得意とした。7シーズンを過ごしたセルティック時代には、4年連続を含む5度の得点王に輝き「諸王の中の王(King of Kings)」と呼ばれる。

22歳で臨んだ94年W杯で3位入賞に貢献、派手なドレッドヘアーとともに世界に名を馳せた。98年W杯出場は逃したが、02年W杯では丸刈りのエースストライカーとして再登場。最難関グループ「死のF組」突破の原動力となった。

アフリカの血を受け継ぐストライカー

ラーションは1971年9月20日、スウェーデン南部の都市ヘルシンボリで生まれた。父親は西アフリカ沖にある諸島国・カーボベルデ共和国出身の船乗りで、母親は工場で働くスウェーデン人。3人兄弟の次男として、ヘルシンボリの住宅街で少年期を過ごす。

6歳のとき地元クラブ・ヘーガボリBKの下部組織に入団。17歳でトップチームに昇格し、3部リーグの4シーズンで74試合23得点の成績を残した。21歳となった92年には2部リーグ所属のヘルシンボリIFに移籍、31試合34ゴールの活躍でアルスヴェンカン(トップリーグ)昇格の立役者となる。

アルスヴェンカン昇格を果たした93年シーズンも25試合16ゴールの活躍。その高い得点能力が評価され、93年11月にはオランダの名門フェイエノールトと契約する。しかし初めての外国の馴れない環境に苦しみ、移籍1年目は公式戦27試合で6ゴールという低調な成績に終わった。

スーパーサブとしての出番

スウェーデン代表には93年に初招集。デビュー戦となったW杯欧州予選、10月13日のフィンランド戦で代表初ゴールを記録し、本大会出場決定に貢献している。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。ダーリン、ブローリン、アンデションと攻撃の駒が揃う中、若手のラーションは初戦のナイジェリア戦でベンチスタートとなった。

1-2とリードされた後半の60分、追いつきたいスウェーデンは流れを変えるべく、守備の選手を下げてラーションを投入する。その75分、ボールを持ったラーションが遠目の距離から強烈なシュート。ボールはクロスバーに弾かれたが、素早く反応したダーリンが胸トラップからの左足ゴール。2-2の引き分けに持ち込んだ。

続く第2戦はダーリンの2点とブローリンのPKでロシアに3-1の勝利、ラーションの出場は終盤の10分間にとどまった。

G/L突破を懸けた第3戦は優勝候補のブラジルと対戦。前半23分、アンデションの得点でリードするも、後半の46分にロマーリオのゴールで同点とされる。

このあと両チーム無理をせず、試合は1-1の引き分け。最後までラーションの出番はなかった。結果ブラジルがグループ1位、スウェーデンが2位となってベスト16に進出。スウェーデンにとっては、74年大会以来20年ぶりの1次リーグ突破となった。

ドレッドヘアーの新星

トーナメントの1回戦は、中東の盟主サウジアラビアをダーリンとアンデションの得点で3-1と撃破。準々決勝は、強豪アルゼンチンを破って勢いに乗るルーマニとの対戦となった。

0-0のまま拮抗した展開が続いた終盤の78分、セットのサインプレーから抜け出したブローリンが、深く切れ込んで逆サイドのネットを突き刺すゴール。ついにスウェーデンが均衡を破った。

しかし試合終了間際の88分、ルーマニアのFKからハジのシュートの跳ね返りを拾ったラドチョウが押し込んで同点。試合は延長にもつれ込んだ。

延長前半の101分、DFのミスから再びラドチョウのゴールを許して1-2。さらに102分にはDFシュバルツが2枚目の警告を受け退場となり、一人少なくなったスウェーデンは劣勢を強いられた。

延長後半の107分、疲れの見えるダーリンに代えてラーションを投入。彼のダイナミックで力強いプレーが、力尽きかけていたスウェーデンを蘇らせた。

スウェーデンの時間が続いた115分、パワープレーから長身のアンデションがヘディングシュート。ついにスウェーデンが2-2と追いつき、勝負の行方はPK戦に持ち込まれた。

PK戦は5人が蹴り終わってそれぞれ一人ずつが失敗。サドンデスとなる6人目、先攻のスウェーデンはラーションが落ち着いてゴール。ルーマニア6人目をGKラベリが止め、スウェーデンの準決勝進出が決まった。

しかし準決勝では再び対戦したブラジルに、ロマーリオの決勝点で0-1の敗戦。この準決勝には起用されなかったラーションだが、ブルガリアとの3位決定戦では初の先発出場を果たす。

前半37分には相手DFを巧みにかわして3点目、大会初ゴールを決めて4-0の勝利に貢献する。スウェーデンは58年自国開催大会の準優勝に続く3位の好成績。出番こそ多くなかったがラーションの活力あるプレーは、特徴的なブロンドのドレッドヘアーとともに大会へ強い印象を残した。

転機の訪れ

94-95シーズンは公式戦38試合で16ゴール、95-96シーズンは43試合12ゴールとまずまずの成績を残したが、フェイエノールトでは馴れないポジションをやらされ、試合後半には交代させられるという扱いに苦慮する。

97年のシーズン途中、不満を強めたラーションは移籍を志願。クラブとの契約条項を巡り法廷闘争にまで発展する事態となったが、主張が認められて97年7月にスコットランドのセルティックへ移籍する。

スウェーデン代表ではレギュラーに定着するも、ユーロ96、98年W杯と続けて予選敗退。大舞台への再登場を果たせずにいたが、98年9月から始まったユーロ予選では3ゴールを挙げて本大会出場に貢献する。

しかし予選終了直後の10月、クラブの試合で脚を骨折。ユーロ大会への出場が危ぶまれたが、必死のリハビリを経て代表へ復帰。00年6月開催のユーロ2000(オランダ/ベルギー共催)へ間に合わせた。

だがこの大会のスウェーデンに94年W杯のような得点力はなく、1分け2敗の最下位でG/L敗退。故障明けで調子の上がらないラーションは、最終節のイタリア戦で1点を挙げるのがやっとだった。

グラスゴーのキング

移籍したセルティックでは1年目からエースとして活躍。チームトップの16ゴールを挙げ、セルティック10年ぶりのリーグ優勝(それまでレンジャーズが9連覇)に貢献する。

98-99シーズンは29ゴールを記録して初の得点王。新たに創設されたスコティッシュ・プレミアリーグ優勝は逃したものの、スコットランドPFA年間最優秀選手賞と記者協会年間最優秀選手賞をダブル受賞した。

99-00シーズンは脚の骨折によりチームを長期離脱、リーグ戦9試合7ゴールの成績に終わった。だが翌00-01シーズンに見事な復活、リーグ戦37試合で35ゴールを挙げ2度目の得点王を獲得する。

チームもプレミアリーグ、スコティッシュカップ、リーグカップの3冠を達成。公式戦53ゴールと大車輪の活躍で3冠達成の原動力となったラーションは、スコットランドの個人タイトルを独占するとともに、欧州リーグのトップスコアラーに与えられる “ヨーロッパ・ゴールデンシュー” に輝く。

さらに01-02シーズンには29ゴールを記録して連続得点王、セルティックはリーグ2連覇を成し遂げた。オールドファーム(グラスゴーに本拠地を置く2大クラブ)のライバルであるレンジャーズのアドボカート監督は、「彼は世界最高のストライカーの一人。バティストゥータは消える時間も多いが、ラーションはゴールスコアラーに加えて多くの仕事をこなす」と絶賛。

この頃にはドレッドヘアーから丸刈り頭へ一変。チームを牽引する存在感にその容貌も相まって、グラスゴーのサポーターから「諸王の中の王」と呼ばれるようになった。

死のF組

00年9月から始まったW杯欧州予選では10試合8得点の大活躍、スェーデンを2大会ぶりのWカップ出場に導く。

02年5月、Wカップ・日韓大会が開幕。スウェーデンが入ったグループは、イングランド、アルゼンチン、ナイジェリアといった難敵の待つ「死のF組」だった。

初戦(埼玉)はベッカム擁するイングランドと1-1の引き分け。第2戦(神戸)でアフリカの雄ナイジェリアと戦った。個人能力を押し出したナイジェリアの攻撃に、スウェーデンは組織力で対抗。前半から激しい攻防戦が繰り広げられた。

27分、ヨボのクロスにアガホワが驚異の跳躍、頭で合わせてナイジェリアが先制した。ゴールを決めたアガホワは、5連続バク転からの宙返りパフォーマンスで喜びを爆発させる。

スウェーデンも繊細なパスワークで機会を窺い、35分にはユングベリがDF2人の間を通すスルーパス。鮮やかなトラップから抜け出したラーションが同点ゴールを叩き込む。ラーションは得意のベロ出しポーズで観客席にアピール、試合は白熱していった。

前半終了直前、オコチャがドリブル突破でスウェーデンのDF陣を翻弄。あわやオウンゴールのピンチとなったがポストに救われる。

そして後半の63分、Pエリアでユングベリからのパスを受けたラーションが背後から倒されPK。これをラーションが豪快に決め、ゲームをひっくり返す。このあとスウェーデンがナイジェリアの反撃をかわして2-1の勝利、大きな勝ち点3を得た。

日本での熱い戦い

G/L突破を懸けた最終節(宮城)は、優勝候補アルゼンチンとの対戦。スウェーデンは好調ユングベリを故障で欠く苦しい布陣となった。

試合は開始からアルゼンチンが圧倒。スウェーデンは終始押し込まれながらも、カウンターによる反撃を狙った。そして後半の59分、A・スヴェンソンが倒されゴール正面のFKを獲得。これをスヴェンソン自身が直接ゴールへ放り込み、スウェーデンが先制する。

このあとアルゼンチンの猛攻に晒されるが、スウェーデンは体を張った守備でゴールを死守。終盤88分にPKを与えて追いつかれるも、最後を締めて1-1の引き分けとする。この結果イングランドと勝ち点5で並び、総得点で上回ってグループ1位。優勝候補のアルゼンチンを敗退に追いやった。

トーナメントの1回戦(大分)は、フランスを破って勢いに乗るセネガルと対戦。個人技と組織力を兼ね備えたセネガルに、スウェーデンは体格を活かしたパワープレーで対抗した。

11分に右CKのチャンス、巧みな位置取りからラーションがヘッドで合わせて先制する。スウェーデンが主導権を握ったかに思えたが、37分にアンリ・カマラのミドルシュートで同点とされてしまう。

このまま試合は延長に突入。延長前半終了直前の104分、カマラが軽やかなステップでDF網を切り裂き、左足シュートでゴールデンゴール。熱戦に終止符が打たれた。

スウェーデンは惜しくも1回戦敗退。大会終了後、30歳となっていたラーションは代表からの引退を表明する。

セルティックでの栄光

02-03シーズン、28ゴールを挙げて3季連続4度目の得点王。セルティックはリーグ優勝を逃してしまったが、UEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)ではラーションの活躍(準決勝まで9得点)で決勝に進出する。

決勝の相手は、英才ジョゼ・モウリーニョ率いるポルト。前半に先制を許すが、後半47分にラーションのヘディングゴールで同点。54分に再びリードを奪われるも、3分後にまたもラーションが頭で決めて追いつく。

勝負は延長にもつれたが、96分にセルティックのCBが警告2枚で退場。115分に決勝点を入れられて力尽き、もう一歩のところで優勝に手が届かなかった。

03-04シーズンは30ゴールで5度目の得点王、プレミア優勝とスコティッシュカップ優勝の2冠に貢献する。契約満了となったラーションはセルティックを退団。念願のビッグクラブ、FCバルセロナと新たに1年契約を結ぶ。

7シーズンを過ごしたセルティックでは公式戦313試合で242ゴールを記録。5度の得点王に輝き、4回のリーグ優勝、2回のスコティッシュカップ優勝、2回のリーグカップ優勝などチームに多くのタイトルをもたらした。

スキンヘッドのレジェンド

一時代表を退いたラーションだが、国民からの熱いコールを受けてユーロ04大会(ポルトガル開催)で復帰。大会ではユングベリ、アルベック、イブラヒモビッチらと強力な攻撃陣を形成。ブルガリア戦での豪快なダイビングヘッドを含む3ゴールでG/L1位突破に貢献する。しかしオランダとの準々決勝では延長PK戦の末、惜しくも敗退となってしまった。

06年には3度目となるWカップ・ドイツ大会に出場。34歳のラーションは4試合にフル出場し、G/L最終節のイングランド戦では殊勲のロスタイム同点弾を記録している。だがトーナメント1回戦で開催国ドイツに0-2の完敗。後半ラーションがPKを外し、反撃に水を差してしまった。

大会終了後に2度目の代表引退を表明。しかしその後再び復帰し、09年10月のデンマーク戦が最後の試合となった。17年の代表歴で106試合に出場、37ゴールを決めている。

指導者としての現在

バルセロナでは2シーズンプレー。05-06シーズンは公式戦15ゴールを挙げて、リーグ優勝とチャンピオンズリーグ優勝の2冠に貢献した。

06年には古巣のヘルシンボリIFに戻り、マンチェスター・ユナイテッドへの3ヶ月のローン移籍を挟んで、09年11月に38歳で現役を引退する。

引退後は指導者の道に進み、ヘルシンボリなどスウェーデン国内クラブの監督を歴任。20年8月からは、R・クーマン監督のもとバルセロナのアシスタントコーチを務めている。

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