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《 サッカー人物伝 》 エンリケ・オマール・シボリ

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「汚れた顔の天使」 エンリケ・オマール・シボリ (アルゼンチン / イタリア)

「エル・カベソン(頭でっかち)」と呼ばれる小柄のずんぐり体型ながら、ひとたびボールを持てば芸術的な足技で観客を堪能させた。そのプレーで50年代から60年代にかけてアルゼンチンとイタリアで活躍した左利きのテクニシャンが、エンリケ・オマール・シボリ( Enrique Omar Sivori )だ。

若くしてリーベル・プレートとアルゼンチン代表の主力となり、57年の南米選手権では強力攻撃陣の一翼を担って優勝に貢献。その破壊力はウンベルト・マスキオ、アントニオ・アンジェリオとともに「トリオ・デ・ムエルテス(死のトリオ)」と呼ばれた。

そのあと両親の祖国であるイタリアに渡り、ユベントスの点取り屋として活躍。59-60シーズンには得点王の働きでチームをリーグ優勝とコッパ・イタリア優勝に導き、バロンドール賞にも選ばれた。62年にはイタリア代表でチリW杯に出場している。

リーベル・プレートの「エル・カベソン」

シボリは1935年10月2日、ブエノスアイレス北部の町サン・ニコラス・デ・ロス・アロージョスで、イタリア系の両親のもとに生まれた。

小さい頃からストリートサッカーに興じ、その姿がクラブ関係者の目に止まりリーベル・プレートの下部組織に入団。16歳のときには4部リーグの12試合で14ゴールの活躍。翌年にクラブとプロ契約を交わし、リザーブチームの21試合で11ゴールを決めて頭角を現す。

18歳となった54年4月、強豪ラヌスとの対戦でトップリーグデビュー。途中出場で1部リーグ初得点を挙げ、デビュー戦を飾った。

そのあとボカ・ジュニアーズとの “スーパークラシコ” でも勝利に貢献するなど活躍。デビューシーズンは8ゴールの成績を残し、その頭でっかちの体型から、さっそく「エル・カベソン」の愛称で呼ばれるようになる。

翌55年は23試合で11ゴールを挙げ、南米史上最強と呼ばれた「ラ・マキナ(ザ・マシーン)」の時代を築いたアンヘル・ラブラナやフェリックス・ロウストウらの名FWが揃う中で、若くしてレギュラーに定着した。

リーベルは55年からリーグ3連覇を達成し、ウルグアイのナシオナルを破ってコパ・リオ・デ・ラプラタ(ラプラタ川を挟んだアルゼンチンとウルグアイのクラブ代表対抗戦)にも優勝。テクニックと得点力に優れたレフトインナー、オマール・シボリの名は南米中に知られるようになった。

アルゼンチンの「汚れた顔の天使」

アルゼンチン代表には20歳で初招集。代表を率いる指揮官は、第1回W杯で初代得点王となったギジェルモ・スタービレだった。そして56年1月からウルグアイで開催された南米選手権の第1戦、ペルーとの試合でデビューを果たし、2-1の勝利に貢献する。

大会は出場6チームによるリーグ戦総当たり形式で行われ、シボリはチーム5試合のうち4試合に出場。アルゼンチンは3勝2敗で開催国ウルグアイ、チリに続く3位に終わった。

同年3月には、第2回パンアメリカン・フットボール選手権(アメリカ大陸3連盟の代表による大会)に出場。アルゼンチンはブラジルに続く2位となったが、シボリは5ゴールを挙げて大会得点王に輝く。

57年3月、ペルー開催の南米選手権に出場。シボリ、マスキオ、アンジェリオ、コルバッタ、クルスと前線のタレントを揃えたアルゼンチンは、持ち前の攻撃力を爆発させた。

大会は出場7チームによるリーグ戦。初戦のコロンビアに8-2の大勝を収めると、第2戦のエクアドル戦も3-0と完勝。第3戦では前回王者のウルグアイを4-0と圧倒し、第4戦はチリを6-2の大差で下す。

第5戦は最大のライバル、ブラジルとの戦いも3-0の完全勝利で制し、1試合を残して2大会ぶり11度目の優勝を決める。最終戦はペルーに1-2と敗れたものの、アルゼンチンは6試合で25ゴールを叩き出すという驚異的な得点力を見せつけた。

3得点を挙げるほか、素晴らしいパフォーマンスで攻撃をリードしたシボリは大会最優秀選手に選ばれ、9得点を挙げたマスキオ、8得点を挙げたアンジェリオとともに、無慈悲なまでの破壊力から「死のトリオ」と称された。

またこのトリオはそのコワモテぶり、不遜かつ容赦のないプレースタイルより、「カラス・スシアス(汚い顔)」あるいは「汚れた顔の天使」(ギャング映画のタイトル)の名で呼ばれ、恐れられるようになる。

ユベントス「魔法のトリオ」

コパ・アメリカ終了後の57年夏、「死のトリオ」はイタリアのクラブにスカウトされ、シボリはユベントス、マスキオはボローニャ、アンジェリオはインテルとそれぞれ契約。ユベントスがリーベルに支払った1000万ペソは、当時最高額の移籍金となった。

翌年アルゼンチン代表は24年ぶりとなるWカップ出場を果たすが、イタリアに渡った彼ら3人が招集されることはなかった。

ユベントスでは、チームの象徴であるジャンピエロ・ボニペルティ、ウェールズの「優しき巨人」ことジョン・チャールズとともに「魔法のトリオ」と呼ばれる攻撃陣を形成。移籍した57-58シーズンにはさっそくリーグ戦22ゴールを記録。トリオで58得点を叩き出す破壊力を見せつけ、チームに5季ぶりとなるスクデットをもたらす。

翌58-59シーズンは怪我の影響もあり15ゴールにとどまったが、コッパ・イタリアではチャールズの5得点に続く4得点を挙げて17年ぶりの優勝に貢献。復調した59-60シーズンは28ゴールを決めて初の得点王、セリエA優勝とコッパ・イタリア優勝2冠達成の立役者となった。

シボリのプレースタイルは「大胆で華麗」と評され、サポーターの人気を集めた。優れたテクニックとスピードを駆使して相手ディフェンダーを打ち負かし、強力な左足シュートで得点を量産。「ナツメグ」と呼ばれる鮮やかな股抜きプレーは、彼の代名詞となる。

その一方で気性の荒い選手としても知られ、「悪魔」と恐れられたラフプレーやダーティーなプレーで敵を脅かすこともしばしば。そのため、悪質なタックルによる報復を受けることも多かったという。

バロンドール受賞

60-61シーズンも25ゴールを挙げて得点ランク2位。6月のインテル戦ではセリエA記録の1人6得点(シルビオ・ピオラとタイ記録)を決めるなど、チームをリーグ2連覇に導く活躍で61年度のバロンドール賞に選ばれる。

バロンドールはヨーロッパの選手に与えられる賞(95年から国籍不問)だが、イタリアにルーツを持つシボリはこの年に二重国籍を取得。南米出身の選手としては、リーベル・プレートとアルゼンチン代表の先輩である、アルフレッド・ディ・ステファノに続く栄誉となった。

60-61シーズン終了後、チームのシンボルだったボニペルティが現役引退。61-62シーズン終了後にはチャールズがリーズ・ユナイテッドに移籍し攻撃トリオが解体され、ユベントスの勢いに翳りが見えてきた。

61-62シーズンのチャンピオンズカップでは、準々決勝でレアル・マドリードと対戦。ホームでの第1戦はディ・ステファノの得点を許し0-1の敗戦。だが敵地での第2戦はシボリのゴールで1-0と勝利し、エキストラゲームに持ち込む。結局第3戦で1-3と敗れてしまうが、ユベントスはサンティアゴ・ベルナベウで無敵レアルに黒星をつけた初のイタリアチームとなる。

サンティアゴの戦闘

国籍を取得したことでイタリア代表に呼ばれ、61年4月の北アイルランド戦でデビューゴールを決める。同年6月にはフィレンツェで祖国アルゼンチンと親善試合を行い、2得点を記録している。

W杯欧州予選では、最終節のイスラエル戦で4得点を挙げて本大会出場決定に貢献。62年には「死のトリオ」の仲間だったマスキオや、元ブラジル代表FWアルタフィーニとともに、Wカップ・チリ大会に出場する。1次リーグの初戦は、好敵手の西ドイツと0-0の引き分け。続く第2戦は開催国チリとの対戦だった。

首都サンティアゴで行われた試合は、開始前から異様な雰囲気に包まれていた。その背景にはシボリやアルタフィーニなど、南米選手の引き抜きを巡るイタリアへの反感があった。さらにイタリアの記者がチリの生活水準を侮辱するような記事を書いたため、地元チームと観客を怒らせてしまったのである。

チリはキックオフから唾を吐きかけるなどイタリアを挑発。その8分、チリFWランダに背後から蹴られたイタリアのフェリーニが報復行為で退場処分。主審のジャッジに納得出来ないフェリーニは指示に従わず、ゲームは10分間中断となった。

フェリーニが強制的に連れ出されたあと試合は再開、一人少なくなったイタリアは激しいタックルを連発する。そのタックルに怒ったチリのR・サンチェスが、マスキオの顔面めがけて左フックのパンチ。マスキオは鼻骨骨折のダメージを負うが、主審が見逃していたためサンチェスは退場とならなかった。

その数分後、報復を狙うイタリアDFダビッドがサンチェスの頭を蹴って退場処分。試合は乱闘へと発展し怪我人が続出、警察が3度も介入する事態となった。

二人少なくなったイタリアは後半守備を固めるも、74分にサンチェスのFKからラミレスのヘッドを許してチリが先制。終了間際にも追加点を奪われ、イタリアは0-2の敗戦を喫する。

この乱闘試合はテレビで全世界中継され、「サンティアゴの戦闘」と呼ばれるWカップの歴史に汚点を残すゲームとなった。

第3戦はスイスに3-0の快勝を収めるも、1勝1敗1分けのグループ3位で1次リーグ敗退。2試合に出場したシボリは目立った活躍を見せることが出来なかった。

このあと異なる代表チームへの転籍が禁じられ、シボリの代表活動は終わりを告げる。2年間のアルゼンチン代表歴では19試合9ゴールを記録。同じく2年間のイタリア代表歴で9試合8ゴールを記録している。

ユベントスからナポリへ

64-65シーズンは自身3度目となるコッパ・イタリア優勝のタイトルを手にしたが、リベルト・エレーラ監督と深刻な不和が生じたことから退団を決意する。

8シーズンを過ごしたユベントスでは317試合167得点の記録を残した。これは4年前に引退したボニペルティ(179ゴール)に続く、クラブ歴代2位の得点記録となった。(現在は5位)

65-66シーズンは、セリエAに昇格したばかりの地方クラブ、ナポリへ移籍。同時に入団したアルタフィーニとFWコンビを組み、リーグ3位の好成績とアルプス・カップ(アルプス山脈に接する4ヶ国の代表による親善大会)優勝に貢献する。

67-68シーズンはGKディノ・ゾフを加えて、ACミランと優勝争いを演じリーグ2位。しかしシボリは膝の負傷とペサオラ監督との対立により出場機会を失い、僅か7試合2ゴールの成績にとどまった。

翌68-69シーズン、古巣ユベントスとの試合で相手DFを蹴って一発退場。シボリには6試合の出場停止処分が科せられたが、膝がすでに限界の状態だったこともあり、このまま33歳での現役引退を決意する。

12シーズンを過ごしたセリエAでは多くのタイトルを手にしたが、一方で33回の退場処分という不名誉な記録も残している。

マラドーナとの共通点

後にディエゴ・マラドーナが現れると、アルゼンチン出身、体型、プレースタイル、レフティー、闘争心の強さ、ナポリでの活躍という多くの共通点から比較される存在となった。

引退後は母国アルゼンチンに戻り、国内クラブ監督を歴任。73年にはアルゼンチン代表のテクニカルディレクターに就任し、2大会ぶりとなるW杯・74年西ドイツ大会への出場を助けた。

その後ユベントスの南米担当スカウトを長らく務め、05年2月17日、膵臓癌により故郷のサン・ニコラスで死去。享年69歳だった。

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