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《 サッカー人物伝 》 ユルゲン・クリンスマン

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「ブロンドの隼」ユルゲン・クリンスマン(ドイツ)

スピードを活かした幅広い動きから、アグレッシブに攻撃を仕掛けたドイツのエースストライカー。非凡な得点感覚でゴールを量産し、颯爽と金髪をなびかせる姿から「ブロンドのハヤブサ」と呼ばれたのが、ユルゲン・クリンスマン( Jürgen Klinsmann)だ。

ワールドカップでは、初めて臨んだイタリア大会で3得点を挙げて優勝に貢献。94年アメリカ大会と98年フランス大会はベスト8にとどまるも、3大会で計11ゴールを記録する。ユーロ96ではキャプテンを務め、ドイツを3度目の大会制覇に導いた。

インテル・ミラノではマテウス、ブレーメとともに「ドイツ・トライアングル」を形成、UEFAカップ優勝を果たした。その後移籍したバイエルン・ミュンヘンではUEFAカップとブンデスリーガを制している。

パン職人の息子

クリンスマンは1964年7月30日、西ドイツ南部に位置するバーデン・ビュルテンベルク州の小さな町ゲッピンゲンで、4人兄弟の一人として生まれた。父親はパン職人で、クリンスマンが14歳のときに州都のシュツットガルトへ移り、ベーカリーを開店している。

8歳のとき地元アマチュアクラブでサッカーを始め、9歳のときには一人で1ゲーム16得点を挙げるなど才能を見せた。そのあと移ったSCガイスリンゲンのユースチームでは、4シーズンで250ゴールを記録するという驚くべき成績を残している。

また体操やバレーボールも得意とするなど運動神経は抜群、学業にも優秀で語学へ興味を持っていた。それでも家業を継ぐつもりで職業訓練を始めていたクリンスマンは、このとき他の道に進むことなど考えていなかった。

だがその才能を周りが放っておくわけもなく、16歳の時にシュツットガルト・キッカーズ(2部リーグ所属)に誘われ入団を決意。各年代のユース代表にも選ばれるようになり、18歳となった82年にクラブとプロ契約を結ぶ。

83-84シーズンにはレギュラーの座を掴み、100m11秒台の快足を活かして19ゴールを記録。その活躍が地元の名門V f Bシュツットガルトに認められ、ブンデスリーガへの進出を果たす。

84-85シーズンはさっそく15ゴールを挙げてチーム得点王。そして85-86、86-87シーズンと続けて16ゴールを記録。86年のDFBポカール(ドイツ・カップ)では決勝まで(バイエルン・ミュンヘンに2-5の敗北)進んだ。

87-88シーズンは19ゴールを挙げてブンデスリーガ得点王を獲得。その中でもバイエルン戦で決めた鮮やかなバイスクルシュートは、87年のドイツ「ゴール・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。

ユーロ88とソウル五輪での活躍

西ドイツ代表には87年12月に23歳で初選出。南米遠征のブラジル戦でデビューを果たし、88年4月に行なわれたスイスとの親善試合で初ゴールを記録する。

そして同年の6月には、初のビッグイベントとなる自国開催のユーロ88に出場。クリンスマンはG/L第2戦のデンマーク戦で先制点を記録し、第3戦のスペイン戦ではルディ・フェラーのゴールをアシスト。ベスト4進出に貢献する。

準決勝ではオランダと対戦。クリンスマンが獲得したPKで(キッカーはローター・マテウス)西ドイツがリードするが、終盤の74分に逆にPKを取られて同点。88分にファン バステンの逆転ゴールを許し、無念の敗退を喫してしまった。

このあと9月から始まったソウル五輪に参加。当時サッカー競技の出場規定は「アマチュアもしくはプロでもWカップに出場していない選手」というものであり、新鋭のクリンスマンがメンバーに選ばれたのだ。

西ドイツは準決勝へ進むも、ロマーリオ擁するブラジルにPK戦で敗れて3位決定戦へ。3位決定戦ではクリンスマンの先制ゴールなどでイタリアに3-0と圧勝、銅メダルを獲得した。

88-89シーズン、V f BはUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)の決勝へ進出するが、マラドーナ率いるナポリに4-5(2戦合計)と敗れてタイトル獲得はならなかった。

しかしドイツ年間最優秀選手賞に輝くなど、ブンデスリーガを代表するストライカーとなったクリンスマンは、セリエAの名門インテル・ミラノへの移籍を果たす。

インテルでは前年バイエルンから加入したマテウス、ブレーメとともに「ドイツ・トライアングル」を結成。トラパットーニ監督の守備的戦術に戸惑いながらも、公式戦15ゴールを記録。語学の得意なクリンスマンはすぐにイタリア語を習得し、ルックスの良さもありミラノの人気者となった。

オランダと因縁の対決

88年8月から始まったW杯欧州予選では、ユーロで敗れたオランダと同組。ホームでの第1戦は0-0と引き分け、アウェーの第2戦も1-1の引き分けとなる。結局オランダがグループ1位、西ドイツが2位でWカップの出場権を得た。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。クリンスマンは第2戦のユーゴスラビア戦と第3戦のUAE戦でゴールを記録、西ドイツはG/Lを2勝1分けの1位で勝ち上がる。そしてトーナメントの1回戦は、因縁の相手オランダとの対戦になった。

試合が行なわれたのがミラノのサン・シーロ(ジュゼッペ・メアッツァ)スタジアム。「ドイツ・トライアングル」を擁するインテルと、フリットら「オランダ・トリオ」を擁するACミランのホームグラウンドである。

前半20分、ドリブル突破を図るフェラーに、ライカールトがスライディングタックルで阻止。揉み合いとなった二人にイエローカードが出された。その直後の22分、西ドイツFKの場面でゴールに走り込んだフェラーが、ボールをキャッチした相手キーパーと接触。

するとライカールトがピッチに倒れ込むフェラーへ駆け寄り、覆い被さるような体勢で物言い。小競り合いを演じた二人にはレッドカードが出された。

ダメージは攻守の要を失ったオランダに大きく、次第に流れは西ドイツペースに。そして後半の51分、ブッフバルトが左サイドから送ったクロスを、クリンスマンが左足ボレーで合わせて先制。さらに82分にはブレーメが追加点を決める。

終了直前にPKで1点を返されるが、西ドイツは優勝候補オランダを相手に会心の勝利。続く準々決勝はチェコスロバキアを1-0と下し、準決勝ではPK戦でイングランドを撃破、3大会連続の決勝へ進んだ。

決勝は前大会でも優勝を争ったアルゼンチンとの戦い。主力数人を出場停止で欠いて守りを固めるアルゼンチンに西ドイツは攻めあぐねるが、85分にフェラーが倒されPKを獲得。これをブレーメが確実に決め1-0の勝利、前回決勝の雪辱を果たし、西ドイツは3度目の優勝を飾った。

ドイツ代表のエース

90-91シーズンは公式戦17ゴールを挙げてUEFAカップ優勝に貢献。しかし結果だけを求められるイタリアサッカーに馴染めず、プライベートの保てないミラノの街にもストレスを募らせていく。

翌91-92シーズンは公式戦37試合8ゴールとスランプに陥り、一時は引退を考えるほど悩むが、契約が残っていたインテルの退団を決意。フランスのASモナコへ移籍する。

92年6月には、東西ドイツ統一後に最初のビッグイベントとなったユーロ92(スウェーデン開催)へ出場。ここでもG/Lでオランダと同組になり、最終節の対決でクリンスマンのゴール虚しく1-3の完敗。オランダに続く2位での準決勝進出となった。

それでも地元スウェーデンを破り決勝へ勝ち上がるが、伏兵デンマークに0-2と敗れて準優勝。決勝でクリンスマンの放った2本の決定的なシュートは、守護神シュマイケルの神懸りセーブに防がれてしまった。

92-93シーズンに移籍したモナコでは、「再生屋」と呼ばれたアーセン・ベンゲル監督の指導のもと、リーグ戦19ゴールを挙げて復活。翌93-94シーズンはチャンピオンズリーグに出場し、クリンスマンはチーム最多の4ゴールを記録してベスト4入りに貢献した。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会に出場(前回優勝国として予選免除)する。初戦のボリビア戦はクリンスマンの決勝ゴールで1-0の勝利。次のスペイン戦もクリンスマンの同点ゴールで1-1の引き分けに持ち込む。

最終節の韓国戦は、洪 明甫ホンミョンボのゴールで追い上げられる予想外の展開となったが、クリンスマンの2得点で3-2と逃げ切り、グループ1位での勝ち抜けを決めた。

トーナメントの1回戦は、クリンスマンの4試合連続ゴールなどでベルギーに3-2と競り勝ち、ベスト8へ進出。準々決勝ではアルゼンチンを破って勢いに乗るブルガリアと対戦した。

後半開始早々の47分、クリンスマンがレチコフに倒されPKを獲得。これをマテウスが冷静に沈めて先制する。このままドイツ優勢で進むかに思えたが、75分にストイチコフが自ら得たFKを鮮やかに決められ、同点とされる。さらにその3分後、レチコフのヘディングゴールを許して2-3の逆転。ドイツは痛恨の敗戦を喫し、大会を終えた。

ユーロ96優勝

大会終了後、イングランドのトッテナム・ホットスパーへ移籍。プレーもスケジュールもハードなプレミアリーグあって、30歳のクリンスマンには懐疑的な目が向けられたが、デビューとなったシェフィールド・ウェンズディ戦でヘディングによる初ゴールを記録。

そのあともコンスタントに得点を決め、94-95シーズンは41試合20ゴールの大活躍。前年15位だったチームを7位にまで引き上げ、FAカップではベスト4入りに貢献。サッカーライターによるイングランド年間最優秀選手賞に選ばれる。

その明るい人柄と果敢なプレースタイルで英国の人気者となったクリンスマンだが、母国の強豪クラブからのオファーを受け、スパーズを1年で離れバイエルン・ミュンヘンへ移籍した。

バイエルンの1年目は公式戦45試合31ゴールと好成績を残し、UEFAカップ優勝に貢献。だがチームのキャプテン、マテウスから一方的な恨みを買い、たびたび口撃を受けるようになるが、クリンスマンは大人の対応でそれを受け流した。

96年6月から始まったユーロ96(イングランド開催)大会は、二人の不仲を理由にマテウスが出場を辞退。クリンスマンは彼に代って代表キャプテンを務めた。

イタリアと同居したG/Lを2勝1分けの1位で突破。準々決勝でビッグトーナメント初参加となったクロアチアを1-0と撃破し、準決勝は地元イングランドをPK戦で破る。そして決勝はG/Lでも戦ったチェコと対戦し、延長の95分にビアホフのゴールデンゴールをアシスト。ドイツは5大会ぶりのユーロ優勝を果たした。

クリンスマンは大会3得点を記録するとともに、主力の負傷と出場停止が続いたチームをキャプテンとしてよくまとめ上げ、優勝の功労者となった。

最後の大舞台

96-97シーズンも、リーグ戦15ゴールの活躍でブンデスリーガ優勝に貢献。翌97-98シーズンはイタリアのサンプドリアに移籍する。しかしサンプドリアでは故障のためほとんど活躍出来ず、97年12月には2年半ぶりにトッテナム・ホットスパーへ舞い戻ることになった。スパーズでは残りの15試合で9ゴールを挙げ、降格の危機にあったチームを救った。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦のアメリカ戦は、開始早々のCKをクリンスマンが頭で折り返し、それをメラーがヘッドで押し込んで先制。さらに64分には、ビアホフのクロスにクリンスマンが胸トラップからのシュートで追加点、2-0と快勝した。

第2戦はユーゴスラビアと2-2の引き分け、第3戦はビアホフとクリンスマンのゴールでイランを退け、グループ1位でベスト16に進む。

トーナメントの1回戦はメキシコにリードを許し苦しい展開となるも、相手のミスを突いて75分にクリンスマンが同点ゴール。86分にビアホフの決勝弾が生まれ、2-1の逆転勝利を収めた。

準々決勝ではクロアチアと対戦。前半はドイツが主導権を握るが、再三のチャンスを逃した40分、シュケルの得点機をファールで阻止したDFベアンスが一発退場。ここから戦況は一変する。

前半終了直前の45分、数的有利となったクロアチアがヤルニのシュートで先制。さらに終盤の80分にも追加点を許し、85分にはシュケルのダメ押しゴールで勝負あり。ドイツは0-3の完敗を喫し、大会から去ることになった。

大会終了後、34歳で現役を引退。12年間の代表歴で108試合に出場、47ゴールを記録した。4ヶ国7チームを渡り歩いたクラブでは、公式戦614試合281得点の記録を残し、イタリア語、フランス語、英語にも堪能となった。

監督としての実績

引退後は指導者の道に進み、04年7月にドイツ代表監督へ就任。クリンスマン監督はユーロ04で惨敗を喫したドイツ代表の若返りを図り、それまでチームの精神的支柱であったオリバー・カーンを正GKの座から外した。

自国開催となった06年のW杯では、地元ながら決して前評判の高くなかったドイツ代表を大会3位に導き称賛を受けた。しかし契約延長の申し出を断り監督を退任。しばしの休養のあと08年にバイエルン・ミュンヘンの監督に就任するが、優勝を逃して1シーズンで解任となった。

11年にはアメリカ代表監督へ就任。クリンスマン監督はそれまで主力だったドノバンやボカネグラを代表から外す一方、ドイツ育ちの二重国籍選手5人(「ユルゲン・アメリカ」と呼ばれた)を選出。大胆な改革を推し進める。

13年のCONCACAFゴールドカップ(北中米カリブ海選手権)では3大会ぶり5度目の優勝を達成。そのあとW杯予選を1位で勝ち抜け、2大会連続の出場を決める。14年のWカップ・ブラジル大会では、ドイツ、ポルトガル、ガーナと同居する難しいグループに入ったが、1勝1敗1分けの成績でベスト16進出を果たした。

19年にはヘルタ・ベルリンの監督に就任するも、クラブ首脳陣との方向性の違いにより、10週間で辞任している。

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