「 ウクライナの旋風 」アンドリー・シェフチェンコ( ウクライナ )
「ウクライナの矢」と呼ばれた電光石火の突破から、多彩なシュートでゴールを量産した。スピード、技術、フィジカル、得点感覚とすべてを兼ね備え、「スター軍団」ACミランのエースとして活躍した世界最高のストライカーが、アンドリー・シェフチェンコ( Andriy Mykolaiovych Shevchenko )だ。
ウクライナの名門、ディナモ・キエフでその名を轟かせ、ACミラン移籍の1年目に24ゴールを挙げてリーグ得点王を獲得する。02-03シーズンはチャンピオンズリーグ優勝に貢献。03-04シーズンは5年ぶりとなるセリエA優勝の立役者となり、バロンドールに輝いた。
代表では絶対的エースとしてチームを牽引し、06年W杯ドイツ大会では初出場のウクライナをベスト8に導く。引退後の16年に母国の代表監督へ就任。18年のW杯出場を逃したものの、ユーロ2020ではベスト8入りの好成績を残している。
シェフチェンコは1976年9月29日、ウクライナ(当時ソ連邦)の首都キエフ近郊にあるヤゴティンスキー地区ドヴォルコフシチィーナ村で生まれた。
3歳のときキエフの住宅街オボロニへ移住。母親は体の弱かった息子を心配して、近所のスポーツクラブへ通わせた。そこでアイスホッケーやボクシングに夢中となり、地域のサッカーチームにも参加するが、9歳のときにチェルノブイリ原発事故が発生。子供たちは黒海沿岸の街への避難を余儀なくされた。
その避難先で少年サッカーチームがつくられ、シェフチェンコはリーダー格として活躍。しばらくしてキエフへ戻り、名門ディナモ・キエフと提唱するサッカースクールのテストを受けるが、ドリブルに難ありと判断されて不合格になる。
しかし、ある大会でのパフォーマンスがディナモのスカウトの目に止まり、改めてスクールへの入学が許された。軍人だった父親は息子に自分と同じ道へ進むことを望んでいたが、コーチの熱心な説得により、本格的なトレーニングを始める。
サッカースクールで基礎的技術を身につけ、14歳のときにウェールズで行なわれた “イアン・ラッシュ・カップ” にディナモ・ユースの一員として出場。シェフチェンコはこの大会でMVPに選ばれ、リバプールのエースだったイアン・ラッシュから記念のスパイクを受け取っている。
17歳となった93年には、ディナモ2(2部リーグに所属するディナモ・キエフのセカンドチーム)に昇格。93-94シーズンは12ゴールを挙げてチームの最高得点者となり、94-95シーズンにトップチームへの昇格を果たす。
トップリーグの1年目は17試合1ゴールの成績に終わったが、94年12月に行なわれたチャンピオンズリーグのグループリーグに初出場。試合はバイエルン・ミュンヘンに1-4と敗れるが、ディナモ唯一の得点を挙げたのはシェフチェンコだった。
95-96シーズンには31試合16ゴールを挙げて、ヴィーシチャ・リーハ(現ウクライナ・プレミアリーグ)連覇とウクライナ・カップ優勝に貢献。96-97シーズンは怪我の影響で20試合6ゴールにとどまるも、ディナモの監督に復帰したウクライナの名将ロバノフスキー監督の指導を受けて、翌シーズンに19ゴールを記録して復活。2度目となる2冠達成の立役者となり、リーグの最優秀選手に輝く。
さらにこの年のチャンピオンズリーグでは、バルセロナを相手に敵地カンプノウでハットトリックを達成。名門クラブをG/L敗退に追い込むとともにベスト8進出に貢献した。圧倒的な突破力で得点を重ねるシェフチェンコは、ディナモの伝説的選手オレグ・ブロヒンに続く、第2代目「ウクライナの矢」を襲名することになった。
98-99シーズンは18ゴールで初のリーグ得点王。ディナモは2年連続の国内2冠を達成するとともに、チャンピオンズリーグも前年に続きベスト8進出を果たす。
準々決勝の相手となったのは、ディフェンディング・チャンピオンのレアル・マドリード。敵地サンティアゴ・ベルナベウで戦った第1戦は、シェフチェンコのゴールで1-1の引き分け。ホームに戻った第2戦では、後半にシェフチェンコが2点を挙げて2-0の完勝。ディナモは初の準決勝へ進んだ。
準決勝はバイエルン・ミュンヘンと対戦。ホームの第1戦はシェフチェンコの2ゴールで前半をリードするが、後半に追いつかれて3-3の引き分け。敵地での第2戦は1-0と敗れ、惜しくも決勝進出を逃してしまった。
それでも大会得点王の活躍でディナモをベスト4に導いたシェフチェンコには、欧州名門クラブからのオファーが殺到する。その中で、早い時期から獲得に動いていたACミランとの契約が成立。ウクライナのストライカーはセリエAへ活躍の舞台を移すことになった。
各年代の代表で活躍していたシェフチェンコは、95年3月のクロアチア戦で18歳にしてフル代表デビュー。翌96年5月の親善試合、トルコ戦で代表初ゴールを記録する。
96年8月から始まったフランスW杯欧州予選にも参加。グループ予選はドイツとポルトガルによる争いになると思われたが、伏兵ウクライナがプレーオフ出場権を得られる2位を確保。ポルトガルを予選敗退に追い込み関係者を驚かせた。
プレーオフでは、同じくW杯初出場を目指すクロアチアと対戦。敵地での第1戦は0-2と敗れ、逆転を狙ったホームでの第2戦はシェフチェンコの先制点でリード。しかしボクシッチの同点弾を許し1-1の引き分け、W杯初出場を逃してしまう。
そのあと、98年9月から始まったユーロ予選でもウクライナは大健闘。シェフチェンコ3得点の活躍でフランスに続くグループ2位を確保し、プレーオフ進出を決める。プレーオフはともにユーロ初出場を目指すスロベニアとの対戦になった。
敵地での第1戦はシェフチェンコのゴールで先制するも、後半に2点を入れられて1-2の逆転負け。ホームでの第2戦は1-1の引き分けとなり、またもメジャー大会への出場は叶わなかった。
ミラン1年目の99-00シーズン、セリエAデビュー戦(対レッチェ)で初ゴールを記録。ザッケローニ監督からエース・ストライカーに指名されたシェフチェンコは、イタリアサッカーに高い順応力を見せて32試合24ゴールを記録。移籍1年目でリーグ得点王を獲得する。
翌00-01シーズンも24ゴールを決めて、クレスポ(ラツィオ)に続く得点ランク2位。ミランはエースの活躍を生かせずタイトルを逃し続けていたが、01-02シーズンはインザーギとルイ・コスタを補強し、最強と言える布陣でスクデット奪還を目指した。
しかし01年10月のボローニャ戦でシェフチェンコが鼻骨を骨折してしまう。そのあとも膝の怪我などアクシデントが重なり29試合14ゴールの成績。ミランはリーグ4位にとどまり3季連続で無冠となってしまった。
翌02-03シーズン、チームはさらにリバウドやセードルフ、ネスタらの大型補強を行なう。だがシェフチェンコは、8月のチャンピオンズリーグ予選、スロバン・リベレツ戦で左膝靱帯を損傷。故障を抱えながらのプレーを強いられてしまった。
結局このシーズンは24試合5ゴールと移籍後最低の成績に終わってしまうが、ミランはピルロをレジスタへ置いたシステムでコッパ・イタリアを26年ぶりに制覇。チャンピオンズリーグも久々の快調さで勝ち進んだ。
準々決勝はアヤックスを2戦合計3-2と撃破。復帰したシェフチェンコが1ゴールを決めた。準決勝はミラノダービーのインテルとサンシーロ対決を行い、2戦合計で1-1となったものの、シェフチェンコの貴重なアウェーゴールによりミランが決勝へ勝ち進む。
決勝はユベントスとのライバル対決。豪華メンバーを揃えた両チームだが、双方守備的戦術に徹した試合は見どころも無く延長120分を0-0で終了する。PK戦は4人目を終わってミランが2-1とリード。ユベントス5人目のデル・ピエロがPKを沈めたあと、ミラン5人目のシェフチェンコが、ゴール右に勝利のシュートを決める。
こうしてミランは9シーズンぶりのCL優勝を果たし、シェフチェンコは初のビッグイアーを手にした。同年末にはトヨタカップでボカ・ジュニアーズと戦うも、PK戦で敗れて世界一の座は逃してしまった。
00年9月からW杯欧州予選が始まり、ロバノフスキー監督を指揮官に迎えたウクライナ代表は初出場を懸けて予選リーグに臨む。
シェフチェンコは初戦から得点を重ね、予選10試合で9ゴールの活躍。しかし好調ポーランドに及ばずまたもやグループ2位。プレーオフでもドイツに屈し、またもや大舞台への出場はならなかった。
02年9月からはユーロ予選を戦い、シェフチェンコは怪我に苦しみながらも予選8試合で3ゴールを記録する。しかしウクライナはグループ3位に沈み、プレーオフにも進めなかった。
03-04シーズン、復活したシェフチェンコはリーグ戦32試合に出場して24ゴールを記録。2度目のセリエA得点王を獲得した。そしてミランは5季ぶりのスクデットを獲得し、UEFAスーパーカップも制覇する。
この活躍により、04年のバロンドールを受賞。ウクライナ、そしてディナモ・キエフの出身者としては、ブロヒン(75年)、イゴーリ・ベラノフ(86年)に続く3人目の受賞となった。また母国からも「ウクライナの英雄」勲章が贈られている。
04-05シーズンは頬骨を骨折するというアクシデントに見舞われるも、29試合に出場して17ゴールを記録。チャンピオンリーグでも6ゴールを挙げて2年ぶりの決勝進出に貢献した。
イスタンブールで行なわれたリバプールとの決勝は前半で3点をリードし、ミランの勝利は間違いないものと思われた。しかし後半ジェラードのヘディングゴールから怒濤の反撃が始まり、僅か6分で3-3と追いつかれて延長戦。延長戦ではシェフチェンコの決定的なシュート2本を、相手GKデュデクに止められて決着はつかなかった。
そのあとのPK戦は4人目を終わってリバプールが3-2とリード。ミラン5人目のシェフチェンコはデュデクのクネクネした動きに惑わされてしまったか、痛恨のPK失敗でジ・エンド。リバプールに優勝をさらわれてしまった。
05-06シーズンは28試合で19ゴール。チャンピオンズリーグは準決勝でバルセロナに敗れて決勝へ進めなかったが、シェフチェンコは12試合9ゴールを挙げて大会得点王となる。シーズン終了後、チェルシーのオーナー、アブラモビッチからの熱烈なラブコールを受け、7シーズンを過ごしたミランを離れてプレミアリーグへ移籍する。
04年9月よりW杯欧州予選が開始、母国代表を率いる監督は英雄ブロヒンだった。予選グループではユーロ04王者のギリシャ、同大会ベスト4のデンマーク、02年W杯3位のトルコといった難敵が相手となった。
劣勢が予想された中で、シェフチェンコは10試合6ゴールの活躍でチームを牽引。エース兼キャプテンとしてウライナをグループ予選1位に導き、ついに念願のW杯初出場を果たしたのである。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦のスペイン戦は若く勢いのある相手に0-4の惨敗。故障明けでぶっつけ本番となったシェフチェンコの動きは鈍かった。だが第2戦はサウジアラビアに4-0と圧勝、シェフチェンコは1ゴール1アシストの活躍で不安を払拭した。
G/L突破を懸けた最終節のチュニジア戦は慎重な試合運びとなったが、70分にシェフチェンコが自ら得たPKを確実に決めて先制。スペインに続くグループ2位でベスト18に進んだ。
トーナメントの1回戦はスイスと対戦。堅守を誇る相手に延長120分を戦い、決着はPK戦へ。1人目に登場したシェフチェンコはPKを外してしまうが、後攻のスイスも3人がPK失敗。ウクライナは残りの3人がPKを決めベスト8進出となった。
準々決勝はイタリアに0-3の完敗。相手の厳しいマークにシェフチェンコは動きを封じられてしまった。それでも初出場ベスト4の成績は、充分に満足できるものだった。
大きな期待を受けてチェルシーに加わったシェフチェンコだが、イングランドサッカーとモウリーニョ監督の戦術に馴染めず30試合4ゴールと低迷。翌07-08シーズンはモウリーニョが途中退任となるも、新たに加入したアネルカにポジションを奪われて出場機会が激減する。
08-09シーズンは移籍を希望してACミランにレンタルで復帰。しかしミランでもかつてのようなパフォーマンスを取り戻せず、リーグ戦で1ゴールも挙げることなくレンタル期間が終了。09-10シーズンはチェルシーに戻るが、クラブとの合意を得て古巣のディナモ・キエフへ復帰した。
すでに往年のような力はなかったが、ベテランとして選手を引っ張りチームに貢献。2年ぶりに出場したチャンピオンズリーグではミラン時代のライバル、インテルとの試合でゴールを決めた。
12年6月、自国開催のユーロ(ポーランドと共催)に初出場。シェフチェンコは初戦のスウェーデン戦で2点を挙げて勝利の立役者となるが、続くフランスとイングランドに連敗。G/L突破はならなかった。
大会終了後の7月、政治家への転身を理由に35歳で現役を引退。ACミランでは公式戦319試合175得点、ディナモでは公式戦249試合125得点の記録を残した。また18年の代表歴で111試合に出場、48ゴールを挙げている。
国政選挙に落選して政治家転身は失敗。そのあとサッカー界に戻り、16年7月にウクライナ代表監督へ就任。18年のWカップ出場は果たせなかったが、21年のユーロ2020本大会に出場する。
ウクライナはグループ3位となるも、辛うじてベスト16に進出。トーナメント1回戦でスウェーデンと延長を戦い、PK戦になると思われた延長後半のアディショナルタイムにウクライナが劇的な勝ち越し弾。2-1と勝利しベスト8入りを果たした。(準々決勝ではイングランドに0-4と大敗)
大会終了後の8月にウクライナ代表監督を辞任。21年11月にはジェノアCFCの監督に就任している。
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