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《 サッカー人物伝 》 パベル・ネドベド

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「鋼の心臓を持つ男」パベル・ネドベド(チェコ)

底知れぬスタミナで攻守に駆け回り、その馬力と機動力でチームを支えた中盤のゼネラリスト。また両足による正確なキックを持ち、一気に走り込んでの強烈なミドルシートを炸裂させ「チェコの大砲」と呼ばれたのが、パベル・ネドベド( Pavel Nedvěd )だ。

特徴的な金髪がトレードマーク。決して派手なプレーヤーではないが、ハードワークと安定したパフォーマンスでチームを活性化させた。02-03シーズンは獅子奮迅の働きでユベントスにスクデットをもたらし、チェコスロバキアの先達ヨゼフ・マソプストに続くバロンドールを受賞した。

ユーロ96では同世代の若手選手とともに代表を牽引。強豪のイタリア、ポルトガル、フランスを撃破し、ダークホース的存在に過ぎなかったチェコを準優勝に導く。06年には独立後で初となるW杯出場に貢献している。

努力タイプのプレーヤー

ネドベドは1972年8月30日、ドイツと国境を接するチェブ地区で生まれ、その近くの小さな町スカルナで育った。5歳のとき地元クラブでサッカーを始め、家では当時2部リーグの選手だった父親の手ほどきを受けている。

しかし少年時代のネドベドは医者を目指し、サッカー選手となってからも会計士の勉強に励むなど、堅実な性格だったようだ。

14歳で1部リーグ所属のスコダ・プルゼンへ移り、兵役に就いた18歳のとき軍隊クラブのデュクラ・プラハでプレー。除隊した92年にスカウトされて、名門スパルタ・プラハへ移籍する。

当初はスパルタ・プラハに馴染めず「平凡な選手」と、決して監督の評価は高くなかったネドベドだが、1日12時間を練習に費やす努力と熱心さで頭角を現していった。

93年1月にチェコがスロバキアと分離独立して共和国となり、国内プロリーグのフォルトゥナ・リガが創立。移籍2年目のネドベドは23試合3ゴールの成績を残し、リーグの初代王者となったチームのレギュラーメンバーとなる。

翌94-95シーズンも27試合6ゴールの成績でリーグ2連覇に貢献。95-96シーズンは30試合で14ゴールを挙げてチームの主力となり、チェコカップ優勝のタイトルを得た。

ユーロ96の快進撃

92年から93年までU-21代表で活動。94年には21歳でフル代表へ招集され、6月の親善試合アイルランド戦でデビューを果たす。

95年のユーロ予選から代表に定着。ネドベドと同年代のパトリック・ベルガー、カレル・ポボルスキー、ラディク・ベーブル、ヴラディミール・シュミツェルら若手選手が躍動し、スピード溢れるサッカーを展開。予選を勝ち抜いて、チェコ共和国成立後初のビッグイベント出場を果たした。

96年6月、イングランド開催のユーロ96が開幕。チェコの入ったC組にはドイツ、イタリア、ロシアと実力国が揃っており苦戦が予想された。初戦は強豪ドイツと戦って0-2の敗戦、苦しいスタートとなった。

第2戦の相手は94年W杯準優勝のイタリア。開始4分、ポボルスキーが右サイドから上げたクロスに、オフサイドラインをかいくぐったネドベドが飛び込んで先制点。しかし18分にイタリアのカウンター攻撃を受け、キエーザの同点ゴールを許してしまう。

イタリアに流れが傾きかけた29分、DFアポローニがチェコのワントップ、パベル・クカを後ろから倒してイエローカード。この試合2枚目の警告で退場となった。

ここからチェコが勢いを取り戻し、ポボルスキーやネドベドの果敢な突破でイタリア守備陣を苦しめる。そして35分、クカの折り返しを2列目から飛び出したベーブルがダイレクトで合わせて、勝ち越し点が生まれた。

このままチェコが逃げ切って、10人のイタリアに2-1の勝利。最終節のロシア戦はクカとシュミツェルのゴールで3-3と引き分け、ドイツに続くグループ2位を確保。優勝候補のイタリアを敗退に追い込んだ。

価値ある準優勝

累積2枚の警告を受けたネドベドは準決勝で出場停止となってしまったが、チェコはルイス・フィーゴルイ・コスタら「黄金世代」のポルトガルを相手に、ポボルスキーが得点を挙げて1-0の勝利を収める。

そしてネドベドが復帰した準決勝は、ジダンデサイーら強力なタレントを擁するフランスと延長120分を戦いスコアレスドロー。チェコがPK戦を制してついに決勝へ進んだ。

決勝はG/L初戦で敗れたドイツとの対戦となった。0-0で折り返した後半の59分、ネドベドを起点とした速攻からマティアス・ザマーの反則を誘いPKを獲得。これをベルガーが沈めてチェコが先制する。

しかし試合終盤に入った73分、交代出場したばかりのオリバー・ビアホフにFKを頭で合わされ同点。試合は延長戦に突入した。その延長前半5分、ゴールを背にパスを受けたビアホフが反転からのシュート。これが決まりゴールデンゴールでの決着。初出場のチェコは惜しくもビッグタイトルを逃してしまった。

それでも大会に驚きをもたらしたチェコの若い選手たちは大きな注目を浴び、ポボルスキーはマンチェスター・ユナイテッド、ベルガーはリバプール、ベーブルはアトレティコ・マドリード、シュミツェルはレンヌ、そしてネドベドはラツィオへと、欧州5大リーグへの移籍を果たす。

鋼の心臓を持つ男

ネドベドの豊富な運動量と献身的な働き、そして闘争心溢れるプレーはラツィオに大きな影響を与え、移籍した1年目からチームに欠かせない選手となった。

それまで中堅クラブに甘んじてきたラツィオだが、アルゼンチンのベロン、シメオネ、C・ロペス、チリのサラス、セルビアのスタンコビッチと毎年のように補強を重ね、97-98シーズンはコッパ・イタリアを約40年ぶりに制覇する。

98-99シーズンは膝の故障によりパフォーマンスを落としてしまうが、UEFAカップウィナーズカップとUEFAスーパーカップで初優勝を経験した。

そしてビッグクラブ並に戦力を整えた99-00シーズン、ネドベドも復活を果たし26年ぶりとなるスクデットを獲得。コッパ・イタリア優勝と合わせて、クラブ史上初となる国内タイトル2冠を達成する。

90分間休まず攻守に顔を出し「はがねの心臓を持つ」と呼ばれたネドベドの貢献度を、クラブは高く評価。00-01シーズン終了後、ネドベドとラツィオは4年の長期契約を交わした。

しかしこの頃クラブのオーナー会社の経営が悪化。財政難に陥ったラツィオは高額年俸の選手たちを抱えきれなくなり、クラブ生え抜きのキャプテン、アレッサンドロ・ネスタさえ放出せざるを得ない状況に陥っていた。

そこへ、ジダン放出後の大型補強を図っていたユベントスが獲得に動き、ネドベドは急転直下、トリノの名門クラブへ移籍することになった。

停滞するチェコ代表

チェコ代表は98年W杯フランス大会の出場を逃すが、2000年のユーロ大会(オランダ / ベルギー共催)予選では10戦10勝の強さを見せて、2度目の本大会出場を果たす。

しかし足首に故障を抱えたネドベドの動きは鈍く、初戦のオランダ戦は0-1の敗戦。第2戦は前回も対戦したフランスに1-2と敗れてしまった。

第3戦はシュミツェルの2ゴールでデンマークを相手に1勝を挙げたものの、グループ3位にとどまり敗退。チームには巨人FWヤン・コレルや若き司令塔トーマス・ロシツキー、MFマレク・ヤンクロフスキと新戦力も加わっていたが、彼らの力を活かすことは出来なかった。

01年から始まったW杯欧州予選では、初出場を目指して順調に勝ち星を重ねるも、グループの最大の強敵デンマークに敗れ、その後のアイスランド戦も痛恨の黒星。グループ2位となりプレーオフを戦うことになった。

しかしベルギーと戦ったプレーオフはホーム、アウェーともに0-1の敗戦。またもWカップ出場は叶わなかった。

バロンドール受賞の活躍

01-02シーズン、トレゼゲ、ブッフォン、テュラムら大型補強を行なったユベントスは5季ぶりのスクデットを獲得。しかし移籍1年目のネドベドはマルチェロ・リッピ監督のハイプレス戦術に上手く適応出来ず、優勝への貢献度は高くなかった。

02-03シーズン、リッピ監督はネドベドの機動力を活かすべく、左サイドでより自由を与えるようシステムに変更を加えた。するとネドベドは水を得た魚の如く、攻守にわたりアグレッシブにプレー。ビアンコネリに大きな推進力を与えた。

そしてトレゼゲやデル・ピエロなど故障者が続出する中、ネドベドはチームの大黒柱となってシーズンをフル稼働。セリエA2連覇の立役者となる。

チャンピオンズリーグも順調に勝ち上がり、準々決勝でバルセロナを退け準決勝に進出。ネドベドは敵地カンプノウで貴重なアウェーゴールを挙げ、勝利に貢献した。

準決勝は「銀河系軍団」のレアル・マドリードと対戦。敵地での第1レグはロナウドロベカルのゴールで1-2と敗れてしまった。

ホームに戻った1週間後の第2レグ、守備の要マケレレを怪我で欠くレアルに、ユベントスは試合開始から果敢な攻め。12分にトレゼゲのゴールで先制すると、43分にはデル・ピエロが追加点。後半67分にロナウドを倒してPKを与えてしまうが、フィーゴのキックをブッフォンが止めてピンチを逃れる。

その6分後、ライン裏を抜け出したネドベドがゴールへ突進。追いすがるイエロとエルゲラを振り切り、勝負を決定づける追加点を決めた。

このあとレアルの反撃をジダンの1点に抑え、ユベントスが11年ぶりのCL決勝へ進出。だが82分にイエローカードを受けたネドベドは、累積警告で決勝戦に出られないことを瞬間的に悟り、顔を両手で覆って涙に暮れた。

ACミランとの同国ライバル対決になったCL決勝は、PK戦で敗れてビッグイアーを逃してしまうが、ユベントスを牽引したネドベドはこの年のバロンドールに輝く。62年W杯でチェコスロバキアを準優勝に導いた先達、ヨゼフ・マソプスト以来の栄冠だった。

ユーロ04 無念の準決勝敗退

02年9月から始まったユーロ予選はキャプテンとして臨み、ホームでのオランダ戦では強豪を3-1と撃破。8戦7勝1分けと圧倒的な強さを見せてグループ1位での本大会出場を決めた。

04年6月から始まったユーロ本大会(ポルトガル開催)では、新鋭FWミラノ・バロッシュと若き守護神ペトル・チェフが台頭。初戦のラトビア戦は思わぬ苦戦を強いられるが、終盤の鮮やかな逆転劇で1-2の勝利を収める。

第2戦のオランダ戦も序盤で2点をリードされ苦しい展開となるが、後半に怒濤の攻撃で3-2の逆転勝ち。キャプテンのネドベドもマン・オブ・ザ・マッチの働きを見せている。

2連勝でG/L突破を決め最終節のドイツ戦は主力を温存するも、バロッシュの3戦連続ゴールで2-1の勝利。強豪を敗退に追い込んだ。

準々決勝はコレルの先制点とバロッシュの2得点でデンマークを3-0と退け、96年大会に続く準決勝進出。戦前ダークホースと思われていたチェコは、その内容の素晴らしさで一躍優勝候補に躍り出た。

準決勝の相手は伏兵のギリシャ。堅守を誇る相手に攻めあぐねていた前半の40分、ネドベドが接触プレーで足首を痛めて負傷交代。精神的支柱を失ったチェコの勢いは止まってしまう。

スコアレスのままゲームは延長に突入。そして延長前半が終わろうとしていた105分、CKからギリシャが決定的なゴール。チェコ決勝進出の夢は断たれた。

大会終了後、念願叶わなかったネドベドは「代表とクラブの掛け持ちは困難になった」ことを理由に代表からの引退を表明する。

カルチョポリ事件とワールドカップ初出場

03-04シーズンはACミランに優勝を奪われてしまったものの、04-05、05-06シーズンと再びリーグ2連覇を達成。黄金期を迎えたかに見えたユベントスだが、クラブの「カルチョポリ」と呼ばれる大規模不正事件が発覚。ユベントスは04-05、05-06シーズンの優勝を剥奪され、さらにセリエBへの降格処分を受けてしまう。

この事態にカンナバーロ、ヴィエラ、テュラム、イブラヒモビッチらの主力がチームを去る中、ネドベドはデル・ピエロ、ブッフォン、トレゼゲとともに残留を表明。06-07シーズンはマイナス9ポイントのハンディから始まったセリエBで優勝に貢献。ユベントスは1年でのセリエA復帰を果たす。

W杯予選でチェコはオランダに続くグループ2位となり、本大会出場を懸けてプレーオフを戦うことになった。ネドベドは国民とチームメイトの呼びかけに応じて代表復帰、テクニックに頼りがちなチームに闘争心を植え付ける。そしてプレーオフではノルウェーを下し、ついに独立後初のWカップ出場を決めた。

06年96月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦はコレルのゴールとロシツキーの2得点でアメリカに3-0の快勝。しかし第2戦はコレルの負傷欠場とDFの一発退場が響き、アフリカのガーナに0-2と敗れてしまった。

G/L突破を懸けた最終節はイタリアと対戦。チェコは故障明けのバロッシュを初先発させるも、決定機をことごとく外すなどコンディションは最悪。ネドベドの強烈なシュートもブッフォンに阻まれ、0-2の敗戦。1人気を吐いたネドベドの奮闘も虚しく、無念の敗退となってしまった。

ユベントスの副会長

ネドベドはセリエA復帰後2シーズンをプレーし、09年5月に35歳で現役を引退。最後のシーズンもリーグ戦27試合に出場して7ゴールとレギュラーを張っていたが、精神的疲労を感じての引退だった。

8シーズンを過ごしたユベントスでは公式戦327試合に出場し、65ゴールを記録。13年の代表歴で91キャップを刻み、18ゴールを挙げている。

引退後はユベントスでスポーツディレクターを務め、10年にクラブの執行役員に就任した。15年10月にはユベントスの副会長に選出、引き続きスポーツディレクター部門で責任を負っている。

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