「 スター軍団を支えた黒子 」 クロード・マケレレ ( フランス )
小柄ながら、驚異的な守備能力と無尽蔵のスタミナで2人分の仕事をこなしたスーパーボランチ。献身的な働きで広大なスペースをカバー、ボール奪取の名手として攻撃の芽を摘みながら、ゲームを展開するパス精度の高さも備えていた。その職人肌でチームを支える黒子役に徹した名選手が、クロード・マケレレ( Claude Makélelé Sinda )だ。
ジダンらスター選手を揃えたレアル・マドリード「銀河系軍団」では、縁の下の力持ちとして奮闘。超攻撃的で前掛かりになりがちなチームのバランスをとり、CL優勝に貢献した。チェルシーに移ってからも目覚ましい働きを見せ、守備的MFのポジションは「マケレレ・ロール(マケレレの役割)」と呼ばれるようになった。
フランス代表では活躍の機会に恵まれず、ユーロ04大会後に代表引退を表明。しかしW杯欧州予選でフランスが苦戦する中、協会の要請を受けてジダン、テュラムとともに代表へ復帰。06年のドイツ大会ではヴィエラとボランチコンビを組み、鉄壁の守備網を形成した。
マケレレは1973年2月18日、ザイール(現コンゴ共和国)の首都キンシャザで生まれた。父アンドレ・ジョセフは同国の代表歴もあるサッカー選手だったが、モブツ大統領による独裁支配を嫌い、旧宗主国であるベルギーへ渡って3部リーグでプレー。マケレレが4歳のとき残されていた家族も欧州へ脱出し、父親とはフランス・パリ郊外のサビニー = ル = タンプルで合流する。
15歳のときに隣町のアマチュアクラブ、SMダンマリー77(現FCムラン)へ加入。ここでのちにフランス代表の同僚となる、ひとつ年上のリリアン・テュラムと出会う。
90年にディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)に所属するスタッド・ブレストの下部組織に入団。ブルターニュにあるトレーニングセンターで独り暮らしを始めたマケレレは、馴れない環境に苦労しながらも自分のプレースタイルを磨いていった。
91年には誘いを受けたFCナントへ移籍。19歳となった92-93シーズンにはトップチームに昇格し、92年8月のメッツ戦で1部リーグデビューを飾る。
デビュー1年目から中盤のレギュラーとして活躍。93-94シーズンにはUEFAカップ(現EL)に出場し、94-95にはリーグ優勝に貢献。クラブはUEFAカップでもベスト8入りを果たす。
翌95-96シーズンはチャンピオンズリーグ準決勝進出に大きく寄与し、若手屈指の守備的MFと目されるようになる。その活躍が認められ、97-98シーズンには当時国内随一の強豪クラブ、オリンピック・マルセイユへ引き抜かれる。しかしマルセイユでは監督との確執もあり、不本意な1年を過ごすことになった。
98-99シーズン、新たな活躍の場を求めたマケレレは、スペインのセルタ・デ・ビーゴへ移籍。セルタでは攻撃の主力であるロシア代表コンビ、アレクサンドル・モストボイ、ヴァレリー・カルピンを中盤底からサポートする役割を請け負う。
98-99シーズンのUEFAカップでは、名門リバプールを2戦合計4-1で下して準決勝に進出。翌99-00シーズンの同大会では、4回戦で強豪ユベントスを2戦合計4-1と撃破。いち地方クラブにすぎないセルタの快挙は世界を驚嘆させた。
そして中盤の柱としてチームの躍進を支えたマケレレへ、名門レアル・マドリードからのオファーが舞い込む。レアルが提示した移籍金に、セルタは「彼の価値に見合わない」と難色を示すが、マケレレ自身はビッグクラブへの移籍をボイコットを起こしてまで熱望。クラブはしぶしぶ有能なボランチを放出することになった。
00-01シーズン、マケレレはルイス・フィーゴらとともにレアルへ入団。レドンドの抜けたボランチのポジションで5季ぶりのリーグ優勝を果たすと、翌01-02シーズンは、新加入ジダンの活躍を助けチャンピオンズリーグ優勝に貢献。同年末には横浜で行なわれたトヨタカップも制した。
フィーゴ、ジダン、ラウル、モリエンテス、R・カルロスと攻撃のスターを揃えたチームで、マケレレはダブルボランチのエルゲラと中盤底を固めて守備の弱点をカバー。その貢献度は「バロンドールに匹敵する」と、チームメイトの高い評価を受けた。
ロナウドが加わった02-03シーズンは、リーガ・エスパニョーラを2季ぶりに制覇。スーパースターを集めて「銀河系軍団」化していくチームの中で、攻守のバランスをとるマケレレの重要度はさらに増していった。
だがそんなマケレレの価値を理解していなかったのが、「銀河系軍団」化を推し進めていたフロンティーノ・ペレス会長だった。ペレス会長はユニフォームの売れるスター選手ばかりを優遇。地味な仕事を受け持つマケレレに支払われた年俸は、彼らの5分の1に過ぎなかった。
03年の夏、レアルは新たなスターコレクションとしてベッカムの獲得を発表。ますます自分への負担が大きくなると考えたマケレレは、クラブへ待遇の改善を要求する。しかし彼の存在を軽視したペレス会長はその要求を一蹴。この扱いにマケレレは、「自分の仕事に敬意が払われなかった」としてレアル退団を決意した。
結果マケレレの退団でレアルは攻守のバランスを失い、そのあとしばらく低迷することになる。スーパーボランチの穴を埋められる選手はおらず、「銀河系軍団」の凋落を早めたペレス会長の判断には内外から厳しい批判が寄せられた。
フランス代表には95年7月に22歳で初招集。22日のノルウェー戦で初キャップを刻んだ。翌96年にはレイモン・ドメニク監督率いるU-23代表の主力となり、アトランタ五輪に出場。ベスト8進出に貢献する。
しかし、デシャン、プティ、カランブー、ヴィエラとボランチの厚い選手層を誇るフル代表では定着を果たせず、フランスが優勝した98年W杯とユーロ2000では落選。02年Wカップ・日韓大会でようやくメンバーに選ばれるが、優勝候補のフランスは司令塔ジダンの故障が響いてG/L敗退。マケレレの出番は最終節デンマーク戦の1試合にとどまった。
そのあとレギュラーの座を獲得して、ポルトガルで開催されたユーロ04大会に出場。初戦はイングランドにリードを許し、敗色濃厚となった後半のロスタイム、マケレレがヘスキーに倒されFKのチャンスを獲得。これをジダンが鮮やかにゴールへ蹴り込み、土壇場で同点とする。
さらにその2分後、ジェラードの不用意なバックパスを奪ったアンリがGKバルテズに倒されPK。これまたジダンが落ち着いて沈め、フランスは劇的な逆転勝利を収めた。
マケレレが欠場となった第2戦はクロアチアと2-2の引き分け。復帰を果たした第3戦で難敵スイスを3-1と下し、グループ1位での勝ち上がりを決める。
しかし決勝トーナメントの1回戦では、守りを固める伏兵ギリシャの策にはまって0-1の敗戦。大会連覇を狙ったフランスだが、あっけなくユーロの舞台から去ることになった。
大会終了後、31歳のマケレレはフランスの黄金期を飾ったジダン、テュラム、デサイー、リザラスとともに代表からの引退を表明する。
レアルを退団したマケレレは、石油王アブラモヴィッチ新オーナーのもと、戦力強化を進めるチェルシーに移籍する。
移籍1年目の03-04シーズンはリーグ2位、CLベスト4とあと一歩でタイトルに手が届かなかったが、0翌シーズンにはFCポルトをCL優勝に導いたジョゼ・モウリーニョが監督に就任。するとチェルシーは29勝8分1敗の驚異的な成績でプレミアリーグを独走。50年ぶりとなるトップリーグ優勝とEFLカップ制覇の2冠を果たした。
モウリーニョ監督に重用されたマケレレは、中盤底に立ちはだかるアンカーとして公式戦50試合にフル稼働。相手の攻撃の芽を徹底的に潰し、そこからの展開でジョー・コール、アリエン・ロッベンの両ウィングによるサイドアタックを支援。堅守速攻戦術の要となった。
その功績を大としたモウリーニョ監督は、優勝が決まったあとのリーグ最終戦、PKのチャンスでマケレレをキッカーに指名。ランパードからボール託されたマケレレのキックは、一旦GKに弾かれたものの、すぐさまこぼれ球を押し込みプレミア初得点。チーム全員で喜びを分かち合った。
05-06シーズンもリーグ2連覇に貢献。マケレレはチェルシーの年間最優秀選手に選ばれ、年俸はレアル時代の4倍にまでなった。彼の活躍は守備的MFの役割に革命をもたらし、英国でそのポジションは「マケレレ・ロール」と呼ばれるようになる。
若返りを図ったフランス代表は、04年9月から始まったW杯予選で大苦戦。グループ6試合を終えた時点でスイス、アイルランドに続く3位に甘んじ、4位のイスラエルとは得失点差で僅かに上回るだけだった。
この緊急事態に、仏サッカー協会はジダン、マケレレ、テュラムの3人に代表復帰を要請。そのあとドメネク監督と代表キャプテン・ヴィエラの説得を受け、3人は再びレ・ブルーのユニフォームに袖を通すことになった。
大黒柱となるベテランたちが復帰したフランス代表は、最終戦でスイスを上回ってグループ予選を1位突破。06年6月に開催されたWカップ・ドイツ大会に臨む。
G/Lの初戦は、欧州予選でも戦ったスイスと0-0の引き分け。日韓大会からの4試合連続無得点で、先行きに不安を感じさせた。続く韓国戦は前半9分にアンリのゴールでリードするも、終盤の81分に朴智星の同点ゴールを許しまたも引き分け。精彩を欠いたジダンは累積警告で次戦出場停止となってしまった。
G/L突破を懸けた最終節は、ジダンの代わりにゲームメークを担うことになったヴィエラの負担を減らすべく、マケレレが守備で奔走。トーゴを2-0と打ち破り、スイスに続く2位でのベスト16進出を決める。
トーナメントの1回戦は、勢いに乗るスペインを相手に3-1の勝利。出足でもたついたフランスだが、頼みのジダンもようやく復調の気配を見せた。
準決勝ではジダンの全盛期を思わせる働きで、優勝候補ブラジルを1-0と撃破。マケレレを始めとするフランスの守備陣は、ロナウド、ロナウジーニョ、カカを擁するブラジルの攻撃を完璧に封じた。
準決勝のポルトガル戦では、マケレレとヴィエリのボランチコンビが強固な守備ブロックを築き、フィーゴとC・ロナウドのドリブル突破を阻止。ジダンのPKによる1点を守り抜いて、とうとう決勝へ勝ち上がる。
決勝はイタリアとの戦い。前半7分にジダンのPKで先制するも、19分にCKからマテラッツィのヘディングゴールを許し同点。このあと均衡状態が続いたが、後半の56分にヴィエラが負傷交代。延長に入った110分には、ジダンがマテラッツィへの頭突きで一発退場となってしまう。
チームが危機的状況に陥る中で、中盤底で奮闘するマケレレがイタリアの攻撃を阻止。勝負をPK戦に持ち込んだ。結局PK戦で敗れて優勝を逃してしまうが、マケレレは7試合すべてにフル出場。決勝へ進んだフランスの堅守を支えた。
大会後に代表を退く意思を表明するも、ドメネク監督に請われてテュラムとともにユーロ予選で復帰。しかしユーロ08本大会(オーストリア / スイス共催)で、フランスはグループ最下位に沈み敗退。マケレレは35歳で代表のキャリアに幕を降ろした。12年間の代表歴で71試合に出場、得点はなかった。
06-07シーズンはリーグ3連覇を逃したものの、FAカップで優勝。マケレレはジョン・テリー、ランパードとともに、チームリーダーとしてチェルシーを牽引した。
07-08シーズン、アブラモヴィッチとの関係が悪化したモウリーニョ監督が、開幕間もない9月半ばに退任。マケレレも耳の感染症を患い、序盤戦で戦線離脱を余儀なくされた。それでもチェルシーはチャンピオンズリーグの決勝へ進出、チームに復帰したマケレレは大舞台のピッチに立った。
マンチェスター・ユナイテッドとの決勝は、延長120分を戦い1-1の同点。しかしPK戦で5-6と敗れ、チェルシー悲願の初優勝は果たせなかった。
このあとマケレレはチェルシー退団を希望し、フリー移籍で母国のパリ・サンジェルマンへ入団。ここで3シーズンを過ごし、09-10シーズンのクープ・ドゥ・フランス(フランス杯)優勝を置き土産に、38歳で現役を引退する。
引退後はパリSGでアシスタントコーチを務め、そのあと欧州各クラブで監督、コーチ、スタッフを経験。19年からはチェルシーのコーチングスタッフとして活動している。
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