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《 サッカー人物伝 》 サンドロ・マッツォーラ

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「グランデ・インテルの髭男爵」 サンドロ・マッツォーラ ( イタリア )

スピードと巧みさを兼ね備え、2列目からの突破で得点を決めた攻撃的MF。プレーメーカーとしても優れた資質を有し、高い守備能力でも知られたイタリアの名選手が、サンドロ・マッツォーラ( Alessandro Mazzola )だ。

男爵のような口髭と、後退した生え際が特徴。40年代「グランデ・トリノ」の伝説的選手、ヴァレンティノ・マッツォーラを父に持ち、60年代「グランデ・インテル」の主力として活躍。セリエA優勝4回、チャンピオンズカップ優勝2回、インターコンチネンタル・カップ連覇など多くのタイトルを手にした。

アズーリではライバルのジャンニ・リベラと激しいポジション争いを繰り広げながら、68年欧州選手権でゲームメーカーとして優勝に貢献。70年W杯でもイタリア32年ぶりの決勝進出に大きな役割を果たしている。

名選手、ヴァレンティノ・マッツォーラ

サンドロが生まれたのは1942年11月8日、両親がヴェネツィアからトリノへ引っ越して数週間後のことだった。

父ヴァレンティノは1919年生まれのミラノ出身。トリノにあったアルファロメオ工場のサッカーチームで頭角を現し、39年に海軍へ徴兵されてからは軍港地のチーム、ヴェネツィアでプレーした。

ヴェネツィア在籍中の42年にはコッパ・イタリア優勝を果たし、イタリア代表にも初選出。デビューとなったスペイン戦を代表初ゴールで飾っている。

一躍注目株となったヴァレンティノを巡って、トリノとユベントスが激しい争奪戦。その結果、移籍金20万リラに加えて2選手の譲渡という破格の条件により、トリノが獲得競争を制した。

その移籍の年に生まれたのがサンドロで、2年後には弟のフェルッチョも誕生。ちなみに弟の名前は、トリノ会長フェルッチョ・ノボにあやかって付けられたものである。

4歳のとき両親は離婚。親権は再婚したヴァレンティノが持ち、サンドロは父親からサッカーの手ほどきを受けて幼少期を過ごした。

グランデ・トリノの悲劇

ヴァレンティノが加わった42-43シーズン、優秀な選手を集めたトリノはセリエAを13年ぶりに制覇。続く2年間は戦争のためリーグ戦が中断するも、45年に再開してからの47-48シーズンまでリーグ4連覇を達成する。

ヴァレンティノは「グランデ・トリノ」と呼ばれた最強軍団で、FW、セントラルMF、右ウィング、フルバックと、各ポジションで高い能力を見せてチームを牽引。偉大な主将としてその名を欧州に轟かせた。

47年5月にトリノで行なわれたイタリア代表戦では、フェレンツ・プスカシュ擁する強豪ハンガリーを3-2と撃破。このイタリアチーム11人のうち、ヴァレンティノを始め地元トリノの選手が10人を占めていたという。

48-49シーズンも5試合を残した時点で、2位に15ポイント差をつけての首位独走。リーグ5連覇は確実となっていた。だが優勝を目前とした49年5月4日、リスボンでの親善試合を終えトリノの選手を乗せて帰路につくチャーター機が、トリノ郊外の丘にそびえ建つ “スペルガ大聖堂” の外壁へ衝突する。

この航空機事故で、ヴァレンティノを含む選手18名とコーチングスタッフ5名ら、搭乗員31名が全員死亡。「グランデ・トリノ」は一瞬で壊滅した。トリノは残り試合をユース選手中心で戦い、なんとかリーグ5連覇を達成するも、以降クラブは凋落の一途をたどっていく。

そして主力をごっそり失ったイタリア代表は、翌50年のW杯ブラジル大会で1次リーグ敗退。イタリアサッカー界に大きな打撃を与えたこの事故は、「スペルガの悲劇」と呼ばれている。

マッツォーラという名の重み

事故当時、ヴァレンティノの息子たちはまだ6歳と4歳。幼い兄弟は実母に引き取られ、トリノでサッカーを続けた。そしてサンドロが17歳となった60年、父の友人だったインテルFWベニート・ロレンツィの勧誘により、インテル・ミラノと契約を交わす。

サンドロがトリノではなくインテルを選んだのは、偉大な父親と比べられる境遇に身を置きたくないという理由だった。このあと弟フェルッチョも、彼の後を追うようにインテルへ入団する。

当時インテルユースの責任者を務めていたクラブレジェンド、ジュゼッペ・メアッツァの指導を受け、61年にはトップチーム昇格。61年6月のユベントス戦でセリエAデビューを果たす。デビュー戦は1-9と大敗してしまったが、インテル唯一の得点をPKで決めたのは新人のサンドロだった。

しかしクラブやファンの大きな期待を受けながら、サンドロの成長は停滞。2シーズンをほとんどベンチウォーマとして過ごした。マッツォーラという重い名前がプレッシャーとなり、自分の殻を破れずにいたのだ。

「グランデ・インテル」のエース

プロ3年目の62-63シーズン、エレニオ・エレラ監督により明確な役割を与えられたサンドロは、ついにストライカーとして覚醒。23試合10ゴールの成績を残し、インテル9季ぶりのスクデット獲得に貢献する。

「イル・マゴ(魔術師)」の異名を持つアルゼンチン出身のエレラ監督は、スイス発祥の守備的戦術をイタリア流にアレンジ。4バックにスイーパーを置く分厚い守備を敷き、カウンター・アタックで相手を粉砕する「カテナチオ(かんぬき)戦術」で、セリエAの覇権を築いた。

エレラのインテルには、見事な組み立てで「建築家」と呼ばれた司令塔ルイス・スアレス、攻撃的SBの先駆者ジャチント・ファケッティ、危機察知能力に長けたリベロのアルマンド・ピッキオ、“神の左足” を持つウィンガーのマリオ・コルソなど、多彩な才能が集まりセリエAを席巻。

サンドロも高い突破力を誇るストライカーとして攻撃の中心となり、前線からの守備でも貢献。翌63-64シーズンのチャンピオンズカップでは、大会得点王の活躍で初の決勝進出に大きな役割を果たす。

決勝では「白い巨人」レアル・マドリードと対戦。試合はサンドロの2得点などで3-1と勝利、インテル初優勝の立役者となった。

ピッチで優勝を喜ぶサンドロに、かつてヴァレンティノと対戦したことのあるレアルのプスカシュが歩み寄り、「おめでとう、きみの活躍はお父さんの記憶を思い起こさせるものだった」と祝辞を贈る。そして自分のユニフォームを差し出し、サンドロのプレーを讃えた。

64-65シーズンは、17ゴールを挙げてリーグ得点王を獲得。チャンピオンズカップでは決勝でエウゼビオ擁するベンフィカを1-0と破り、大会2連覇を果たした。さらにセリエAとインターコンチネンタル・カップも制覇し、イタリアチーム初のビッグタイトル3冠を達成する。

65-66シーズンもセリエA優勝とインターコンチネンタル・カップ連覇の2冠。この年は得点王を逃しながらもキャリア最高の19ゴールを記録。サンドロ・マッツォーラは、偉大な父親と肩を並べる存在になった。

そして60年代に黄金期を築いたミラノの名門クラブは「グランデ・インテル」と呼ばれ、カテナチオはイタリア戦術の主流となる。

欧州選手権優勝

イタリア代表には63年5月に20歳で初招集。ブラジルとの親善試合でPKによる初得点を決め、3-0の勝利でデビュー戦を飾った。

23歳となった66年には、初の大舞台となるWカップ・イングランド大会に出場。初戦のチリ戦では同世代のライバル、ACミランのジャンニ・リベラとともにピッチに立ち、先制点を挙げて2-0の勝利に貢献する。

しかし続く第2戦は、名手レフ・ヤシンを擁するソ連に0-1の敗北。さらに第3戦は「神秘の国」北朝鮮のスピードと運動量に圧倒され42分に失点、0-1と思わぬ黒星を喫してしまう。当たりの弱いリベラがボールを奪われての失点だった。

これでイタリアは屈辱の1次リーグ敗退。チームは全体的に動きが重く、好調マッツォーラの突破力を活かすことが出来なかった。

68年には自国開催の欧州選手権に出場。準決勝ではソ連と延長を戦って0-0の引き分け。当時はPK戦が無かったので、コイントスを当てたイタリアが決勝に進出する。

決勝はマッツォーラとリベラの二人が負傷欠場となり、ドラガン・ジャイッチ擁するユーゴスラビアと1-1の引き分け。優勝を決める再試合は2日後に行なわれた。

この決勝に際し、バルカゲリ監督は守備に不安のあるリベラを使わず、マッツォーラだけを再試合に復帰させる。トップ下を担ったマッツォーラは見事なゲームメーク。ルイジ・リーバの先制点を演出し、2-0の勝利に貢献。イタリアを大会初優勝に導いた。これ以降、マッツォーラが代表のポジション争いでリベラをリードすることになった。

一時代の終焉

66-67シーズン、インテルは3たびチャンピオンズカップの決勝に進むも、セルティックに敗れて準優勝。リーグ戦も2位に留まってしまった。

翌67-68シーズンはリーグ5位に沈みタイトル無冠。クラブオーナーの交代に伴いエレラ監督もチームを去ることになり、「グランデ・インテル」の時代は終わりを告げた。

インテルでのキャリアを貫くマッツォーラは、ポジションを中盤底に移してゲームメークを担当。同い年のファケッティとともにチームを支えていく。

ライバル、ジャンニ・リベラ

70年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。G/Lの3戦はいずれもマッツォーラが先発出場、控えに回ったリベラの出番はなかった。

だがイタリアは前線のタレントを揃えながら攻撃陣は低調。1-0と勝利したスウェーデン戦の開始10分に得点を奪ったきりゴール欠乏症に陥り、第2戦のウルグアイ戦、第3戦のイスラエル戦は続けてスコアレスの引き分け。

「リベラを使え」という外野のプレッシャーにさらされたバルカゲリ監督は、たまらずイスラエル戦の後半にミランのファンタジスタを投入するが、やはりマッツォーラとの併用は機能しなかった。それでもイタリアは混戦となったグループで1位勝ち抜けを決める。

準々決勝では地元メキシコと対戦、この試合でバルカゲリ監督が採用したのは二人のリレー作戦だった。前半で守備に定評のあるマッツォーラを使い、後半は切り札となるリベラと交代させるという、「スタフェッタ」と呼ばれる用兵である。

するとこの作戦は功を奏し、前半を1-1と折り返して後半にリベラが登場すると、たちまち攻撃が活性化。これまで沈黙していたルイジ・リーバの2得点を導き出すだけでなく、自身もゴールを決めて4-1の快勝を収めた。

アステカスタジアムで行なわれた準決勝の西ドイツ戦も、1-0とリードした後半開始に予定通りの交代策。しかし守備力のあるマッツォーラを下げたことが裏目に出て、勝利を目前としたロスタイムの92分に失点。試合は延長戦にもつれ込んだ。

延長に入ってからとたんに点の奪い合いとなり、試合終了まで10分を残して3-3の同点。それでも最後はリベラがゴールを決めてイタリアが勝利。両者死力を尽くしたこの勝負は「アステカの死闘」と呼ばれることになった。

32年ぶりに決勝へ進んだイタリアだが、ペレら強力な攻撃陣を擁するブラジルに1-4の完敗を喫して準優勝に終わった。決勝では「スタフェッタ」を見ることなく、先発マッツォーラが試合終了までプレー。リベラの出番はボニンセーニャと交代した最後の6分間だけだった。

ネラッズーロのバンディエラ

70-71シーズン、インテルは5季ぶりにセリエAを制覇。マッツォーラは中盤でゲームを操り、FWのボニンセーニャにボールを供給。得点王を獲得したボニンセーニャ24ゴールの多くは、このホットラインから生まれたものだった。

翌71-72シーズンのチャンピオンズカップでは4度目の決勝進出。決勝ではヨハン・クライフ擁するアヤックスに0-2と敗れて8年ぶりの優勝とはならず、バロンドールでもクライフに及ばずの2位となった。

イタリアがディフェンディング・チャンピオンとして臨んだ72年の欧州選手権は、開催国ベルギーに1-2と敗れて準々決勝敗退。74年のWカップ・西ドイツ大会では、マッツォーラとリベラが先発共演を果たすも、高齢化したアズーリは精彩を欠いて1次リーグ敗退となってしまう。

この大会を最後にマッツォーラは代表でのキャリアを終了。12年間の代表歴で70試合に出場、22得点を挙げた。

インテルでは70年からキャプテンを務め、76-77シーズンは12年ぶりとなるコッパ・イタリア決勝に進出。決勝ではジャンニ・リベラ擁するACミランに0-2と敗れ、7季ぶりのタイトル獲得はならなかった。

この決勝のあとの77年7月、マッツォーラは34歳で現役を引退。ネラッズーロのバンディエラを貫いた17年間で公式戦568試合に出場、161ゴールの記録を残した。

引退後はインテルのエグゼクティブ・マネージャー、ジェノヴァの執行役員、トリノのスポーツディレクターなどを歴任。そのかたわらでテレビコメンテーターの活動を行ない、イタリアが優勝した82年W杯と06年W杯でもゲスト解説者を務めている。

弟フェルッチョは父や兄ほどの名を残せず、いくつものチームを転々として77年に32歳で現役を引退。その後は指導者の道へ進むが、晩年に長い闘病生活を送ったのち、13年5月に死去。享年68歳だった。

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