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《 サッカー人物伝 》 ジョゼ・アルタフィーニ

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「 南米から来た点取り屋 」 ジョゼ・アルタフィーニ ( ブラジル / イタリア )

スピードと高いスキルを持ち、強力なシュートでゴールを量産。身長176㎝とそう大柄ではないが、素晴らしいジャンプ力を備えてヘディングも得意としたブラジル出身のアタッカーが、ジョゼ・アルタフィーニ( José João Altafini )だ。

19歳の若さでセレソンの一員として58年W杯に出場。ペレやババの活躍の陰に隠れてしまったが、3試合で2得点を挙げブラジルの初優勝に貢献した。そのあとイタリアに渡り帰化、62年にはアズーリのメンバーとして2度目のW杯に出場している。

ACミランでは移籍1年目からエースとして活躍し、2度のリーグ優勝とイタリア初のチャンピオンズカップ制覇に貢献。61-62シーズンは自身もリーグ得点王を獲得した。そのあとナポリ、ユベントスと渡り歩き、イタリアで18シーズンをプレー。セリエA歴代屈指の点取り屋として名を残した。

ブラジルのマゾーラ

ジョゼ・アルタフィーニは1938年7月24日、サンパウロ州の都市ピラシカーバで5人兄弟の末っ子として生まれた。父親は工場労働者として、母親は家政婦として働くも家計は苦しく、ひとつの卵を兄弟で分け合うなど貧しい少年期を過ごした。

アルタフィーニはそんな一家を助けるべく、9歳の頃から工員見習いをする一方、プロサッカー選手を目指して練習に励む毎日を送る。

その努力が認められ、16歳のときに地元クラブのキンゼ・デ・ピラシカーバへ入団。クラブの本部には欧州の伝説的チーム「グランデ・トリノ」の写真が飾られており、アルタフィーニはその中心選手ヴァレンチノ・マッツォーラと風貌が似ていたことから、「マゾーラ( Mazzola )」のあだ名で呼ばれるようになった。

2年後にはサンパウロの名門パルメイラスに誘われ、同クラブのユースチームに加入。パルメイラスはサンパウロで最も人気のあるチームのひとつで、多くのイタリア系市民に支えられていたクラブである。

パルメイラスユースではFWとして頭角を現し、56年1月にトップチーム昇格。パレストラとのデビュー戦でプロ初ゴールを挙げる。これは17歳6ヶ月というクラブ史上最年少の得点記録だった。

その勢いのままに、ルーキーの年から点取り屋として活躍。57年と58年のサンパウロ州選手権では、計63試合に出場して32得点を挙げる決定力の高さを見せつけている。

そして57年6月のノロステ戦では、一人で5得点を叩き出す快挙を達成。こうしてアルタフィーニは若き天才ストライカーとして全国にその名を轟かせた。

58年3月には、リオ = サンパウロ大会(2大都市の代表チームによる対抗戦)で強豪サントスFCと対戦。アルタフィーニは2得点を挙げて7-6の勝利に貢献する。このときサントスFCでプレーしていたのが、当時17歳の神童ペレである。

明暗を分けた二人の天才プレーヤー

ブラジル代表には、19歳の誕生日を目前にした57年6月に初招集。デビューとなった親善試合のポルトガル戦でさっそく初ゴールを決めた。

翌7月にはコパ・ロカ(ブラジル代表とアルゼンチン代表の対抗戦)に出場。その第1戦では代表デビューを果たしたペレが初ゴール、第2戦ではアルタフィーニがゴールを決めた。若き天才プレーヤー二人の活躍により。ライバルのアルゼンチンを打ち破った。

58年6月、Wカップ・スウェーデン大会が開幕。初戦のオーストリア戦では、ヴァスコ・ダ・ガマのエースFWババを押しのけ、まだ20歳になっていない若手のアルタフィーニが大舞台のピッチに立った。

前半の38分、アルタフィーニのゴールでブラジルが先制。後半にも追加点が生まれ、勝利を確実にした終盤の89分、またもアルタフィーニがダメ押し点を決めて3-0。ビセンテ・フィオラ監督の期待に応えた。

次のイングランド戦はババとのコンビで引き続き起用されるが、相手の強固な守備に阻まれ無得点。アルタフィーニはフィオラ監督から「チームプレーが出来ていない」と批判され、第3戦を外されることになった。

そして最終節のソ連戦ではアルタフィーニに代わり、今大会初出場となったペレとガリンシャが起用される。そして試合が始まると、デビューしたばかりの二人が躍動してソ連の守備陣を翻弄。ババの2ゴールを呼び込み2-0の勝利を収める。

グループを1位突破したブラジルは、準々決勝でウェールズと対戦。アルタフィーニはババに代わり2試合ぶりの出場を果たす。試合は接戦となるもペレの大会初ゴールで1-0の辛勝。見せ場をつくれなかったアルタフィーニの仕事ぶりは、またも監督を失望させた。

準決勝の相手は、R・コパ、J・フォンティーヌの強力ホットラインを擁するフランス。アルタフィーニの抜けた攻撃陣だが、ババの先制点とペレのハットトリックで5-2の快勝を収める。

決勝は開催国のスウェーデンと対戦。この試合にもアルタフィーニの姿はなく、ババとペレがそれぞれ2得点を挙げて5-2と勝利。ブラジルが悲願のW杯初優勝を果たした。初戦で華々しいスタートを切ったアルタフィーニだが、2歳年下のペレに主役の座を奪われることになった。

ACミランでの活躍

Wカップ終了後、イタリアの名門ACミランに移籍。ブラジル代表はWカップの本番直前にイタリアで親善試合を行なっており、その時ゴールを決めたアルタフィーニのプレーを見ていたミラン関係者が彼をスカウト。当時まだ欧州でプレーするブラジル人選手はほとんどおらず、大きな金額が動いたこの移籍は大きな話題を振りまいた。

そして移籍1年目の58-59シーズン、アルタフィーニはW杯の鬱憤を晴らすようにリーグ戦32試合で28ゴールの大活躍。ストライカーとしての実力を証明し、ミラン2季ぶりの優勝に貢献した。

この時のミランは、イタリアの名DFチューザレ・マルディーニ、W杯でスウェーデンを準優勝に導いた主将ニルス・リードホルム、ウルグアイ出身のファン・スキアフィーノ、アルゼンチンの伝説的MFエネルスト・グリロなど、世界中の名選手を集めたセリエAの強豪チームだった。

その後も安定した成績を残し続け、61-62シーズンは若き司令塔ジャンニ・リベラとのホットラインで22ゴールを記録。初の得点王を獲得し、3季ぶりとなるリーグ優勝に大きく貢献する。

翌62-63シーズンはリーグ戦11ゴールと調子を落とすも、チャンピオンズカップでは獅子奮迅の大活躍を見せた。2試合で計14-0と大勝したユニオン・ルクセンブルクは、アルタフィーニひとりで8ゴールを記録。その後も快調に得点を重ね、ミラン5年ぶりとなる決勝進出の原動力となった。

ウェンブリースタジアムで行なわれた決勝は、大会2連覇中の強豪ベンフィカとの戦い。試合は開始18分にエウゼビオのゴールを許して、前半を0-1のビハインドで折り返す。

しかし後半に入るとミランが押し返し、58分にリベラのパスが相手DFに当たったところをアルタフィーニが素早く拾い同点弾。さらに66分、リベラのスルーパスを受けたアルタフィーニが再びシュート。一旦GKに弾かれボールを、アルタフィーニが確実に押し込みゴールを決める。

こうしてミランが2-1と逆転勝利。5年前の決勝でレアル・マドリードに延長で敗れた雪辱を果たし、イタリア勢として初となるビッグイアーを掲げた。優勝の立役者となったアルタフィーニは、大会新記録の14ゴール(現在は2位)で得点王に輝いている。

イタリア代表のアルタフィーニ

イタリア国籍を取得したアルタフィーニは、61年10月にイタリア代表へ初招集。当時は代表選手の所属に関する規定が曖昧で、ナショナルチーム転籍が許されていた時代だった。

W杯予選イスラエルとのプレーオフでアズーリデビュー。さっそく代表初ゴールを挙げ、本大会出場決定に寄与している。そのあとW杯本番を控えた親善試合のフランス戦とベルギー戦では、それぞれ2ゴールずつを記録した。

62年5月30日、Wカップ・チリ大会が開幕。アルタフィーニは元アルゼンチン代表のオマール・シボリ、フンベルト・マスキオとともにメンバーに選ばれ、2度目の大舞台に臨んだ。

初戦は好敵手の西ドイツと0-0で引き分け、第2戦で開催国のチリと対戦する。首都サンティアゴで行なわれた試合は、会場全体が反イタリア感情に包まれた異様な雰囲気。南米選手の引き抜きやイタリア人記者による蔑視的記事が、チリ国民を怒らせてしまったのだ。

ゲームは怪我人続出の大乱闘戦となり、イタリアは骨折者1名、退場者2名を出したうえに0-2の完敗。W杯に汚名を残したこの試合は「サンティアゴの死闘」と呼ばれるようになった。

続く第3戦はアルタフィーニら多くの主力が欠場を余儀なくされたが、実力差のあるスイスに3-0の勝利。しかし1勝1敗1分けの成績でグループ3位に沈み、あっけなく大会を去ることになった。

一方で祖国のブラジルは、エースのペレを負傷で欠きながら、ガリンシャの活躍などで2大会連続優勝を達成。このあと代表選手のナショナルチーム転籍が禁じられることになり、アルタフィーニの代表活動も終わりを告げる。

24歳にして大舞台で活躍する夢を絶たれたアルタフィーニは、「僕がブラジル代表を去ったのではない。ブラジル代表が僕を捨てたのだ」と嘆くしかなかった。ブラジル代表で8試合4ゴール、イタリア代表では6試合5ゴールの記録を残している。

長きにわたった選手キャリア

ミランでは7シーズンを過ごしたが、フェラーリオ監督との対立により出場機会を失い、65-66シーズンはセリエAに昇格したばかりのナポリへ移籍。ナポリでは同期加入のオマール・シボリと強力な攻撃コンビを組み、14ゴールを挙げる活躍をみせた。

66年にはクラブの初タイトルとなるアルプスカップ(西ヨーロッパクラブの親善大会)優勝に貢献。67-68シーズンは29試合13ゴールの成績で、ACミランと優勝争いを演じた(最終的に2位)チームを支えた。

ナポリでも7シーズンを過ごし、72年の夏にチームメイトのディノ・ゾフとともにユベントスへ移籍する。すでに34歳の大ベテランとなっていたアルタフィーニだが、ユベントスではスーパーサブとして活躍。重要な場面で登場して得点を決め、2度のスクデット獲得に貢献している。

特に74-75シーズンは古巣のナポリとデッドヒート。シーズンも大詰めを迎え、天王山となる直接対決が行なわれた。1-1で進んだ試合終盤の88分、投入されたばかりのアルタフィーニが劇的な勝ち越しゴール。これによりナポリを突き放したユベントスが、スクデットを獲得することになった。

ユベントスでは4シーズンを過ごし、76年にスイス2部リーグのFCキアッソへ移籍。26試合で14ゴールと往年の得点力を見せつけ、チームを1部リーグ昇格に導いた。

そのあと同じスイス1部のメンジョリオ・スターで1シーズンプレーし、80年に42歳で現役引退。セリエAの18年で挙げたリーグ戦通算216ゴールは、現在ジュゼッペ・メアッツァと並ぶ歴代4位の記録である。

引退後はテレビ局のサッカーコメンテーターを務め、「なんてゴラッツォなんだ!」(ポルトガル語の“ ゴラッソ” をイタリア風に発音したもの)のフレーズを多用した、名調子の解説で人気を博している

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