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《 サッカー人物伝 》 ホセ・マヌエル・モレノ

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「ラ・マキナの伝説」ホセ・マヌエル・モレノ(アルゼンチン)

ドリブル、パス、シュート、ヘディングとすべてのプレーを高いレベルでこなし、その多彩な技とトリッキーなスタイルで観客を沸かせたインナーFW。アルゼンチンではディ・ステファノ、オマール・シボリ、マラドーナ、メッシと並び称される天才プレーヤーが、ホセ・マヌエル・モレノ( José Manuel Moreno Fernández )だ。

1940年代アルゼンチンの伝説的チーム、「ラ・マキナ(ザ・マシーン)」と呼ばれて恐れられたCAリーベル・プレートで、攻撃の一翼を担って活躍。ラブラナ、ペデルネラ、ムニョス、ロウストウとの5人で最強FWラインを構成し、多くのタイトル獲得に貢献した。

タイミングに恵まれずワールドカップ出場は果たせなかったが、アルゼンチン代表で3度の南米選手権優勝を経験。42年の大会では得点王に輝き、47年の大会では若きディ・ステファノの活躍を助けて最優秀選手に選ばれている。

リーベル・プレートの若き主力

モレノは1916年8月3日、首都ブエノスアイレスのラ・ボカ地区で生まれた。警察官の家庭で4人姉弟の一人息子として育ち、居住地がボカ・ジュニアーズのホームスタジアム、ラ・ボンボネーラの近くにあったため、自然とサッカーに親しむようになる。

15歳のときに、憧れだったボカ・ジュニアーズ下部組織の入団テストを受けるも不合格。モレノは悔しさのあまりボカのコーチへ、「いつかあなたは(自分を選ばなかったことを)後悔するだろう」と言い放ったという。

そこから練習に打ち込んで技を磨くと、アルゼンチンのトッププレーヤーだったベルナベ・フェレイラに見いだされ、ボカのライバルチームであるCAリーベル・プレートへの入団を果たす。

18歳となった35年、若手主体で構成されたブラジル遠征のメンバーに選ばれてトップチーム昇格。リオ・デ・ジャネイロの強豪、ボタフォゴとの試合でプロ選手としての第一歩を刻む。

同年3月にはCAプラテンス戦でプリメーラ・ディビシオン(アルゼンチン1部リーグ)デビュー、初ゴールを決めて2-1の勝利に貢献している。

36年は早くもチームの主力となり、B・フェレイラ、カルロス・ペウチェレ、レナート・セザリーニらのスター選手とともに強力な攻撃陣を形成。33試合24ゴールの活躍でリーグ優勝に貢献すると、さらに翌37年には31試合32ゴールと驚異的な成績を残し、リーグ連覇に大きな役割を果たす。

38年~40年の3年間は優勝を逃してしまうが、高齢化したスター選手に代わりアルヘン・ラブラナ、アドルフォ・ペデルネラ、ファン・カルロス・ムニョスらの若手選手たちが台頭。R・セザリーニ新監督のもとで、モレノを始めとした次世代最強チームの礎が築かれていく。

リーベル新世代の精鋭たち

41年には現役を引退したばかりのC・ペウチェレがチームアドバイザーとなり、2-3-5のWM型布陣が主流だった時代に、新しいスタイルの戦術プランを提言する。

各ポジションの役割がはっきり分けられていた当時、ペウチェレはチームが渾然一体と動く戦術を発案。能力の高い選手たちに頻繁なポジションチェンジをさせ、攻撃のダイナミズムを生み出そうとしたのだ。70年代オランダ「トータルフットボール」の原型となる戦術である。

その戦術がハマるようになったのは、左ウィングだったペデルネラをセンターフォワードにコンバートしてからだった。41年9月、ペデルネラをCFに据えたリーベルは、38~39年リーグ2連覇の強豪インデペンディエンテを4-0と撃破。ペデルネラの神出鬼没な動きと確かな戦術眼が、攻撃陣を活性化させた。

ペデルネラはCFでありながら、深い位置に下がってゲームを組み立て。変幻自在な働きで相手を撹乱し、瞬時にDFの穴を見つけると、味方を走らせてチャンスを創出した。また正確無比なシュートで多くの得点を生んでいる。

そのペデルネラとともに攻撃の中核を担ったのが、インサイドライトのモレノだった。モレノは多彩なパスワークでチャンスメーク。また卓越した足技で相手を翻弄すると、得意のヘディングでゴールも決めてみせた。

チーム随一の点取り屋として活躍したのが、ドリブルの名手として知られたインサイドレフトのラブラナ。ペデルネラのつくったスペースを上手く使い、巧みなボールコントロールと決定的なシュートでゴールを量産した。

そしてWM型布陣の右ウィングを努めたのがムニョス。持ち味のスピードとクロスの精度で、多くのチャンスをつくりだしている。

自由自在に動き、破壊的な攻撃力を備えたリーベルのFWラインは、41年のプリメーラ・ディビシオンを席巻。リーグを4年ぶりに制覇するとともに、国内のタイトルを独占した。

(写真は左からムニョス、モレノ、ペデルネラ、ラブラナ、ロウストウ)

「ラ・マキナ」の人気選手

翌42年には、「史上最高の左ウィング」と呼ばれるようになるフェリックス・ロウストウがトップチームデビュー。ロウストウは小柄ながら速さと豊富な運動量を備え、その鋭い突破力から「ピストル」の異名をとった。

このシーズンも圧倒的な強さを見せたリーベルが、リーグを2連覇を達成。最強FW5人が揃い、“ラ・マキナ” と呼ばれるようになったのもこの年からだった。

その名付け親となったのは、“ボロトコ” のペンネームを持つウルグアイ出身のスポーツジャーナリスト。スポーツ雑誌『エル・グラフィコ』の記事の中で、めまぐるしく動きながら正確にタスクをこなすその機能美を「まるで機械(マキナ)のようだ」と紹介したことから、“ラ・マキナ” の呼び名が定着する。

“ラ・マキナ” はその凄まじい攻撃力だけではなく、美しさとファンタジーに溢れたサッカーで観客を魅了。その中でも一番の人気選手となったのはモレノである。

オールバックにキザな口髭をたくわえ、ボールを操りながらピッチを華麗に舞い踊る姿は、まさに「伊達男」。練習嫌いを公言しながらトリッキーなプレーで観客を沸かせ、酒と女性と踊りを愛して、夜な夜なダンスホールでタンゴに興じる遊び人。

のちに有名映画女優ポーラ・アロンソを妻とするなど、ゴシップ紙を賑わす振る舞いで「エル・ファンファ(高慢ちき)」のあだ名を頂きながら、それでも憎めない個性でファンの支持を集めていた。

「悩める騎士たち」

しかし翌43年は、ライバルのボカ・ジュニアーズが必死の巻き返し。リーベルとの大接戦を制して3年ぶりのリーグ優勝を果たす。さらに続く44年には、ボカが26試合無敗記録の強さを発揮して2連覇を達成。リーベルは後半戦の追撃も及ばず、2年連続の2位に甘んじることになった。

実は「悩める騎士たち」の別名でも呼ばれていた “ラ・マキナ” 。個々の能力に長けたFW陣が派手な曲芸技に走り、ときに勝負そっちのけでプレーしたことに由来するあだ名だった。

ウィングのムニョスは「我々はいつでもゴールを決められた。ただゲームを楽しくするため、あえて試合終盤に得点をとっておいた」とインタビューで証言。その遊び心と余裕が “ラ・マキナ” の弱点でもあった。

44年のシーズン途中、クラブと契約の問題が生じ、モレノは10年を過ごしたリーベルを離れて前年プロ化したメキシコリーグのクラブ・エスパーニャへ移籍。“ラ・マキナ” の5人が揃って稼働したのは、わずか18試合にすぎなかったという。

エスパーニャではスペイン出身の大物ストライカー、イシドロ・ランガラとともに攻撃を牽引し、プロ化初となるリーグ優勝に大きく貢献。モレノはカウボーイを意味する「エル・チャロ」の愛称で呼ばれ、メキシコでも人気を博した。

「ラ・マキナ」とディ・ステファノ

46年のシーズン終盤にはリーベルへ復帰。復帰戦となったクラブ・フェロとの試合で3得点を決め、スタジアムに詰めかけた超満員の観客を喜ばせた。

だが47年にはモレノと入れ替わるように、“ラ・マキナ” の司令塔ペデルネラがCAアトランタへ移籍。後釜としてそのポジションを担ったのが、当時21歳のアルフレッド・ディ・ステファノである。

ディ・ステファノによる神出鬼没の動きは、まさにペデルネラの役割そのもの。さらに得点力においては彼以上の才能を発揮し、27ゴールを記録してリーグ得点王を獲得する。

復帰したモレノも10得点の活躍を見せ、マイナーチェンジした “ラ・マキナ” は、以前と変わらぬ破壊力でプリメーラ・ディビシオンを制した。

アルゼンチン代表のモレノ

アルゼンチン代表には、プロデビュー直後の36年に初招集。20歳となったばかりの8月9日、ウルグアイとの試合で代表初キャップを刻む。

41年には、ワールドカップ初代得点王のレジェンド、ギジェルモ・スタービレ監督に選ばれてチリ開催の南米選手権に初出場。3ゴールを挙げてアルゼンチン6度目の優勝に貢献する。

翌42年には、ウルグアイ開催の南米選手権に出場。大会2連覇は逃してしまったものの、7ゴールを記録したモレノは、チームメイトのE・マアントニオとともに得点王に輝く。

45年の大会(チリ開催)と46年の大会(アルゼンチン開催)は、メキシコでプレーしていたモレノが不参加。それでも40年代のアルゼンチン代表は南米最強を誇り、7度目と8度目の優勝を果たしている。

リーベルに復帰した47年には、3大会ぶりに南米選手権(エクアドル開催)へ参加。大会は、初登場のディ・ステファノが6ゴールを決めてアルゼンチンが3連覇。モレノも3ゴールを挙げるとともに若きディ・スファノの活躍を助け、大会MVPに選ばれている。

こうした南米での華々しい活躍の一方、タイミングに恵まれずワールドカップへの出場は果たせずに終わっている。

38年のW杯(フランス開催)では、アルゼンチンが開催国に立候補するも落選。南米と欧州の交互開催という主張が認められなかったことに抗議し、南米予選をボイコットしてしまう。

そのあと第2次世界大戦が勃発し、モレノ全盛の時期にW杯は中断となった。終戦後の50年に大会が再開されるも、開催国ブラジルとの関係悪化、国内経済の混乱、選手の他国への引き抜きなどの理由により、アルゼンチンはまたも予選を棄権する。

54年のスイス大会も、国内の政情不安により3大会連続不参加。この時38歳のモレノはすでに代表を退いており、ついにワールドカップの大舞台に立つことはなかった。

モレノは50年までの14年間で代表34試合に出場。19ゴールの記録を残しているが、そのうちの13は南米選手権で挙げた(大会歴代3位)ものである。

50年代の 「ラ・マキニータ」

48年にモレノが、49年にはディ・ステファノが他国クラブに引き抜かれてリーベルを退団。51年にはムニョスも11年を過ごしたクラブを離れ、“ラ・マキナ” の時代は終わりを告げた。ベロン大統領の失政による国内経済の大混乱がクラブ経営にも影響し、スター選手の国外流出が頻発するようになったのだ。

しばらく低迷の時期が続いたが、それでもラブラナとロウストウはクラブに残り、新加入の選手とともにチームを再建。52年に4シーズンぶりの優勝を果たすと、翌53年もリーグを連覇。リーベル復活の狼煙を上げた。

54年は3位に終わるも、下部組織から有望選手のエンリケ・オマール・シボリがトップチーム昇格。若き天才レフティーを擁して、55年からリーグ3連覇を達成する。

復活を遂げた50年代リーベルは、その秀でた成績で “ラ・マキニータ”(小さなマキナ)と呼ばれたが、「魅せるサッカー」と言う意味では40年代の元祖チームに及ばなかったという。

「ラ・マキナ」たちのその後

最初に“ラ・マキナ” を抜けたペデルネラは、49年にコロンビアリーグの金満クラブ 、ミジョリナスへ移籍。その時一緒に連れていったのが、ディ・ステファノである。ミジョリナスでは4度のリーグ優勝に貢献し「エル・マエストロ」と呼ばれた。

そのあと母国アルゼンチンに戻り、55年に36歳で現役を引退。引退後は指導者の道に進み、コロンビア代表やアルゼンチン代表の監督なども務めている。

51年にCAプラセンテへ移籍したムニョスは、そこで3シーズンを過ごし53年に34歳で現役を引退。引退後はプラセンテのコーチに就任した。

ロウストウは57年までリーベルに在籍。その独特な動きから「チャップリン」の愛称で呼ばれ、ファンに親しまれた。1年間ラ・プラタでプレーしたあと、58年に36歳で現役を引退。その後コーチとなり、アルゼンチンサッカー連盟のスクールで指導教官を務めた。

ラブラナは39年~59年までの20シーズンにわたり、リーベルでプレー。その間に挙げた公式戦通算317ゴールは、クラブ歴代1位の記録である。また58年には40歳を目前にWカップ・スウェーデン大会に出場し、“ラ・マキナ” のメンバーで唯一W杯の舞台に立っている。

そのあとウルグアイやチリでプレーしたあと、61年に43歳で現役を引退。その息の長さとドリブルの名手ということから「アルゼンチンのスタンリー・マシューズ」と呼ばれた。引退後はリーベルなどのクラブで監督を務める。

モレノはリーベルを退団したあと、国内、チリ、ウルグアイ、コロンビアなどの南米各クラブを転々。異なる4ヶ国(アルゼンチン、メキシコ、チリ、コロンビア)で優勝を経験した初めての選手となった。

キャリアの晩年にはコロンビアのインデペンディエンテ・メデジンで選手兼監督を務め、61年に44歳で現役を引退。引退後はボカ・ジュニアーズやウラカンなどでクラブマネージャーを務めていたが、78年8月26日に62歳の若さで死去。“ラ・マキナ” 最初の伝説となった。

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