「 オズの魔法使い 」 ハリー・キューウェル ( オーストラリア )
疾風のごとく左サイドを駆け抜け、矢のようなクロスやシュートを放った高速のアタッカー。アイデアとセンスに優れ、観る者を魅了するプレーから「オーストラリア最高の選手」と言われるのが、ハリー・キューウェル( Harold Kewell )だ。
若くしてイングランドに渡り、リーズ・ユナイテッドの左ウィングとして活躍。その後移籍したリバプールでは、豪州出身選手として初めてUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験した。トルコのガラタサライでは「オズの魔法使い」の愛称で呼ばれた。
オーストラリア史上最年少の17歳7ヶ月でA代表デビュー。97年のW杯予選大陸間プレーオフ・イラン戦で2ゴールを挙げるが、本大会出場は叶わなかった。そのあと06年W杯ドイツ大会に出場し、G/L最終節のクロアチア戦で貴重な同点ゴールを決めて、初のベスト16進出に貢献している。
キューウェルは1978年9月22日、ニューサウスウェールズ州のシドニー郊外で3人兄弟の末っ子として生まれた。父親はイングランド移民のトラック運転手、母親は英国にルーツを持つオーストラリア人である。
小さい頃からサッカーの素質を認められ、ユースリーグの強豪チーム・マルコーニ・フェアフィールドでプレー。また国立サッカーアカデミーの地域支部にも通い、名コーチと謳われたデヴィッド・リーの指導を受けて才能を伸ばしていった。
92年にはマルコーニ・U-14チームの一員として国外遠征に参加。イタリアではACミランのジュニアチームと対戦し、英国では交流戦を行なう傍らプレミアリーグを観戦。キューウェルは海外挑戦への思いを募らせていく。
すると95年には政府が推し進める「ビッグ・ブラザー計画」のメンバーに選ばれ、早くも夢を実現する機会が訪れた。「ビッグ・ブラザー計画」とは、スポーツ・芸術分野で才能を持つ若者を海外の本場へ派遣し、世界で通用する人材を育てようとする政策である。
そして「ビッグ・ブラザー計画」のスポーツ部門担当者が、海外の約60クラブに選手受け入れ要請を出し、それに応えてきたのがプレミアリーグのリーズ・ユナイテッドだった。
そこで16歳のキューウェルはイングランドに渡り、クラブの課した4週間のトライアルを受けることになった。彼の才能はリーズのコーチを驚かせ、出場予定のなかったサンダーランド・ユースとの試合に急遽参加。リーズ関係者を満足させたオーストラリアの若者は、同年の12月にクラブと契約を交わす。
翌96年3月にはさっそくミドルズブラ戦でプレミアデビューを果たしたが、しばらくリーズのユースチームでプレー。96-97シーズンのFAユースカップでは、主力として優勝に貢献している。
プレミアデビューを果たした直後の96年4月にオーストラリ代表へ招集され、24日に行なわれたチリ戦でデビュー。このとき17歳7ヶ月という、同国史上最年少でのフル代表デビューだった。翌97年には代表に定着し、11月に行なわれたフランスW杯予選・大陸間プレーオフの対イラン戦メンバーにも選ばれる。
ホーム&アウェーで行なわれたプレーオフの第1レグは、敵地テヘランでの戦い。会場となったアザディ・スタジアムには収容キャパを遙かに越える12万8千人の観客が集まり、コーランを唱える声が鳴り響くという異様な雰囲気の中、キューウェルは先発のピッチに立った。
開始19分、ボックス内でマーク・ヴィドゥカのパスを受けたキューウェルが、左足を振り抜き先制ゴール。これが国際Aマッチ初ゴールだった。
そのあとアジジの得点を許し試合は1-1と引き分けるが、キューウェルのアウェーゴールでオーストラリアは貴重なアドバンテージを得た。
ホームでの第2レグは、メルボルンのクリケット・グラウンドに8万5千人のサポーターを集めての決戦。前半32分、アウレリオ・ヴィドマーのクロスに飛び込んだキューウェルが2戦連発の先制弾。さらに後半立ち上がりの48分、左からのクロスにキューウェルが頭で折り返し。そこからヴィドマーの追加点が生まれ、オーストラリアのW杯出場が近づいた。
しかし終盤に入った75分、バゲリのゴールで1点を返されると、79分にはアリ・ダエイのスルーパスからアジジが抜け出し同点弾。試合は2-2で引き分けるも、アウェーゴールの差でイランのW杯出場が決定する。
28年ぶり2度目のW杯出場を目前にしながら、オーストラリアに絶望をもたらしたこの試合は「メルボルンの悲劇」と呼ばれるようになった。
この試合の3週間後にはサウジアラビアで開催されたコンフェデレーションズカップに出場。G/Lを勝ち上がったオーストラリアは、準決勝でウルグアイと対戦。0-0で延長に入った92分、キューウェルのシュートがネットを揺らしゴールデンゴールでの決着となる。
決勝のブラジル戦はロマーリオとロナウドのハットトリックを許し0-6の大敗を喫してしまうが、オーストラリアは世界大会準優勝の好成績を挙げた。
リーズ・ユナイテッドの3年目となる97-98シーズン、キューウェルはトップチームでレギュラーの座を獲得。アグレッシブなプレーを見せて左ウィングで29試合5ゴールと結果を残し、近年低迷していたチームの上位浮上に貢献した。
翌98-99シーズンは39試合6ゴール、同胞のヴィドゥカが入団した99-00シーズンは36試合10ゴールと尻上がりに成績は向上。99年はイングランド年間若手優秀選手賞に輝き、00年はプレミアのベストイレブンに選ばれている。
そしてキューウェルやヴィドゥカの他にも、リオ・ファーディナンド、イアン・ハート、アラン・スミス、ロビー・キーンと若手有望選手を集めたチームは、「ヤング・リーズ」と呼ばれてプレミアリーグを席巻していった。
98-99シーズンからリーグの優勝争いにも加わるようになり、99-00シーズンはキューウェル5ゴールの活躍でUEFAカップ(現EL)の準決勝に進出。さらに翌00-01シーズンは、クラブの8年ぶりとなるチャンピオンズリーグ(CL)に参戦する。
1次リーグではACミラン、バルセロナと同居する厳しいグループに入ったが、リーズは強豪バルセロナを3位に追いやり2位通過。2次リーグでもイタリア王者のラツィオを退け、レアル・マドリードに続くグループ2位。初の準々決勝進出を決めた。
準々決勝ではスペインリーグを制覇したデポルティボ・ラ・コルーニャと対戦。ホームでの第1戦を3-0と勝利すると、アウェーでの第2戦は苦戦しながらも0-2と踏ん張り、準決勝へ進む。
準決勝はバレンシアに敗れて決勝の晴れ舞台を踏めなかったが、リーズのダイナミックな攻撃は世界のファンに強い印象を残した。そして攻撃を牽引したキューウェルは、セリエAのビッグクラブから強い関心を寄せられる存在となった。
00年9月には自国開催となるシドニーオリンピックが始まったが、主力となるはずだったキューウェルはアキレス腱の故障により欠場。地元オーストラリアはG/L全敗で敗退となった。
01年に行なわれた日韓W杯予選では、大陸間プレーオフでウルグアイと対戦。ホームの第1戦は、キューウェルの突破からPKを得てオーストラリアが1-0の勝利。しかし敵地モンテビデオでの第2戦で0-3の完敗を喫し、またもW杯出場の願いは叶わなかった。
一方、プレミアで躍進を果たしたリーズ・ユナイテッドは、金融機関からの大型融資を受けてビッグクラブ化を推進。しかし01-02、02-03シーズンと2年連続でCL出場を逃し、収入の当てが外れたことから経営が破綻。03年には多くの主力を放出せざるを得なくなった。
キューウェルも放出の対象となり、バルセロナ、ミラン、マンチェスターU、チェルシー、アーセナルと名門クラブからのオファーが殺到する中、金銭的条件は劣ったものの少年時代からの憧れだったリバプールを選択。03年7月に移籍が決定した。
03-04シーズンはレギュラーとして36試合に出場、マイケル・オーウェン、エミール・ヘスキーに続くチーム3位の7得点を記録する。しかし翌04-05シーズンは故障に苦しみ、18試合で僅か1ゴールの成績。キューウェルにとってキャリア最低のシーズンとなったが、リーグカップ決勝とCL決勝では先発出場を果たす。
リーグカップはチェルシーに敗れて準優勝、その3ヶ月後にはトルコのイスタンブールでACミランとのCL決勝が行なわれた。
試合は開始1分にミランが先制。23分にはキューウェルが鼠径部を痛め、無念の負傷交代となってしまった。その後リバプールは前半だけで3点をリードされ苦しい展開となるが、後半に入って主将のジェラードを中心に反撃を開始。僅か6分の間で3得点を挙げてついに追いつき、PK戦を制して21年ぶりの欧州クラブ王者に輝く。
「イスタンブールの奇跡」と呼ばれたこの試合でキューウェルの出場時間は短かったが、オーストラリア選手として初めてCL優勝を経験した。
W杯出場を目指すオーストラリア代表は、オランダと韓国を大会ベスト4に導いた名将フース・ヒディンクを代表監督に招聘する。
ヒディンク監督は僅か4ヶ月という短い期間でチームを束ね、05年11月に行なわれたW杯予選では、再びウルグアイが相手になった大陸間プレーオフに臨む。アウェーでの第1戦はウルグアイが1-0、ホームでの第2戦はオーストラリが1-0と制して互角の勝負。延長を戦っても決着はつかず、W杯出場国はPK戦で決められることになった。
PK戦は1人目のキューウェルが決めると、続くオーストラリアの3人が成功。そしてミドルズブラで守護神を務めるシュワルツァーがウルグアイの2人を止め、ついに32年ぶり2回目となるW杯出場を決めた。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。故障の影響によりキューウェルの体調は万全でなかったが、初戦の日本戦で先発出場を果たす。
前半26分に中村俊輔の放ったクロスがゴールに吸い込まれて日本が先制。しかしオーストラリアは後半フィジカル勝負を仕掛けて日本を消耗させると、途中出場のケーヒルが終盤に立て続けの得点を決めて逆転。ロスタイムにもダメ押し点が生まれ、3-1の勝利を収めた。
続く第2戦は優勝候補ブラジルに0-2の完敗。最終節はグループ突破を懸けたクロアチアのとの戦いになった。1-1で折り返した後半の56分、ニコ・コバチのミドルシュートを初先発のGKカラッチがファンブル。痛恨の失点を喫したオーストラリアは、敗退の危機に追い込まれてしまう。
だが、そこからヒディンク監督は攻撃の駒を次々と投入し、肉弾戦による総攻撃を開始。そして終盤の75分、ブレシアーノのクロスにキューウェルが反応。冷静なトラップからDFをかわし、貴重な同点弾を叩き込む。
こうして2-2の引き分けに持ち込んだオーストラリアは、クロアチアを上回ってのグループ2位を確保。戦前の予想を覆し、オセアニア初となるW杯ベスト16進出の快挙を成し遂げた。
トーナメントの1回戦は、つま先関節炎の発症によりキューウェルが欠場。それでもオーストラリアは強豪イタリア相手に善戦するが、0-0で進んだ後半のロスタイムにPKを与えてついに力尽きてしまった。
リバプールは06-07シーズンのCLを快調に勝ち進み、決勝で再びACミランと対戦した。決勝はインザーギの2ゴールを許して1-2の敗戦。イスタンブールの仇をとられてしまった。リードされた後半59分にキューウェルが投入されるも、状況を打開することが出来なかった。
怪我でたびたびチームを離脱するようになっていたキューウェルは、10試合0ゴールに終わった07-08シーズンを最後にリバプールを退団。トルコの名門ガラタサライと新たな契約を結んだ。
トルコ・スーパーカップのカイセリスポル戦でガラタサライ・デビュー。66分の交代出場直後にファーストタッチで初得点を記録すると、そのあと2点目をアシスト。スーパーカップ制覇に貢献して順調なスタートを切る。そのあと故障に苦しみながらもチームの主力を務め、公式戦37試合13ゴールの活躍。往年の輝きを取り戻した。
キューウェルのひたむきなプレーと魅力的なキャラクターはトルコ国民の人気を集め、「ハリー・ポッター」に掛けた “ハリーの魔法”、あるいは「オージー」をもじった “オズの魔法使い” の愛称で呼ばれるようになった。
ドイツW杯後、アジアサッカー連盟に転籍したオーストラリアは、07年のアジアカップに参加。PK戦となった準々決勝の日本戦では、キューウェルが1人目のキッカーを務めるも、川口能活に止められ敗退となった。
10年にはアジア予選を勝ち抜き、Wカップ・南アフリカ大会に出場。ドイツに0-4と大敗したあとの第2戦、ガーナとの試合でキューウェルが先発初登場する。だが1点をリードした前半の24分、相手のシュートにゴールライン上で反応したキューウェルがハンドで一発退場。アサモア・ギャンにPKを決められ1-1の引き分けとなる。
第3戦はセルビアに2-1と競り勝つが、勝ち点で並んだガーナに得失点差で及ばずG/L敗退となってしまった。
翌11年のアジアカップにも参加し、準決勝のウズベキスタン戦で開始5分のゴールを決めて決勝進出に貢献。しかし決勝では日本に敗れ、オーストラリアは準優勝に終わった。
このあと12年6月に行なわれたブラジルW杯アジア予選のオマーン戦を最後に、33歳で代表を退く。17年の代表歴で58試合に出場、17ゴールを記録している。
11年5月にガラタサライとの3年契約が終了すると、故郷のオーストラリアに戻ってメルボルン・ビクトリーでプレー。13年にはメルボルン・ハートに移り、14年4月に35歳で現役を引退する。
引退後は指導者の道に進むも、今のところイングランドの下位リーグで苦戦しているようだ。
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