「 伝説リベロの栄光と悲劇 」 ガエターノ・シレア ( イタリア )
高い技術と冷静な判断力で最終ラインをリード、機を見ての攻め上がりでオフェンスに厚みを与えた。ユベントスとアズーリで中心選手として活躍し、あらゆるタイトルを手中にしたイタリア史上最高のリベロが、ガエターノ・シレア( Gaetano Scirea )だ。
名門ユベントスではディノ・ゾフ、クラウディオ・ジェンティーレ、アントニオ・カブリーニとともに鉄壁の守備陣を築き、黄金期をキャプテンとして支えた。ディフェンダーながらスマートな守備で一度も退場処分を受けることなく、そのスポーツマンシップで称賛を集める。
イタリア代表でもリーダとしてチームを牽引。82年W杯ではアズーリを44年ぶり3度目の優勝に導き、後継者フランコ・バレージの指標となった。引退後は指導者としての将来を嘱望されるも、突然の交通事故により惜しくも早世した。
シレアは1953年5月25日、ミラノ市郊外の町チェルヌスコ・スル・ナヴィーリオで生まれた。シチリア出身の父親はピレリー工場で働く労働者、ガエターノ少年は4人兄弟の3番目として平穏に育っていった。
子供時代の憧れは、60年代「グランデ・インテル」の栄華を誇ったインテル・ミラノ。地元の7人制チーム「セレニッシマ」に加わり10歳でサッカー競技を始め、14歳の時にクラブのコーチに連れられアタランタの下部組織に入団する。
最初は右ウィングで起用され、優れたボールタッチとドリブル突破でゴールを量産。そのうち高い戦術眼で試合を差配するシレアへ自然にボールが集まるようになり、やがて中盤へとポジションを移していった。
そのあとプリマベーラ(ユースのトップカテゴリー)に進むと、ディフェンダーへコンバート。シレアはそこでフリーマンとしての役割を与えられ、守備だけではなく時に高い位置へ上がって攻撃参加。攻守の中心となってプレーした。
72年9月、19歳のシレアはホームのカリアリ戦でセリエAデビュー。たちまち傑出した才能を見せて20試合に出場するも、チームは14位に沈みセリエA陥落する。
セリエBでの73-74シーズンは、レギュラーの座を獲得してリーグ全38試合に出場。そのプレーがユベントスの関心を引き、74-75シーズンにトリノの名門クラブへの移籍を果たした。
当初、若さと線の細さでビアンコネロからは懐疑的な目を向けられたが、頭脳的な守備とエレガントなプレーでその不安を一掃。代表キャプテンも務めた名手サンドロ・サルバドーレからポジションを奪い、レギュラーに定着する。
そして同い年のストッパー、クラウディオ・ジェンティーレとCBコンビを組み、経験豊かなディノ・ゾフを守護神とした堅陣で、ユベントスの2年ぶりとなるスクデット獲得に貢献。
75-76シーズンはタイトル無冠に終わるも、76年の夏にはジョバンニ・トラパットーニが監督に就任。トラパットーニ監督はカテナチオの進化形である「ゾナ・ミスタ戦術」を用い、人数を掛けた組織的守備からのカウンターサッカーを展開した。
76-77シーズンはスクデットを奪回するとともに、UEFAカップ(現EL)では決勝でアスレティック・ビルバオを1-0と破り優勝。ユベントスにとって初のヨーロッパタイトルだった。
77-78シーズンはリーグを2連覇。78-79シーズンは3位に終わるも、13年ぶりにコッパ・イタリアを制覇する。この頃主力に成長した新鋭SBアントニオ・カブリーニを加えて、ユベントスは強力な守備網を形成。頭脳派のスイーパーとして最終ラインを統率し、ビルドアップ能力にも優れたシレアは戦術の要となり、イタリア屈指のリベロとして活躍した。
イタリア代表には22歳で初選出。75年12月のギリシャ戦でアズーリデビューを飾った。76年6月からW杯予選が始まると、11月のイングランド戦で代表キャプテン、ジャチント・ファケッティに代わり先発出場。2-0の勝利に貢献したことからレギュラーとなる。
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。シレア、ゾフ、ジェンティーレ、カブリーニとセリエA最強を誇るユベントスの守備陣が、そのまま代表にも移植された。
1次リーグの初戦でプラティニ擁するフランスと対戦。試合は22歳の新星FW、パオロ・ロッシのゴールで2-1の逆転勝利を収める。
続くハンガリー戦はロッシの先制ゴールで3-1と快勝。最終戦も地元アルゼンチンを1-0と打ち破り、3連勝で2次リーグに進んだ。
2次リーグの初戦は、前大会チャンピオンの西ドイツと0-0の引き分け。続くオーストリア戦をロッシのゴールで1-0と勝利し、決勝進出を懸けて最終節のオランダ戦に臨む。
開始18分、オランダDFブランツのオウンゴールによりイタリアが先制。だが後半に入った50分、そのブランコに汚名返上のロングシュートを決められ1-1と追いつかれる。そして終盤に入った74分、ハーンの地を這う40mシュートが、ゾフの伸ばした手をかすめてゴール。1-2の逆転負けで決勝進出はならなかった。
3位決定戦はブラジルに1-2の敗北。有終の美を飾れなかったものの、シレアは若きディフェンスリーダーとしてチームを支えた。
80年4月、ポーランドとの親善試合で代表初ゴールを記録。同年6月には自国開催の欧州選手権に出場するも、地元イタリアは決勝進出を逃し、3位決定戦でチェコスロバキアにPK戦負け。またも大会4位に甘んじている。
80-81、81-82シーズン連覇とユベントスでキャリアを重ねてゆき、イタリア代表では82年6月のWカップ・スペイン大会に出場。シレアを始めとする守備陣のほか、MFマルコ・タルデリ、FWロッシなど、主力の大半をユベントス勢が占めた。
1次リーグはわずか2得点と攻撃陣が沈黙。エースのロッシは、八百長スキャンダルによる2年間の出場停止処分から復帰したばかり。そのプレーは精彩を欠いていた。それでもシレアを中心とする堅い守備で3試合を引き分けに持ち込み、ポーランドに続く2位で1次グループを勝ち上がる。
2次リーグでようやく攻撃陣が爆発。前回チャンピオンのアルゼンチンを、タルデリとカブリーニのゴールで2-1と下すと、死闘となったブラジル戦はロッシのハットトリックで3-2の勝利。イタリアは準決勝進出を決めた。
準決勝は、またもロッシ2得点の活躍でポーランドを2-0と撃破。決勝は西ドイツとの対戦となった。激しい攻防が繰り広げながらも0-0で折り返した後半の57分、ジェンティーレのクロスからロッシが先制点。さらに69分、シレアが右サイドで素晴らしい攻め上がりを見せ、ベルゴミとのパス交換から鋭いクロス。これをタルデリが決め、貴重な追加点が生まれた。
終盤の81分にはアルトベリのゴールで3点目。このあとシレアの統率するカテナチオが、西ドイツの反撃をブライトナーの1点に抑え3-1の勝利。イタリアが44年ぶり3度目となるW杯優勝を飾り、全試合にフル出場したシレアはチームの中心として大きな役割を果たした。
82年の夏には、プラティニとポーランドのボニエクがユベントスに入団。世界一の陣容を揃えたチームはコッパ・イタリアを制覇し、チャンピオンズカップでも10年ぶり2度目の決勝へ進む。しかし決勝ではハンブルガーSVに0-1と敗れて、惜しくも準優勝に終わった。
83-84シーズンからシレアがキャプテンに就任。自身6度目のスクデットを獲得すると、カップウィナーズ・カップもポルトを2-1と破り初優勝。2つ目のヨーロッパタイトルとなった。
翌84-85シーズンはリーグ5位に沈むも、チャンピオンズカップを勝ち抜き3度目の決勝進出。85年5月、ブリュッセルのヘイゼルスタジアムで、リバプールとの決勝戦が行なわれることになった。
悪質なフーリガンの存在で知られたリバプールとの決勝は、試合開始前から不穏な雲行き。やがて両チームサポーターの間で罵り合いが始まると、リバプールのフーリガンが暴徒となってユベントスの応援ゾーンへなだれ込んだ。たちまちスタンドは修羅場と化し、死者39名、負傷者400名以上を出す大惨事が発生。「ヘイゼルの悲劇」と呼ばれるサッカー史上悪名高い事故だった。
シレアはリバプールのキャプテン、フィル・ニールとともにマイクを握り、スタンドに訴えかけ、騒然とする観客を落ち着かせて決勝は開始。試合はプラティニのPKで1-0の勝利、ユベントスが悲願の初優勝を達成した。
さらに年末のトヨタカップでは、南米王者アルヘンティノス(アルゼンチン)をPK戦で制し、世界一クラブの称号を獲得。シレアはチームメイトのカブリーニとともに、欧州3大カップとインターコンチネンタル・カップを制覇した初めてのプレーヤーとなった。
85-86シーズンは7度目のスクデットを手にし、86年5月31日にはWカップ・メキシコ大会に出場。ディフェンディングチャンピオンのイタリアは、アルゼンチンに続くグループ2位でベスト16に進むも、トーナメント1回戦でフランスに0-2と完敗して敗退。シレアはこの大会を最後に、33歳で代表を退く。
代表歴の12年間で78試合に出場、2ゴールを記録。3度経験したWカップの18試合と、80年の欧州選手権4試合すべてにフル出場している。80年から代表入りしたACミランのリベロ、フランコ・バレージに、引退するまでその座を明け渡すことはなかった。
87-88年シーズン終了後、35歳で現役を引退。14年を過ごしたユベントスでは公式戦552試合に出場。これは当時クラブの最多出場記録(現在はデル・ピエロ、ブッフォンに続く3位)だった。
その先読みに優れたスマートな守備とフェアプレー精神、温厚な性格で一度もレッドカードを受けることなく、マスコミから「ジェントルマン・スイーパー」と称賛された。
引退後は、ディノ・ゾフ監督を補佐するユベントスのアシスタントコーチ(副監督)に就任、緻密な分析力でスカウティングを担当した。
89年9月、UEFAカップで対戦するグルニク・サブジェの試合を視察するため、チームの本拠地があるポーランドに出張。ゾフ監督が必要としたスカウティングではなかったが、クラブ間の交流を図りたい経営陣の指示に従った出張だった。
その視察を終えた9月5日、シレアとグルニクの幹部ら4人を乗せた車が、ワルシャワの空港に向かうハイウェイでトラックと衝突事故。車両は爆発炎上を起こした。
シレアは燃えさかる車から救出され、直ちに病院へ運ばれるも、治療を受けることなく重度のやけどによる死亡を確認。悲報はすぐにイタリアへ伝えられ、まだ36歳という若さでの事故死は母国に衝撃をもたらした。
事故は直後に脱出した1人が命を取り留めるが、車中で焼死した2人を合わせて3名が犠牲。検視解剖の結果、彼らの遺体に衝突のダメージは無かったという。
当時、東欧革命の最中にあったポーランドの燃料事情は悪く、走行中ガス欠にならないようトランクに予備のガソリンタンクを設置するのが一般的。それがシレアの悲劇となってしまったのだ。
その9ヶ月後、ゾフ監督率いるユベントスはライバルACミランを破りコッパ・イタリア優勝。優勝杯は亡きシレアに捧げられた。
イタリアサッカー界は早世した伝説リベロの功績を称え、自国開催の90年W杯では報道陣の拠点を「ガエターノ・シレア・メディアセンター」と命名。同年に開場したユベントスの新スタジアムには「クルバ・シレア」と名付けられたサポーター席が設けられた。
また92年には、セリエAの模範的選手に与えられる「ガエターノ・シレア賞」が創設。2011年にはイタリアサッカーの殿堂入りを果たし、レジェンドとしての記憶を永遠に刻むことになった。
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