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《 サッカー人物伝 》 ファウスティーノ・アスプリージャ

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「ティーノのお騒がせライフ」ファウスティーノ・アスプリージャ(コロンビア)

柔らかい身のこなしと天才的ひらめきでDFを翻弄。瞬発力を活かした快速を飛ばし、予測不能のドリブルとシュートで相手ゴールを脅かしたコロンビアのストライカーが、ファウスティーノ・アスプリージャ( Faustino Hernán Asprilla Hinestroza )だ。

バルデラマイギータリンコン、バレンシアら個性派が揃った90年代コロンビア代表の中で、天才肌のゴールゲッターとして活躍。アメリカW杯南米予選のアルゼンチン戦では2得点を挙げて、敵地で強豪を5-0と打ち破る殊勲の立役者となった。

セリエAのパルマでも、カップウィナーズ・カップ優勝、UEFAカップ制覇に独創的なプレーで貢献。だがその一方、破天荒な言動による問題児ぶりでも知られ、クラブとのトラブルを頻発させて低迷。そのあと南米に戻っても素行不良で世間を騒がせ続けた。

天才肌のストライカー

ファウスティーノ・アスプリージャは1969年11月10日、コロンビア赤道直下の町トゥルアに、8人兄弟の1人として生まれた。父親は小さなサトウキビ 工場の労働者、後年アスプリージャはその工場を買い取りオーナーとなっている。

ファーストネームを縮めた「ティーノ」の愛称で呼ばれた少年は、ラ・サルミエント・フットボールスクールでサッカーのキャリアを開始。ここで2年の訓練を受けたあと、88年にククタ・デポルティーボと契約。19歳でプロデビューを飾った。

プロ1年目から早くも36試合17ゴール8アシストと大活躍。派手な宙返りによるゴールパフォーマンスでも人気を博し、90年にはコロンビアの強豪ナシオナル・メデジン(アトレティコ・ナシオナル)への移籍を果たす。

ティーノはメデジンでもエースとなり、91年には親友アリスティサバルと強力なアタッキングコンビを形成。15ゴール10アシストを記録してリーグ優勝に貢献すると、シーズンMVPにも輝いた。

92年にはコロンビアのU-23代表チームに選ばれ、五輪南米予選で活躍。強豪ブラジル、ウルグアイを退けてのオリンピック出場決定に大きな役割を果たした。

バルセロナ五輪本番では3試合無得点に終わったが、南米予選で輝いた才能がパルマの目に止まり、同年の夏にセリエAへ活躍の舞台を移す。

生活環境の異なるイタリアでのパフォーマンスが危惧されたが、ネビオ・スカラ監督が気分屋の彼を上手くコントロール。天才肌にありがちなムラッ気を見せるも、ツボにはまれば驚異的なパフォーマンスで周囲を圧倒。アレッサンドロ・メッリ、トマス・ブローリンとともに攻撃陣を構成した。

そして93年3月に敵地サンシーロで行なわれたACミラン戦では、ティーノがFKを決めて1-0の勝利。当時セリエA最強を誇ったロッソネリ、58試合無敗の記録を止める殊勲弾だった。

92-93シーズンのカップウィナーズ・カップでは、準決勝のアトレティコ・マドリード戦で2ゴールを挙げて決勝進出に貢献。ウェンブリー・スタジアムでの決勝でアントワープ(ベルギー)を3-1と下して初優勝を果たすも、その試合のピッチにティーノの姿はなかった。

実は決勝の前にコロンビアへ帰省した際、自ら運転する車がバスと衝突。激怒したティーノはバスに乗り込もうとし、自動ドアのガラスを蹴破って全治4週間の裂傷を負う。そのため大事な決勝をベンチで見届ける事になってしまったのだ。

 

W杯南米予選、アルゼンチン戦の快挙

フル代表には93年に初選出。6月6日の親善試合チリ戦でデビューを果たすと、さっそく初ゴールを記録して1-0の勝利。10日後に始まったコパ・アメリカ(エクアドル開催)のメンバーにも選ばれ、得点はなかったものの3試合に出場してコロンビアの大会3位に寄与する。

93年8月からはW杯南米予選が開始。予選グループ最大の強敵アルゼンチンをホームで2-1と下すと、最終戦となった敵地ブエノスアイレスの試合では、ティーノがピッチを縦横無尽に走り回り相手を翻弄。2得点を挙げて5-0の大勝の立役者となって、その名を世界に知らしめた。

こうしてコロンビアが無敗で予選グループ1位になり、強豪アルゼンチンを大陸間プレーオフに追いやっての2大会連続W杯出場が決定する。

94年6年、Wカップ・アメリカ大会が開幕。ティーノ、バルデラマ、リンコン、バレンシアと魅惑的な攻撃陣を揃えたコロンビアは、前回ベスト16の実績もあり大会のダークホースに挙げられていた。

しかし初戦はゲオルゲ・ハジ率いるルーマニアに1-3の完敗。第2戦は守りを固める地元アメリカに苦戦し、前半16分にはシュートのクリアを試みたDFエスコバルがオウンゴール。さらに後半52分に追加点を許すと、この後の反撃をバレンシアの1点に抑えられて1-2の敗北。

最終節でスイスを2-0と下すも、時すでに遅し。国民の期待を裏切るグループ最下位で屈辱の敗退。ティーノは3試合に先発したが、1点も挙げられずに終わった。

W杯敗退の5日後、アメリカ戦オウンゴールのエスコバルが、メデジン郊外のバーで射殺されるという事件が発生。コロンビアサッカーの闇の深さを象徴する悲劇だった。

トラブルメーカーの全盛期と転落

93-94シーズン、ジャンフランコ・ゾラがパルマに入団。ティーノはイタリア屈指のファンタジスタと息の合ったコンビネーションを見せ、27試合10ゴール6アシストの活躍。カップウィナーズ・カップでは2年連続の決勝進出を果たすが、アーセナルに0-1と敗れて準優勝。だがスパーカップではCL優勝のACミランを2戦合計2-1で下して、2シーズン連続のタイトルを得た。

94-95シーズンはUEFAカップ(現EL)の決勝に進出。新加入ディノ・バッジオ2ゴールの活躍でユベントスを2戦合計で2-1と撃破し、2つ目の欧州ビッグタイトルを獲得。ティーノも8試合4ゴールと優勝に貢献した。

しかしキャリア最高の時期にあったこの頃から、調子に乗ったティーノの傍若無人の言動が目立つようになっていく。

彼の自宅からは毎晩のように大音量の音楽が鳴り響き、多くの知人や美女を招いてのどんちゃん騒ぎ。そのあまりの騒々しさに隣家から苦情が寄せられ、ついには警察に呼び出されるという事態となり、強制的な引っ越しを余儀なくされた。

また何度も交通事故を起こすなど問題行動が続き、95年の元旦には、故郷のトゥルアで未登録の銃を発砲して懲役1年(執行猶予付き)の判決。信頼を寄せていたスカラ監督との関係もまずくなり、試合の集中力を欠いてパフォーマンスは低下していった。

94-95シーズンは、怪我での出遅れとストイチコフの加入により出番は激減。シーズン途中の96年2月、プレミアのニューカッスルへの移籍が決まる。

しかし契約締結後に行なわれた健康診断のドーピング検査で、コカイン使用の疑惑が浮上。ニューカッスルは契約を白紙に戻そうとするも、パルマはその履行を求めて提訴。結局ニューカッスルがティーノを引き取ることになった。

95-96シーズン、ニューカッスルは首位戦線をリードしながらも、最後マンチェスター・ユナイテッドの逆転を許して2位。後半加入のティーノは、奔放なプレーで14試合3ゴールと期待外れの結果。戦犯の1人と批判される。

翌96-97シーズンには、2季連続プレミア得点王のアラン・シアラーが加入。スーパーサブ要員となったティーノは、UEFAカップでこそ6試合5ゴールの活躍を見せるが、リーグ戦は24試合4ゴールの成績。中盤戦で7戦未勝利と失速したチームは、またも2位に終わった。

97-98シーズンの開幕直前、エースのシアラーが負傷離脱。ティーノは先発を任されるが、膝の故障により10試合でわずか2ゴール。チームは13位へと沈んだ。それでもチャンピオンズリーグのグループステージでは、バルセロナ戦に出場してハットトリックの活躍。滞空時間の長い2本のヘディングシュートでポテンシャルの高さを見せた。

イングランドではカルトヒーローとして人気を得るも、バルセロナ戦が最後の輝きとなり、シーズン途中の98年2月には古巣のパルマへ復帰する。

コロンビア代表での騒動

95年7月のコパ・アメリカ(ウルグアイ開催)では、2ゴールを挙げて大会3位に貢献。96年4月からW杯南米予選が始まると、前半戦はティーノ6ゴールの活躍でコロンビアが5勝1敗2分けの好成績を収める。だが「馬を買いに行ってくる」と言って代表合流を遅らせるなど、その我儘ぶりはエスカレートしていった。

後半戦に入った97年4月のパラグアイ戦、0-1とリードされた終盤の79分に、ゴール前のラフプレーからGKチラベルトと揉み合い。平手打ちの応酬で両者退場となった。ティーノから唾を吐きかけられたチラベルトは、ベンチへ戻る彼を追いかけ顔面パンチ。チラベルトは4試合出場停止、ティーノは2試合の出場停止処分を受けている。

この騒動の後、コロンビア麻薬カルテルのヒットマンから、チラベルト殺害の申し出を受けたティーノ。だが彼は「なんてことを言うんだ!ピッチで起こったことはピッチで終わらせる」と一喝。ヒットマンを説得して事なきを得た。

エースを失ったコロンビアは1分けを挟む4連敗と苦戦するが、ティーノが復帰した終盤戦に盛り返して予選3位。3大会連続のW杯出場を決める。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕、初戦は前回と同じルーマニアとの対戦になった。0-1のビハインドで迎えた終盤の84分、交代を告げられたティーノは不満爆発。試合後、記者の取材を受けて監督批判を行なうと、チームから追放処分となった。

コロンビアは1勝2敗のグループ3位で敗退。このあとティーノはしばらく代表を離れるも、監督交代にともない復帰を果たす。だが膝の故障により全盛期のパフォーマンスを取り戻せず、日韓W杯・南米予選で敗退が決まった01年11月のパラグアイ戦を最後に、32歳で代表を退く。9年間の代表歴で57試合に出場、20ゴールの記録を残した。

狙撃マニア、ティーノ

98-99シーズン、D・バッジオ、キエーザ、クレスポ、ベロンカンナバーロテュラム、ブッフォンと強力布陣を整えたパルマは、決勝でマルセイユを下して2度目のUEFAカップ制覇。コッパ・イタリアでも7季ぶりの優勝を果たした。

しかし膝の故障に苦しんだティーノは、2シーズンの公式戦でわずか3ゴールと低迷。99年の夏には南米に戻りブラジルのパルメイラスと契約。パルメイラスではリオ・サンパウロ州選手権優勝に貢献している。

だが暴力行為や拳銃発砲の事件を繰り返すなど、トラブルメーカーぶりは相変わらず。03年に移籍したウニベルシダ・デ・チレ(チリ)では練習場にピストルを持って現れ、空中に向けて発射。トレーニング中のチームメイトに、「もっと速く走れ!チャンピオンになれないぞ!」と叫んだという。愛称の「ティーノ」にはスペイン語で「狙う」という意味もあった。

このあとも南米の各クラブを渡り歩き、05年3月に35歳で現役を引退。引退後はサトウキビ 工場を経営するほか、サッカースクールを開設している。

07年には、黒い翼を背負った全裸姿でコロンビアの雑誌に登場。かつてチリとの親善試合でズボン裾から性器を露出させた報道写真が掲載され、以降母国では「セックス・シンボル」と呼ばれていたのだ。08年には所有するコロンビアの農場でマシンガンを乱射、治安部隊に逮捕されて保護観察下に置かれた。

14年にはコンドームブランド「TINO」を立ち上げ、20年のパンデミック発生により避妊具が不足すると、自社製品による提供プロジェクトを発表。現在もエピソードに事欠かないお騒がせライフを送っている。

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