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83年の大ヒット映画「南極物語」

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空前の大ヒット映画

83年公開の『南極物語』は、南極に残されたカラフト犬・タロとジロの2頭が、1年を生き延びて南極観測隊員と再会するという、実話をもとにした感動の動物映画。

監督は『栄光への5000キロ』(69年)『青春の門』(81年)の蔵原惟繕。フジテレビ、学研研究社、蔵原プロダクションの共同製作でつくられ、日本ヘラルドと東宝が配給を担当。フジサンケイグループを挙げたメディアミックス戦略が当たり、犬たちのけなげな演技も相まって、空前の大ヒットを記録した作品である。

出演は高倉健、渡瀬恒彦、岡田英次、夏目雅子、荻野目慶子など。地質学者の越冬隊員を演じる高倉健は、『八甲田山』(77年)『駅 STATION』(81年)に続く極寒の地での撮影となった。

タロとジロの感動物語

時代背景は南極昭和基地で第1次越冬隊員が荒天のため交代を果たせず、2次観測事業が中止された昭和33年2月。ぎりぎりの状態で帰国することになった観測隊は、犬ゾリ用に連れてきたカラフト犬15頭をやむなく基地へ残さざるを得なくなる。

そして翌34年1月14日、南極観測隊が1年ぶりに基地へ戻ると、そこには苛烈な自然を生き延びた2頭の犬、タロとジロの姿があった。

この奇跡的な実話をもとに、蔵原監督は南極に残された犬たちの生き様や死に様を、想像による描写と苛酷なロケにより再現。そこへ隊員たち(高倉健と渡瀬恒彦)の犬に馳せる思いを交互に挟み、感動のドラマに仕立て上げた。

映画化決定と苛酷な撮影

『南極物語』の製作は、蔵原監督の弟でプロデューサーである蔵原惟二が、フジテレビにドラマシリーズとしてこの企画を持ち込んだ事から始まった。

蔵原プロでつくったドキュメンタリー映画『キタキツネ物語』(79年)と『象物語』(80年)が好評を得て、次の動物企画を探していた惟二は、国会図書館で古い新聞を繰っているうちにタロとジロの記事に突き当たる。

惟二は記事を目にした瞬間、「これだ!」と直感。そこには、“別離”、“謎”、“再会” というドラマに不可欠な要素が含まれていたからだった。

しかし独立プロの映画とするにはスケールが大きすぎ、試行錯誤の末、『キタキツネ物語』を放送したフジテレビにテレビシリーズとして企画を持ち込み。だが幸運にもこの時期フジテレビは映画界への進出を狙っており、大作映画として製作することを蔵原プロに逆提案してきた。

このあと学研の出資も受けて映画化は決定。メインキャストとして高倉健と渡瀬恒彦が出演することになった。ロケはほとんど南極と北極で行なわれ、南極のニュージーランド隊が構えるスコット基地に本拠を置いて、81年12月に撮影は開始される。

スコット基地は日本の昭和基地と正反対の側に位置し、南極ロケは通算2回の2ヶ月ずつ、計4ヶ月にわたった。北極へは犬探しから調教まで含めて延べ1年間滞在。北極圏からやや南のカナダ東端、リゾリュートに本拠が置かれた。

地球の北と南の極をつないでの撮影で、しかも常時零下40度。寒さを通り越して痛さに悩まされる毎日だったが、撮影は足かけ3年で無事終了した。

綿密な宣伝戦略による大ヒット

一方、製作本部では連日のように宣伝会議がもたれ、77年に大ヒットした『八甲田山』を上回る35億円に配収目標を設定。この高い目標を達成すべく、綿密な宣伝戦略が練られた。

当時、映画界の風雲児となった角川のメディアミックス戦略を参考に、フジサンケイグループの総力をかけてのプロモーションを開始。『笑っていいとも』や『オレたちひょうきん族』などの人気番組で映画が宣伝され、ラジオのニッポン放送でも連日大々的なキャンペーン。

そして出演者の荻野目慶子がキャンペーンガールとなり、映画のイメージソング『愛のオーロラ』を歌いながらの全国行脚。また地方系列局にも前売り券の扱いが託された。

学研も看板雑誌『科学と学習』で映画を大々的に取り上げ、一般家庭と直に接する販売員が前売り券をさばいた。日本ヘラルドは宣伝計画、ポスターづくり、劇場確保に奔走する。

蔵原プロは映画に出演した犬たちを連れて全国キャンペーン。こうして『南極物語』に対する期待は次第に高まり、公開されたタロとジロの感動物語は国内1200万人の観客を動員。当初の目標を大きく上回る配収58億円を記録した。

これは当時の邦画最高興行収入記録となり、03年に同じフジテレビ製作の『踊る大捜査線 THE MOVIE 2』に抜かれるまで、実写映画の歴代1位を保持していた。

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