「 クロアチアの得点王 」 ダボール・シュケル ( ユーゴスラビア /クロアチア )
左右の柔らかいボールタッチと多彩なキックを駆使し、緩急自在のプレーでゴール前に切り込んだ。時には豪快なシュートを突き刺し、時には冷静にネットを揺らすなど的確な状況判断で得点を重ね「バルカン・トマホーク」と呼ばれたのが、ダボール・シュケル( Davor Šuker )だ。
創立間もないクロアチア代表をボバン、ボクシッチ、プロシネツキとともに牽引。初参加のユーロ96ではエースFWとしてベスト8進出に貢献し、98年W杯では6ゴールを挙げて得点王。初出場の新興国を大会ベスト3に導く。
クロアチアの強豪クラブで頭角を現すと、移籍したスペインのセビリアでも類い希な得点能力を発揮し、「セビリアの星」と呼ばれた。96-97シーズンには名門レアル・マドリードに引き抜かれ、いきなり24ゴールの大活躍でリーグ優勝に貢献している。
シュケルは1968年1月1日、旧ユーゴスラビア連邦の北東部に位置する、クロアチアの街オシエクで生まれた。父トミスラフは、60年代にユーゴスラビア代表で活躍した砲丸投げ選手。妹クラウディアは、「クロアチアの英雄」と謳われた格闘家ミルコ・クロコップと02年に結婚している。
16歳となった84年に地元クラブのNKオシエクで本格的なキャリアを始め、4年目の88-89シーズンは26試合18ゴールを記録してファーストリーグ(ユーゴ1部リーグ)の得点王に輝く。
その活躍が認められ、89年にはクロアチアの強豪ディナモ・ザグレブに移籍。同年代のズボニミール・ボバンとともに中心選手として活躍し、首都ベオグラードの名門レッドスター(ツルベナ・ズベズダ)と激しい優勝争いを演じて2年連続の2位となる。
しかし90年代に入ると、民主化の気運が高まったクロアチアが独立宣言。これをきっかけ民族紛争の絡まった内戦が勃発し、ファーストリーグは解体。多くのトップ選手が西欧クラブへと流れていった。もちろんシュケルもその1人である。
NKオシエクで頭角を現したシュケルは、U-20ユーゴスラビア代表に選ばれて、87年10月にチリで開催されたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)へ出場する。このチームにはシュケルの他、ボバン、プロシネツキ、ヤルニ、シュティマックと、のちにクロアチア代表の主力となるメンバーが揃っていた。
G/Lの初戦は地元チリと対戦。開始14分にボバンの先制点が生まれると、同点とされた直後の19分にシュティマックが勝ち越し弾。後半に入ってシュケルが立て続けに2得点を決め、ホストチームを4-2と撃破する。
続く第2戦もシュケルが2得点、ボバンも1点を挙げ、オーストラリアに4-0の完勝。第3戦はミヤトビッチ(のちセルビア・モンテネグロ代表)の2得点とシュケルのゴールでトーゴを4-1と下し、3試合12得点の圧倒的な攻撃力でベスト8に進出した。
準々決勝は大会2連覇中のブラジルと対戦。前半終了直後にアルシンド(のち鹿島アントラーズ)の先制点を許すも、後半すぐの52分にミヤトビッチが同点弾。1-1のまま延長に入るかと思えた89分にプロシネツキが決勝弾を叩き出し、ユーゴがベスト4に進む。
準決勝の相手は東ドイツ。前半30分にシュティマックのゴールでリードし、後半70分にはシュケルが追加点。相手の反撃をマティアス・ザマーの1点に抑え、ついに決勝へ勝ち上がった。
決勝は西ドイツとの戦い。ユーゴはプロシネツキ、シュティマック、ミヤトビッチの主力3選手を欠く苦しい布陣となった。均衡状態が続いた終盤の85分、センターラインでボールをキープしたシュケルが右サイドへボールを展開。そこからの折り返しにハーフボレーで合わせたボバンが、強烈なシュートを突き刺した。
これでユーゴが勝利を手にしたかに思えたが、その2分後、ヤルニがPエリアでダンマイヤーを引っ掛けPK。これをFWヴィテチェクに決められ、ゲームは振り出しに戻った。
このあと延長120分を戦ってもスコアは動かず、勝負はPK戦へ。先攻の西ドイツは、1人目のヴィテチェクが止められ失敗。対するユーゴはシュケルなど4人が続けてPKを成功させ、最後はボバンが決めて初優勝を果たした。
88年9月にはソウル・オリンピックに出場。ユーゴはG/Lでブラジル、オーストラリアに続く3位となり敗退。シュケルの出番は2試合の途中出場に留まった。
そのあと90年3月から始まったU-21欧州選手権(ホーム&アウェー方式)に出場し、ユーゴは決勝でソ連に敗れたものの準優勝の好成績。7得点と活躍したシュケルは、大会得点王とMVPに輝く。
90年2月には、イビチャ・オシム監督率いるフル代表にも初招集。親善試合のトルコ戦でデビューを果たし、2戦目のフェロー諸島戦で初ゴールを記録した。そして2歳年下のボクシッチとともに、FWとして90年W杯イタリア大会のメンバーに選ばれる。
しかし本大会ではバックアップ選手の扱いとなり、2人の若手FWは1試合もベンチ入りすることなく初めてのW杯を終えた。
同年の10月にはクロアチア選抜が編成され、シュケルは12月のルーマニア戦で初めて市松模様のユニフォームに袖を通す。だがこの時点ではまだ非公式の代表チームで、正式にFIFA及びUEFAへの加盟が認められるのは、クロアチアが独立したあとの92年のことである。
そして92年10月には初の国際Aマッチとなるメキシコ戦が行なわれ、シュケルはクロアチア代表デビュー戦で2得点を決めている。
91年の秋にはスペイン・アンダルシア地方の中堅クラブ、セビリアFCへ移籍。11月17日のエスパニョール戦で交代による初出場を果たし、次戦のレアル・ソシエダ戦に先発して2ゴールを記録している。
しかし移籍1年目は22試合6ゴールと振るわない成績に終わり、2年目の92-93シーズンに33試合13ゴールと挽回。このときナポリから移籍してきたディエゴ・マラドーナとワンシーズンだけともに過ごしたシュケルは、彼のプレーから多くのものを学んだという。
そして翌93-94シーズンはその学びを生かして大活躍。34試合24ゴールとバルセロナのロマーリオに続くハイスコアを記録する。そのあとも安定した成績を残し、当初ほとんど無名の選手だったシュケルは、「セビリア希望の星」と呼ばれるほどの存在になっていった。
新興クロアチア代表は、W杯アメリカ大会の欧州予選に間に合わなかったが、94年9月から始まったユーロ予選に初参加。シュケルは予選10試合で12ゴールを記録し、クロアチアを初の国際大会出場に導いた。
96年6月に開催されたユーロ96(イングランド開催)では、G/L初戦でトルコに1-0と勝利して白星スタート。第2戦で前大会チャンピオンのデンマークと対戦する。
後半54分、シュケルのスルーパスから抜け出したスタニッチが、GKシュマイケルに倒されPKを獲得。これをシュケルが決めてクロアチアが先制する。81分にはシュケルのクロスからボバンが追加点。85分にもシュケルがセンターライン付近からあわやのロングシュートを放つも、これは懸命にバックしたシュマイケルに弾かれた。
終了直前の90分、アサノビッチのロングボールからゴール左サイドに切り込んだシュケルが、立ち塞がるシュマイケルの頭上を抜く技ありのループシュート。前回王者を相手に3-0と完勝する。名手シュマイケルを翻弄したシュケルは「マン・オブ・ザ・マッチ」に選出、まさに生涯ベストゲームと言えるパフォーマンスだった。
主力を温存した第3戦は、ポルトガルに0-3の敗戦。クロアチアはグループ2位でベスト8に進んだ。準々決勝ではドイツと対戦。前半20分にクリンスマンのPKで先制されるも、後半51分にシュケルが相手のミスを突いて同点ゴール。しかしシュティマックが警告2枚で退場した直後の59分にザマーの勝ち越し弾を許し、惜しくも準決勝進出はならなかった。
ユーロ終了後の96-97シーズン、スペインの名門レアル・マドリードへ移籍。さっそく怪物ロナウド(バルセロナ)と得点王争いを演じ、38試合24ゴール(リーグ3位)の活躍。2シーズンぶりのリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)優勝に大きく貢献する。
しかし翌97-98シーズンにユップ・ハインスケンスが監督に就任すると、主力から外され出場機会は減少。エースの座を新加入のモリエンテスに奪われて、29試合10ゴールの成績に終わってしまう。レアルはチャンピオンズリーグで32シーズンぶり7度目の優勝を果たすも、シュケルに与えられたチャンスは少なかった。
96年4月から始まったW杯欧州予選では、9試合5ゴールの活躍でクロアチアの本大会初出場に貢献。しかし予選4得点を記録したボクシッチが大会直前に怪我を負い、クロアチアは強力2トップの一角を欠いてW杯本番に臨むことになった。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。G/L初戦をプロシネツキ、シュケルらのゴールで同じ初出場のジャマイカを3-1と破り、第2戦も初出場同士となる日本との戦い。暑さに苦しむ試合となったが、終盤の77分にカウンターからシュケルが決勝点。早くもG/L突破を決める。
最終節のアルゼンチン戦は無理をせずに0-1と譲り、グループ2位で決勝トーナメントに進む。1回戦はルーマニアとの対戦。前半ロスタイムにアサノビッチが倒されPK、これをシュケルが決めて先制する。クロアチアは後半を守り切り、準々決勝へ勝ち上がった。
準々決勝はユーロ96で苦杯を舐めたドイツとの対決。前半クロアチアは再三ゴールを脅かされるなど苦戦するが、40分にロングパスから抜け出そうとしたシュケルを、ドイツDFのヴェルンスが倒し一発退場。ここから流れはクロアチアに傾いた。
ハーフタイム直前にヤルニのミドルシュートで先制。後半の80分にも追加点が生まれ、85分にはゴール前の混戦からシュケルがダメ押し点。ドイツに3-0と圧勝を収め、ベスト4進出となった。
準決勝は開催国フランスとの対戦。0-0で折り返した後半すぐの46分、アサノビッチのパスを受けたシュケルが先制ゴール。だがその1分後にボバンのボールロストからテュラムの同点弾を決められてしまう。69分にもテュラムの決勝点を許し1-2の敗戦、クロアチアの快進撃は止まった。
それでも3位決定戦は、プロシネツキの先制点とシュケルの決勝ゴールでオランダに2-1の勝利。W杯初出場で3位という快挙を成した。ベスト3の原動力となったシュケルは、7試合で6点を挙げて得点王、MVPのロナウドに続くシルバーボール賞にも輝いた。
W杯の活躍にもかかわらず、レアルでシュケルの待遇が改善されることはなかった。98年12月のトヨタカップ、ヴァスコ・ダ・ガマ戦では、ほとんど勝利の決まった90分に交代出場したのみ。98-99シーズンはさらに出場機会を減らし、19試合4ゴールと不本意な成績に終わった。
シーズン終了後の99年夏、8年を過ごしたスペインを離れてプレミアリーグのアーセナルへ移籍。しかしアンリ、ベルカンプ、カヌーとFWの駒が揃う中でレギュラーの座を奪えず、交代要員としての出場が続く。
翌00-01シーズンはウエストハムへ移籍。だが11試合2ゴールと低調な成績しか残せず、翌シーズンはブンデスリーガの1860ミュンヘンに、最後のチャンスを求めた。
ボバンとアサノビッチが抜けたクロアチア代表は、ユーロ2000のグループ予選で敗退。シュケルは7試合で4ゴールを挙げたものの、2大会連続出場を果たせなかった。
02年には予選を見事1位で勝ち抜き、Wカップ日韓大会に出場。シュケルは初戦のメキシコ戦にキャプテンマークを巻いて先発するが、開始6分の決定機を逃すなど、そのプレーは精彩を欠いていた。
後半59分、クロアチアDFがゴール前に走り込んだブランコを倒して一発レッド。これで与えたPKで先制を許すと、直後の64分に動きの鈍いシュケルが交代。試合は0-1と敗れてしまう。
このあとシュケルの出番は無くなり、世代交代に失敗したクロアチアは1勝2敗の3位でG/L敗退。この大会を最後にシュケルは代表を退いた。ユーゴ代表として2試合1ゴール。13年プレーしたクロアチア代表では、69試合45ゴールの記録を残した。
1860ミュンヘンでは2シーズンを過ごし、リーグ戦終了後の03年春に35歳で現役を引退。引退後すぐに母国のクロアチアでサッカースクールを開設するも、収益重視の経営が不評で閉鎖。そのあと代理人業やビール販売業などのビジネス活動をもっぱらとした。
12年7月には、クロアチアサッカー連盟会長に就任。サッカー界で権力を振るい、“クロアチアのドン” と呼ばれたズドラフ・マミッチ(当時ディナモ・ザグレブ会長)を後ろ盾にしての就任である。
15年にはUEFA執行委員会メンバーに選出、18年W杯ロシア大会では準優勝の実績を挙げるが、代表監督のすげ替えなど、専横的な振る舞いや黒い噂で国民には不人気だった。
そして黒幕マミッチが不正疑惑で逮捕されてからサッカー界の支持を失い、21年7月の連盟総会では満場一致により会長職を解任されている。
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