「 フィールドの鬼軍曹 」 ディエゴ・シメオネ ( アルゼンチン )
勝利へのあくなき執念でボールに食らいつき、攻撃から守備まで幅広くチームを支えた中盤のマッスルプレーヤー。泥臭さを見せながらも高い知性を持ち合わせ、ゲーム展開を読み切る能力は天下一品。その老獪で戦闘的なスタイルから「鬼軍曹」の名を馳せたのが、ディエゴ・シメオネ( Diego Pablo Simeone González )だ。
リーガ・エスパニョーラやセリエAで活躍。チームのためには汚れ役も厭わず、相手の攻撃を止める意図的な反則は「シメオネファール」と呼ばれた。アルゼンチン代表としては2度のコパ・アメリカ優勝に貢献。W杯にも3回出場し、98年大会のイングランド戦ではGKシーマンのPKを誘うほか、ベッカムを挑発して退場に追い込んでいる。
引退後は指導者の道へ進み、2011年には古巣アトレティコ・マドリードの監督に就任。リアリズムに徹した堅守速攻戦術で長らく低迷期にあった名門クラブを再生させ、レアル・マドリード、バルセロナとの3強時代を切り開いた。
シメオネは1970年4月28日、首都ブエノスアイレスのサンニコラス地区に生まれた。父カルロスはイタリアをルーツとする元サッカー選手で、ボールが身近にある環境で育つ。そのため幼児期に初めて発した言葉は「ゴール」だったという。
サッカーに対する熱心さは地元のクラブに知られるところになり、8歳でベレス・サルスフィエルドのジュニアチームに入団。チームのコーチは守備的MFとしてプレーするシメオネ少年を「エル・チョロ(アステカ・インデオの意)」の愛称で呼んだ。
この愛称は60年代にボカ・ジュニアーズで活躍したディフェンダー、カルメロ・シメオネのニックネームからとったもの。ピッチを精力的に駆け回るプレースタイルと、むき出しの闘争心でボールに向かう姿が、同姓の選手(縁戚関係は無い)を彷彿させたことに由来している。
17歳となった87年9月にトップチームデビュー、10月のデポルティーボ戦でプロ初ゴールを記録する。エネルギッシュな働きと高い戦術眼、優れた守備能力でたちまちレギュラーの座を獲得し、ここで3シーズンを過ごした。
そしてそのプレーがセリエAに昇格したばかりの小クラブ、ピサSCの目に止まり、シメオネは20歳にしてイタリア挑戦。セリエAでも高い適応力を発揮して31試合に出場するが、ピサは1シーズンでセリエBに降格してしまう。
91-92シーズンはセリエBで活躍するも再昇格を果たせず、翌92-93シーズンはカルロス・ビラルド監督に引き抜かれてリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)のセビージャへ移籍。ビラルド監督は86年W杯で優勝を果たしたアルゼンチン代表の名指揮官だった。
92年6月のアルバセテ戦でリーガデビューを果たし、続くバレンシア戦で初ゴールを記録。さっそく33試合4ゴールと安定の成績を残した。このとき短期間ながらも一緒にプレーしたのが、ナポリから移籍してきた同郷のスーパースター、ディエゴ・マラドーナである。
2年目の93-94シーズンは31試合8ゴールと活躍、リーグを代表する守備的MFと目されるようになる。シメオネは勝利のための手段を選ばず、バルセロナ戦ではロマーリオを蹴って「ブラジルのクソ野郎が!」と挑発。ロマーリオの右パンチを誘発して、ライバルチームのエースを一発退場(と数試合の出場停止処分)に追い込んでいる。
アルゼンチン代表には88年に18歳で初招集。7月14日にシドニーで行なわれた親善大会(オーストラリア200周年記念)のオーストラリア戦でデビューを果たし、2日後に行なわれたサウジアラビア戦で初ゴールを挙げる。
91年7月にはチリで開催されたコパ・アメリカに出場。シメオネは6試合すべてに先発し、決勝では先制点を記録。バルデラマ、リンコン、イギータらを擁するコロンビアを2-1と破り、アルゼンチンの31年ぶり13回目となる優勝に大きく貢献した。
92年にはキング・ファド・カップ(のちのコンフェデレーションズカップ)優勝を果たし、オリンピックを目指すU-23代表チームにも選出。しかし南米予選で敗退し、バルセロナ五輪への出場を逃す。
93年6月にはエクアドル開催のコパ・アメリカに出場。シメオネが中盤を支えるアルゼンチンは、準々決勝でブラジル、準決勝でコロンビアを撃破。決勝のメキシコ戦はバティストゥータの勝ち越しゴールをアシストし、大会連覇に大きな役割を果たした。
93年8月から始まったW杯予選では苦戦を強いられるも、大陸間プレーオフでオーストラリアを破って本大会出場権を獲得する。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会に出場。アルゼンチンはギリシャ戦、ナイジェリア戦と順調に勝ち星を重ねるも、薬物検査に引っかかったマラドーナがチームを追放。トーナメント1回戦ではルーマニアに2-3と競り負け、虚しく大会から去って行った。大会初登場となったシメオネは、全4試合にフル出場して健闘した。
94-95シーズン、スペインの名門アトレティコ・マドリードと5年契約を締結。だが故障の影響でコンディションは良くなく、29試合6ゴールとまずまずの数字を残すも、チーム成績は16位に低迷。不本意なシーズンを送った。
翌95-96シーズン、新指揮官のラドミール・アンティッチ監督がアグレッシブな戦術を採用すると、シメオネは水を得た魚のような勢い。高い守備ラインから巧みにボールを奪うと、素早い展開でキコとペネフの2トップをサポートした。
また自らも積極果敢にゴールを狙い、キャリアハイとなる12ゴールを記録。ホームの最終節アルバセテ戦ではシメオネとキコがゴールを挙げて2-0の勝利、アトレティコは19年ぶりとなるリーグ優勝を果たす。
さらにチームはコパ・デル・レイ(国王杯)も4年ぶりに制し、シメオネはクラブ初となる2冠達成の立役者となった。96-97シーズンは初めてのチャンピオンズリーグに出場、7試合4得点の活躍でベスト8進出に貢献している。
これらの顕著なパフォーマンスにより、97-98シーズンはセリエAのビッククラブ、インテル・ミラノへ引き抜き。6年ぶりのイタリアでリベンジの機会を得た。
一方、シメオネを失ったアトレティコの成績は徐々に降下。クラブ経営の失敗もあり、99-00シーズンは2部リーグ陥落の憂き目を見ることになる。
96年7月、オーバーエージ枠に選ばれてアトランタ五輪に出場。クレスポ、C・ロペス、オルテガ、サネッティ、アヤラら若手のまとめ役となり、銀メダル獲得に貢献している。
このあと、アトランタ五輪組にバティストゥータやベロンを加えたチームでW杯南米予選を戦い、快調に1位突破。98年6月には2度目となるWカップ・フランス大会に出場し、シメオネはキャプテンを務めた。
G/L初戦で初出場の日本を1-0と退けると、第2戦はこれまた初出場のジャマイカをバティストゥータのハットトリックなどで5-0と粉砕。第3戦はシメオネら主力を休ませクロアチアに1-0の勝利。アルゼンチンは3連勝で決勝トーナメントに進出した。
トーナメントの1回戦はイングランドと対戦。開始5分、オルテガのクロスをバティストゥータが頭で落とし、それに反応したシメオネがGKシーマンに倒されPKを獲得。バティストゥータが決めてアルゼンチンが先制する。
シュートが難しいと悟るやシーマンの動きを読み切り、巧みにファールを誘ったシメオネの狡猾なプレーだった。
だがその4分後、スコールズのパスからゴールに迫るオーウェンをアヤラが倒しPKを献上。主将のシアラーに沈められて1-1となる。
さらにその5分後、ベッカムのパスを受けたオーウェンがDFを抜き去り鮮やかな勝ち越しゴール。だが前半のロスタイムにセットプレーからサネッティが同点ゴールを決め、試合を振り出しに戻す。
後半開始早々の47分、シメオネの後方からの激しいチャージに倒れたベッカムが、うつぶせのまま右足を振って報復。危険なタックルをしたシメオネにはイエローカードが出され、非紳士的行為のベッカムはレッドカードで一発退場となった。シメオネはのちに雑誌のインタビューで「彼が蹴ろうとしたので、わざと大袈裟に倒れた」と答えている。
数的優位となり猛攻を仕掛けるアルゼンチンだが、必死に守るイングランドを最後まで崩しきれず、PK戦を制してようやく決着。だが準々決勝でオランダに敗れ、大会ベスト8にとどまった。
このあと戦犯とされたベッカムが「愚か者」と英国メディアに批判されたのに対し、シメオネの老獪さは「汚いって? とんでもない、審判を騙すのも技術のうちだ」と母国で称賛。まさにこれが南米サッカーの美学。そして勝負のディティールに執着し、したたかに戦うのがシメオネの流儀なのだ。
97-98シーズン、シメオネはインテルでも攻守の要となってUEFAカップ(現EL)優勝に貢献。リーグ戦でもユベントスと優勝争いを繰り広げるが、あと一歩のところでスクデットを逃してしまった。
しかし翌98-99シーズンは、エースのロナウドが負傷で戦線離脱したこともあり、リーグ8位と低迷。毎年のように主力選手が入れ替わり、チームのまとまりを欠くインテルにあって、シメオネは不完全燃焼のシーズンを送る。
99-00シーズン、ラツィオからやってきたクリスチャン・ヴィエリと入れ替わるように、シメオネはラツィオへ移籍。だが同郷のMFアルメイダとのポジション争いに敗れ、途中出場の時期が続く。それでもシーズン終盤の4試合で貴重な得点を重ね、26シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。スーパーサブとして己の価値を証明した。
またコッパ・イタリアの決勝では古巣のインテルを相手に貴重な得点を挙げ、2季ぶりの優勝に大きく貢献。アトレティコ時代に続く主要タイトル2冠に輝いている。
アルメイダがパルマへ移籍した00-01シーズンは先発に復帰し、30試合出場と好調なシーズンを送った。しかし翌シーズン早々の9月に、右膝半月板と十字靱帯を損傷して戦線離脱。残りのリーグ戦を棒に振るという重傷だった。
自身3度目のW杯出場を目指すシメオネは長期のリハビリ生活に耐え、02年6月の大会直前に代表復帰。W杯メンバーとして来日する。
02年6月、Wカップ日韓大会が開幕。アトランタ銀メダル組が円熟期に入ったアルゼンチンは、南米予選を圧倒的強さで勝ち抜き、前回王者フランスと並ぶ優勝候補に挙げられていた。
G/L初戦はナイジェリアを1-0と下し、札幌ドームで行なわれた第2戦では因縁のイングランドと対戦。0-0で終えようとした前半の44分、Pエリアで仕掛けるオーウェンをDFボチェッティーノが引っ掛けてPK判定。4年前のリベンジに燃えるベッカムにゴール正面へ叩き込まれ、アルゼンチンが1点を追う展開となる。
後半は人数をかけてゴール前を固めるイングランド。アルゼンチンの反撃はことごとく跳ね返され、得点を奪えないまま0-1の敗戦。試合終了後ベッカムが歩み寄り握手を求めると、失意のシメオネは彼の頬を軽くたたいてそれに応対。この試合がシメオネの代表ラストゲームとなった。
最終節はシメオネやベロンらの主力を入れ替えて臨むも、スウェーデンと1-1の引き分け。アルゼンチンはグループ3位に沈み、優勝候補はあえなく予選敗退となる。代表を退いたシメオネは15年で108キャップ11ゴールの記録を残した。
03-04シーズンはアトレティコ・マドリードに復帰。ここで1年半を過ごしたあと、母国のアルゼンチンに戻り、少年時代の憧れであったラシン・クルブと契約。ラシンで最期の2シーズンをプレーし、06年2月に35歳で現役を引退する。
引退と同時にラシンの監督に就任、その後はアルゼンチンの各クラブで指導者の経験を積んだ。そして11年12月には成績不振で解任となったマンサーノ監督の後任として、アトレティコ・マドリードの指揮官に就任する。
シメオネ新監督は持ち前の情熱と求心力でチームを掌握。選手に守備の規律とハードワークを求めながら、チャレンジを恐れない自主性も尊重。プレーヤーの意欲を引き出した。
リアリズムに徹した堅守速攻戦術でアトレティコを立て直し、リーグ戦下位に低迷していたチームを最後は7位へ浮上させる。ヨーロッパリーグでは監督就任後に怒濤の9連勝、アトレティコを2季ぶりのEL優勝に導く。
12-13シーズンは、バルセロナ、レアル・マドリードに続くリーグ3位。コパ・デル・レイでは決勝へ勝ち進み、レアルを破って10度目の優勝。自身が選手として在籍した95-96シーズン以来の栄冠だった。
翌13-14シーズンは、ついに18シーズンぶり10度目のリーグ優勝を達成。チャンピオンズリーグではACミラン、バルセロナ、チェルシーといった強豪を次々と撃破し、40年ぶり2度目となる決勝へ進出。だがマドリードダービーとなった決勝でレアルに延長1-4と敗れ、準優勝に終わってしまう。
15-16シーズンは再びレアルにPK戦で敗れてCL初優勝を逃すも、17-18シーズンはEL優勝、20-21シーズンは7季ぶりにラ・リーガを制覇する。アトレティコを率いて11年目となる21-22シーズンは、クラブ最多勝利数を更新。当代きっての名将として活躍中である。
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