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《 サッカー人物伝 》 アレクサンドル・モストボイ

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「 皇帝アレクサンドル 」 アレクサンドル・モストボイ ( ソ連 / ロシア )

高い技術と創造性あふれるプレーで戦況を一変、広い視野による状況判断でチーム全体を指揮したプレーメーカー。変幻自在のドルブルを操り、抜群の突破力と局面打開のパスで観客を魅了したロシアの名選手が、アレクサンドル・モストボイ( Aleksandr Vladimirovich Mostovoi )だ。

ソビエト時代のスパルタク・モスクワで頭角を現し、連邦崩壊後に移籍したスペインのセルタ・デ・ビーゴで大ブレイク。同胞のヴァレリー・カルピンとともにクラブの隆盛期を築く。その天才的なひらめきと驚異のシュート技でカルト的人気を博し、「バライドスの皇帝」の愛称で親しまれた。

激動期にあってソ連、CIS(独立国家共同体)、ロシアと3つの代表チームを経験。だが初登場となった94年W杯では1試合の出場にとどまり、98年W杯は欧州予選敗退。大黒柱として期待された02年日韓W杯は怪我で全試合を欠場、ユーロ04では大会中にチームを追放されるなど、ロシア代表で活躍の機会に恵まれなかった。

名将との出会い

モストボイは1968年8月22日、旧ソ連邦レニングラード(現サンクトペテルブルク)のロモノソフ地区に生まれた。

兵役でレニングラードに従軍した父ウラジミールは、現地で知り合った美容師の母と結婚。アレクサンドルが3歳のとき除隊し、一家でモスクワ近郊のロブニャに移住。“サーシャ” の愛称で呼ばれた息子はここで少年時代を過ごした。

モスクワのクラブ、オスタンキーノでFWとしてプレーした父親のもと、サーシャは幼少期からサッカーに親しむ。また周りの子供の多くがそうであったように、アイスホッケーにも熱中した。

少年の才能は早い段階で知られ、ソ連の名門CSKAチェスカモスクワのスクールでトレーニングを積むも、トップチームの監督に認められることはなかった。実は生まれつき肝臓が弱く、テクニックはあっても体力面に不安を抱えていたのだ。

そのためサーシャはやむなく2部リーグのクラスナヤ・プレスニャと契約。ここでのちに名将と謳われるオレグ・ロマンツェフ監督に見いだされ、効果的な育成プログラムにより弱点を克服。たちまちそのパフォーマンスは改善された。

スパルタク・モスクワの若きリーダー

破壊的なドリブルで注目されるようになったモストボイは、87年にCSKAのライバルであるスパルタク・モスクワからオファーを受け18歳で契約。同年6月のFDCカイラット戦で途中出場を果たし、トップリーグデビュー。18試合で6ゴールを挙げ、新人でスパルタク7年ぶりのリーグ優勝を味わう。

2年目の88シーズンは、27試合3ゴールの成績でレギュラーに定着。翌89シーズン、ロマンツェフ監督がスパルタクの新指揮官に就任すると、愛弟子のモストボイをチームリーダーに指名。スパルタクは2季ぶりにリーグを制覇し、若きリーダーは重圧に苦しみながらも見事に役割を果した。

90シーズンは23試合9ゴール、91シーズンは27試合13ゴールと監督の期待に応える好成績。新加入の右MFカルピン、エースFWのシュマロフとともにチームの攻撃を牽引した。そして90-91シーズンのチャンピオンズカップでは、マラドーナ擁するナポリ、当時「ハゲワシ軍団」と呼ばれたレアル・マドリードを続けて打ち破る快挙。クラブ初の準決勝に進む。

準決勝ではパパンらスター選手を集めたオリンピック・マルセイユに2戦合計2-5と敗れるも、ひときわ輝きを見せたモストボイは西側クラブにその名を轟かせ、注目の的となった。

ソ連代表のキャリア

90年にはソ連のアンダー代表に選ばれ、ホーム&アウェー方式によるU-21欧州選手権に出場。グループを1位で突破したソ連は、準々決勝で西ドイツを2戦合計3-2と撃破。準決勝ではスウェーデンを相手に3-1の快勝を収め、決勝に進出する。

決勝では、ボバンシュケル、ボクシッチ、プロシネツキ、ヤルニら強力なタレントを揃えたユーゴスラビアと対戦。アウェーでの第1戦を4-2と制して優位に立つと、ホームの第2戦もモストボイのゴールなどで3-1の勝利。2戦合計7-3と強敵を圧倒し、5大会ぶり3度目の優勝を飾った。

U-21で優勝した2週間後の10月30日、ソ連のフル代表に初招集。ユーロ予選のイタリア戦で初キャップを刻み、1ヶ月後の親善試合グアテマラ戦で初ゴールを記録。このまま代表に定着しユーロ予選突破に貢献する。

91年12月にはソビエト連邦が崩壊、旧ソ連代表は15のナショナルチームに分解した。翌92年1月にはこのうちバルト三国(ラトビア、リトアニア、エストニア)を除く12ヶ国でCIS(独立国家共同体)代表が結成され、6月のユーロ92に出場する。だがモストボイはCISで2試合に出場したのみ、ユーロ92には参加していない。

西側クラブでの挑戦

連邦崩壊によりソビエトリーグも解体、移籍自由となった多くのトップ選手が西側クラブへ流れていった。もちろんモストボイもその一人で、91年12月にポルトガルの強豪ベンフィカ・リスボンと契約を結ぶ。

だがベンフィカには同ポジションに売り出し中のルイ・コスタがいたため、実力未知数のモストボイはリーグ戦で出番を与えられることなく、カップ戦要員の扱い。92-93シーズンのポルトガルカップでは3試合に出場して6季ぶり22度目の優勝に貢献するも、クラブの評価は低かった。

93-94シーズンの開幕直前、モストボイにディビジョン・アン(現リーグ・アン)のスタッド・マルヘルベ・カーンからオファーが舞い込む。カーンは1部と2部を行ったり来たりの、いわゆる「エレベーター」クラブ。チームの監督ジャンドゥピューがベンフィカでくすぶっているモストボイに目をつけ、弱小カーンを助ける選手と期待して獲得を申し込んできたのだ。

出番を求めてカーンへレンタル移籍したモストボイは、ここで中心的役割を与えられて輝きを取り戻す。そして常に降格圏であえいでいたチームを、リーグ中位へ押し上げる救世主となった。

翌94-95シーズン、ジャンドゥピュー監督がストラスブールに引き抜かれたのに伴い、モストボイも同クラブに完全移籍。ここでも中心選手として活躍し、クープ・ドゥ・フランス(フランス杯)準優勝、UEFAインタートトカップ(CL、UEFA杯の下位カテゴリーに位置づけられるクラブ選手権)優勝に貢献した。

(ちなみにインタートト杯はUEFA杯の予備選も兼ねており、出場権の得られるベスト4が出揃った時点で終了。よって複数の優勝チームが存在する。08年まで大会が行なわれた)

モストボイは一躍有望株と目され、イタリアのローマやラツィオといった有名クラブから関心を寄せられる中、最も好条件を提示してきたスペインのセルタ・デ・ビーゴと契約。こうしてリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)に活躍の場を移す。

ロシア代表と「14の手紙」騒動

ユーロ92終了後、ロシア代表が正式に発足。モストボイはこのあと始まったW杯予選の8試合中4試合に参加。新生ロシアのW杯初出場決定に貢献する。

しかし予選最中の93年11月、パベル・サディリン代表監督と西側クラブでプレーする選手たちの対立が表面化。時代遅れの厳格なソ連式トレーニングと、スポンサーボーナスの不明瞭な配分に、選手の不満が爆発したのだ。そしてついにはシャリモフ、モストボイ、カルピンら主力14名の署名文書が出され、サディリン監督の更迭を要求する騒動に発展した。

しかしその要求はロシア協会に一蹴され、批判を受けた選手たちが署名文を撤回するも、主犯格とされたシャリモフら7人はW杯メンバーから除外。ロシア代表は一体感を失ったまま大会本番に臨むことになった。これが「14の手紙」と呼ばれる騒動の概要である。

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。G/L初戦は、優勝候補のブラジルを相手になすすべもなく0-2の敗戦。続く第2戦はモストボイが先発初出場を果すものの、スウェーデンの強力な攻撃陣を前に1-3の完敗。自力突破の可能性は無くなった。

3位突破での望みを繋ぐ最終節の試合は、ロシアと同じく内紛を抱えるカメルーンを相手に6-1の大勝。主力の追放でチャンスを得たFWサレンコが5得点と1人気を吐いた。だが3位同士による勝上がりポイントに届かずロシアは敗退。試合ごとにメンバーが大幅に入れ替わるチームにあって、モストボイの出番は1試合にとどまった。

W杯後には恩師ロマンツェフが代表監督に就任。ようやくモストボイは代表の中心を担うようになり、ユーロ予選突破に貢献。だがユーロ96(イングランド開催)ではドイツ、チェコ、イタリアと同居する難しいグループに入ってしまい、ロシアは2敗1分けの最下位に沈んで大会を去った。

モストボイは3-3と引き分けたチェコ戦で1ゴールを記録。結局これが、2つのW杯と2つのユーロ大会を通じて彼の唯一の得点となった。

「バライドスの皇帝」

96-97シーズン、ベティス戦でリーガ・エスパニョーラデビューを果し2-0の勝利に貢献。だがのんびりした地方クラブのカラーに馴染めず、モストボイの奮闘も空回りしてチーム成績はリーグ16位と低迷した。

翌97-98シーズン、ロシア代表とスパルタク時代の同僚カルピンが新加入。頼りになる相棒を得たモストボイはその真価を発揮し、34試合8ゴールの活躍でチームを引っ張った。創造的なプレーでゲームを組み立て、得意のドリブル突破でチャンスを創出。レアル・マドリード戦やバルセロナ戦などのビッグゲームで鮮やかなゴールを決めてみせ、ファンの心をワシ掴みにした。

またチームリーダーとして、ミスを犯して下を向く仲間を叱咤激励。選手たちに勝利の意識を植えつけ、セルタをUEFAカップ出場権の得られるリーグ6位に押し上げる。

98-99シーズンは、マケレレを獲得して守備を強化。セルタはリーグ5位とさらに順位を上げ、モストボイはUEFAカップで7試合3ゴールを挙げてチームをベスト8に導く。99-00シーズンは7位と順位を落とすが、UEFAカップでは2季連続ベスト8と好調を維持。

00-01シーズンはキャリア最高の時期を迎え、30試合9ゴールの好成績。リーグ戦では6位にとどまったものの、コパ・デル・レイ(国王杯)ではクラブ初の決勝に進出。サラゴサに敗れて準優勝に終わるが、インタートトカップで優勝し、クラブ初となるヨーロッパタイトルを獲得した。

モストボイは「ピッチ上の指揮官」としてチームに君臨。その圧倒的存在感から「バライドス(セルタのホームスタジアム)の皇帝」と称され、サポーターからの絶大な信頼と人気を得た。

皇帝アレクサンドルの輝きはグスタボ・ロペス、リュボスラフ・ペネフ、マジーニョなどのタレントをチームに引き寄せ、隆盛期を築いたクラブはメディアから「ユーロセルタ」と呼ばれるようになる。

日韓W杯の失望

96年9月からはW杯予選に参加するが、明かな格下と思われたキプロス戦でモストボイが簡単なゴールを外して1-1の引き分け。これ以降、折り合いの悪かったイグナチェフ監督から代表へ呼ばれなくなり、ロシアはなんとかプレーオフ権を得るもイタリアに敗れて敗退。フランス大会への出場を逃してしまう。

98年W杯終了後に代表復帰を果すも、9月から始まったユーロ予選ではかつての同胞ウクライナにかわされまたも敗退。ユーロ2000の出場も叶わなかった。

このあとロマンツェフが再びロシア代表の監督に就任。モストボイは代表の中心選手に返り咲き、チームをリードしてW杯予選1位突破に貢献。02年Wカップ・日韓大会への出場権を得た。

ロシア代表の大黒柱として今度こそと期待されたモストボイだが、大会を直前に右太腿のハムストリングを負傷。W杯メンバーとして大会に参加するも、回復は進まず欠場を余儀なくされる。

G/L初戦はカルピンのPKなどでチュニジアに2-0の勝利を収めるが、第2戦は地元日本に0-1の敗戦。出場2度目の開催国へW杯初白星を献上してしまった。

第3戦はベルギーとシーソーゲームを演じ、粘りを見せる相手に根負けして2-3と敗北。ロシアは司令塔を欠いたことが響き、またも決勝トーナメントへ進めなかった。

皇帝の黄昏

02-03シーズンのセルタは過去最高順位となる4位を確保。クラブの悲願だったチャンピオンズリーグへの出場権を獲得する。そして翌03-04シーズンのCLでは、強敵アヤックスを下してベスト16に進出する大健闘を見せた。

しかし30半ばとなったモストボイの衰えは隠せず、司令塔のパフォーマンス低下に比例するようにチーム成績は低迷。03-04シーズンのセルタはリーグ19位に沈み、2部リーグ降格となる。そのため多くの主力選手がセルタを離れることになり、栄光の7シーズンを過ごしたモストボイもチームを退団する。

04年6月にはユーロ04(ポルトガル開催)に出場。G/L初戦でスペインに0-1と敗れたゲーム後の取材で、モストボイは「練習が長すぎて、試合で選手は疲れてしまう」と記者にコメント。この発言がヤルツェフ監督の怒りを買い、大会中にチーム追放となった。

騒動で士気の低下したロシアは、第2戦で地元ポルトガルに0-2と負けて早くも敗退が決定。これがモストボイ最後の代表活動となる。

ソ連代表では15試合3ゴール、CIS代表では2試合0ゴール、13年間のロシア代表歴では50試合10ゴールの記録を残す。だが代表ではついに皇帝の輝きを放てずに終わった。

引退後の多彩な活動

セルタ退団後、8ヶ月間所属クラブのなかったモストボイだが、05年3月にスペイン2部リーグのディポルティーボ・アラベスと契約。しかしヘルニアによる腰痛に苦しみ、アラベスでは1試合に出場して1ゴール(FKによるもの)を挙げたのみ。契約から30日後の05年4月、限界を感じたモストボイは36歳で現役引退を発表する。

引退後はビーチサッカーのロシア代表に転向。05年のビーチサッカー欧州杯では、ハットトリックを記録するなどロシアの銀メダル獲得に貢献した。

このあとレストランチェーンを経営するかたわら、テレビやラジオのコメンテーターとして活動。16年からはモスクワのアイスホッケークラブ「レジャヌイエ・ヴォルキ」に参加。チームメイトである ”フィギュアスケート界の皇帝” エフゲニー・プルシェンコとともに、氷上で華麗なプレーを披露している。

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