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《 サッカー人物伝 》 ジョン・ハークス

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「 キャプテン・アメリカ 」ジョン・ハークス(アメリカ)

活発な動きと幅広いプレーでディフェンスから攻撃までこなし、パワフルなミドルシュートで相手ゴールを脅かした中盤の要。テクニシャンとしても優れ、強烈なリーダーシップでチームを牽引。ヨーロッパでも実績を残し、90年代アメリカを代表する選手と言われたのが、ジョン・ハークス( John Andrew Harkes )だ。

バージニア大学在学中の87年にアメリカ代表へ選出されると、88年のソウルオリンピックに参加。W杯には90年イタリア大会、94年アメリカ大会に出場した。自国開催の94年大会ではチームの中心的存在となり、アメリカ初の決勝トーナメント進出に貢献。95年に代表監督となったスティーブ・サンプソンからは、「終身キャプテン」に指名された。

また欧州挑戦のパイオニアとしても活躍。90年に英国へ渡ると、プレミアリーグで初めてプレーしたアメリカ人選手となり、聖地ウェンブリー・スタジアムでもゴールを記録。リーグカップ決勝とFAカップ決勝の舞台に立つなど、先駆者として様々な実績を残した。

アメリカサッカー界のエリート

ジョン・ハークスは1967年3月8日、アメリカ東海岸ニュージャージー州のカーニーに生まれた。両親はスコットランドからの移民で、父ジェームズはスコティッシュリーグでプレーしていた元サッカー選手だった。

息子のジョンも小さい頃からサッカーに熱中し、ニューヨーク・コスモスのボールボーイを務めながら、将来のプロ選手を夢見る日々を過ごした。ニューヨーク・コスモスはNASL(北米サッカーリーグ)の人気チームで、70年代後半には晩年期のペレベッケンバウアーもプレーした有名クラブである。

移民が多く住むカーニーはサッカーが盛んな町として知られ、10代のハークスは地元クラブで本格的な競技を開始。進学したカーニー高校のチームでは、後に代表のチームメイトとなるトニー・メオラやダブ・ラモスとともにプレー。高いスキルを持つMFとして活躍した。

84年の高校選手権では、攻守にわたる活躍でチームをニュージャージー州チャンピオンに導き、高校年間最優秀選手に選出。プロ入りの夢に大きく近づく。

しかしカーニー高校を卒業した84年の秋、NASLが人気低迷により解散。目標としていたアメリカのプロリーグが消滅してしまったことから、ハークスは大学でサッカーを続けることにした。進学したバージニア大学では、学生スポーツの名将ブルース・アリーナ監督が率いる “バージニア・キャバリアーズ” で技量を磨く。

「サッカー不毛の地」と言われたアメリカだが、実は当時から若者の間では人気競技。大学スポーツ界ではバスケットボール、野球に続くクラブ数を誇っていた。

大学では学位取得に興味を示すことなく、サッカー漬けの毎日。バージニア・キャバリアーズはACC(大西洋岸大学リーグ)やNCAA(全米体育協会)主催の大会でタイトルを重ね、中心選手として貢献したハークスは、87年に大学スポーツの最高栄誉とされるMAC(ミズーリ・アスレチック・クラブ)の年間最優秀選手に選ばれている。

W杯イタリア大会の経験

大学在学中に注目されたハークスは、87年3月に20歳でアメリカ代表へ初選出。23日のカナダ戦で代表デビューを飾り、同年8月にはパンアメリカ競技大会のサッカー種目に出場。すぐに代表レギュラーの座を確保した。

88年にはオリンピック代表メンバーに選ばれ、9月から始まったソウル五輪に参加。アメリカはG/Lで強豪アルゼンチンや地元韓国と引き分けるなど健闘を見せるが、最終節のソ連戦で2-4と敗れてグループ敗退。ハークスは2試合に出場している。

89年3月からは、CONCACAFコンカカフ(北中米カリブ海連盟)選手権が開始。長期間のホーム&アウェー戦で行なわれたこの大会は90年W杯予選も兼ねており、上位2チームがイタリア大会への出場権を得る事になっていた。

アメリカは予選ラウンドを無事通過し、5チームで争う決勝ラウンドに進出。予選ラウンドでは強豪メキシコが失格となっており、9大会連続W杯出場を逃しているアメリカにも大きなチャンスが生まれていた。

メキシコはU-20の大会での年齢規定違反が発覚し、2年間の出場停止処分。この厳しすぎる処分の裏には、4年後のW杯開催が決まっていたアメリカを、イタリア大会に出場させたいというFIFAの思惑があったと言われている。

しかしアメリカはコスタリカに連敗するなど苦戦。それでも決勝ラウンド最終戦、2位を争う直接対決となった敵地のトリニダード・トバゴ戦で1-0と勝利し、40年ぶりのW杯出場を決めた。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。アメリカ代表は4年後の自国開催を見据え、ハークス、トニー・メオラ、ダブ・ラモス、エリック・ウィナルダ、マルセロ・バルボアなど、大学やセミプロでプレーする若手選手を中心にチームを構成した。

G/Lの初戦はチェコスロバキアに1-5の大敗。第2戦は地元イタリア相手に善戦するも、0-1と敗れる。最終節もオーストリアに1-2の敗戦を喫し、3戦全敗で大会を終えた。

ハークスは主力として3試合にフル出場。イタリア大会では惨敗を喫したものの、大舞台を経験した若手の多くは90年代アメリカ代表の中核を担うようになる。

欧州挑戦のパイオニア

大学を卒業した89年、ハークスはASL(東海岸のセミプロリーグ)に所属するアルバニー・キャピタルズに入団。ここで1シーズンを過ごしたあと、W杯でのプレーが海外クラブの目に止まり、90年夏にはイングランド・フットボールリーグのシェフールド・ウェンズディFCへの移籍を果す。

ウェンズディFCはトップリーグ優勝4回、FAカップ優勝3回を誇る古豪クラブだったが、前年18位と低迷して2部リーグ降格。ハークスはここでイングランドへの挑戦を始めることになった。

シーズン当初はリザーブ要員として待機の日々を過ごすも、レギュラーの怪我によりチャンスを得てトップチームデビュー。右SBという馴れないポジションをこなしながら23試合2ゴールの成績を残し、1部復帰に貢献する。

シーズンの中でも強いインパクトを残したのが、ダービー・カウンティ戦でのゴール。サイドチェンジにより右スペースでフリーとなったハークスは、30mあまりの距離からピッチを切り裂く弾丸シュート。元イングランド代表守護神、ピーター・シルトンを破って強烈なゴールを奪った場面は、サポーターの語りぐさとなった。

さらにこの年、ウェンズディFCはリーグカップの決勝に進出。決勝でマンチェスターユナイテッドを1-0と下し初優勝を果す。ハークスは栄えあるリーグカップ決勝の舞台に立った初のアメリカ人となった。

最初のトップリーグとなった91-92シーズンも29試合3ゴールと活躍し、UEFAカップ(現EL)出場権の得られるリーグ3位に貢献。翌シーズンにはアメリカ人として初めてUEFAカップに出場する。

プレミアリーグが創設された92-93シーズン、チームはリーグ7位にとどまるも、リーグカップとFAカップの両方で決勝に進出。どちらの決勝もアーセナルに敗れて準優勝に終わるが、ハークスはウェンブリー・スタジアムで行なわれたリーグカップ決勝でゴールを記録。ウェンブリー・スタジアムで得点を決めた2人目のアメリカ選手(1人目はセミプロ大会でのもの)となる。

こうして欧州クラブでプレーするアメリカ選手のパイオニアとして、様々な実績を挙げたハークスだが、ウェンズディFCとの3年契約が終了。翌93-94シーズンには、フットボールリーグ1部(プレミア下部リーグ)のダービー・カウンティへ移籍した。

異能の名将、ボラ・ミルティノビッチ

地元開催W杯でのG/L突破を目標とするアメリカ代表は、91年にボラ・ミルティノビッチ監督を招聘。ミルティノビッチ監督は86年W杯でメキシコをベスト8に、90年W杯ではコスタリカをベスト16に導くという実績を持ち、アウトサイダーと呼ばれるチームで手腕を発揮する異能の名将として知られていた。

ミルティノビッチは基本練習の反復と徹底した走り込みで選手を鍛え、W杯のシビアな戦いに備えるメンタルを植え付けた。また本番までの3年間で国内外問わず89もの強化マッチを重ね、若手選手たちに国際試合の経験を積ませていく。

92年に行なわれたUSカップでは、アイルランドとポルトガルを破り、さらに強豪イタリアとの試合はハークスのゴールで1-1の引き分け。3試合で2ゴールを挙げてアメリカを優勝に導いたハークスが大会MVPに選ばれた。

翌93年のUSカップではブラジルに0-2と敗れるも、イングランドには2-0の勝利。90年W杯王者のドイツとも接戦を演じ、3-4の惜敗。2大会連続優勝を逃すものの、強豪相手の好ゲーム連発に選手たちは自信を深めていった。

自国開催W杯の盛り上がり

94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。ドームスタジアムで行なわれたG/L初戦は、スイスに先制されるもFWウィナルダのFKで追いついて1-1の引き分け。まずまずのスタートを切った。

続く第2戦は、バルデラマリンコンアスプリージャらの強力攻撃陣を擁し、優勝候補の一角とも囁かれたコロンビアとの対戦。守備を固めながら好機を窺うアメリカは、前半の35分にハークスがカウンターからゴール前にクロス。DFエスコバルによる懸命のブロックがオウンゴールとなり、劣勢と思えたアメリカが先制点を得た。

後半の52分にもカウンターから2点目を奪い、このあとコロンビアの反撃を1点に抑えて2-1の勝利。アメリカがW杯で勝利したのは、50年ブラジル大会で「史上最大の番狂わせ」と呼ばれたイングランド戦以来、実に44年ぶりのことだった。

だがこの歴史的勝利の一方、試合の5日後にはコロンビアに戻ったエスコバルがチンピラに射殺されるという痛ましい事件が起きてしまう。

第3戦はゲオルゲ・ハジ擁するルーマニアに0-1と惜敗して2位以内を逃すが、各組3位同士の勝点で上位に入り、アメリカが初の決勝トーナメント進出。大健闘で開催国の役目を果した。

だがルーマニア戦で累積警告となったハークスは、次戦を出場停止。アメリカの独立記念日である7月4日に行なわれたトーナメント1回戦は、優勝候補のブラジルに善戦するも0-1の敗戦。米国代表のW杯は終わった。

それでも「ポニーテールの守護神」トニー・メオラや、ミュージシャンとしても知られた「赤髪のDF」アレクシー・ララスが人気を集めるなど、大会は国内で大きな盛り上がりを見せ、このことが2年後のMLS(メジャーリーグサッカー)発足に繋がることになる。

米プロリーグ再興

ダービー・カウンティで2シーズンをプレーしたあと、95年の夏にはプレミアリーグのウエストハム・ユナイテッドに移籍。そして96年にMLSが発足すると、6年を過ごしたイングランドを離れてアメリカに戻り、首都ワシントンを本拠地とするD.C.ユナイテッドに配された。(戦力均衡のため選手配分はリーグが主導)チームの監督はバージニア大学時代の恩師、ブルース・アリーナである。

D.C.ユナイテッドではキャプテンを務め、新リーグ創設1年目のMSLカップ優勝とUSオープンカップ優勝の2冠獲得に貢献。翌97年は怪我により2ヶ月の戦線離脱を余儀なくされるが、MLSカップ・プレーオフの5試合で3アシストを記録し、2年連続優勝に大きな役割を果した。

98年はMLS準優勝に終わるも、CONCACAFチャンピオンズカップでは、D.C.ユナイテッドをアメリカのクラブとして初となる北中米カリブ海王者に導く。ハークスはアメリカを代表する選手として、MLSでの輝けるキャリアを築いていった。

「キャプテン・フォー・ライフ」

95年7月には、招待参加となったコパ・アメリカ(ウルグアイ開催)に出場。アメリカの監督は94年W杯でアシスタントコーチだったスティーブ・サンプソンが務めた。そしてアメリカンフットボールに転向したメオラに替わり、ハークスがキャプテンマークを巻く。

G/L初戦はウィナルダの2ゴールでチリに2-1の勝利。第2戦はボリビアに0-1と敗れるが、最終節の試合で強豪アルゼンチンを相手に3-0と驚きの大金星。アメリカは予想外のグループ1位でベスト8に進んだ。

同じ招待参加のメキシコと戦った準々決勝は、延長120分を終えて0-0の大接戦。4-1とPK戦を制したアメリカが準決勝へ勝ち上がる。

だが準決勝では、またもやブラジルの軍門に降り0-1の敗戦。3位決定戦ではコロンビアに1-4とW杯の雪辱を許してしまい、大会ベスト4。それでもキャプテンとしてアメリカの快進撃を支えたハークスは、優勝したウルグアイのエンツォ・フランチェスコリとともにMVPに輝いた。

96年9月から始まったW杯予選もチームの大黒柱として活躍。アメリカを3大会連続W杯出場に導いたハークスは、サンプソン監督からの絶大な信頼を得て「キャプテン・フォー・ライフ(終身キャプテン)」と名付けられる。この言葉は、のちに出版された自伝『Captain for Life: And Other Temporary Assignments』のタイトルに引用された。

しかしW杯本番を2ヶ月後に控え、サンプソン監督は突然ハークスの代表メンバー落選を発表。その理由は「一部主力の信頼を欠いた」「若手選手を威圧し彼らの成長を妨げた」というものだった。後に明かにされたところによれば、ハークスがFWウィナルダの妻と不倫。そのことでチーム内に深刻な対立が生じ、選手の士気が大きく低下したことがハークス外しの真相だとされている。

大黒柱を失ったアメリカ代表は、98年W杯フランス大会で3戦全敗と屈辱の結果。もっとも90年代の代表を支えた主力たちが高齢化しており、世代交代の時期だったのだ。

キャプテンの引退

98年のシーズン終了後、ノッティンガム・フォレストのトライアルを受けてプレミアリーグ復帰。しかしノッティンガムでは3試合プレーしただけで、レンタル元のD.C.ユナイテッドよりマサチューセッツ州のニューイングランド・レボリューションへトレード。ここで3シーズンを過ごし、01年にはオハイオ州のコロンバス・クルーにトレードされる。

99年、ブルース・アリーナが代表の新監督に就任。ハークスは恩師の要請を受け、アメリカ代表に復帰する。そして7月にメキシコで開催されたコンフェデレーションズカップに出場、大会3位に貢献した。翌2000年、90キャップ目を刻んだ試合を最後に代表から引退。代表歴14年間で6ゴールを記録している。

コロンバス・クルーでは怪我に苦しむも、02年のUSオープンカップ優勝に貢献。これを置き土産に、03年の始めに35歳で現役引退を発表する。引退後はクラブスタッフやアシスタントコーチを務めるほか、テレビ解説者として活動中である。

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