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《 サッカー人物伝 》 イバン・デ・ラ・ペーニャ

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「 リトルブッダの布教 」 イバン・デ・ラ・ペーニャ ( スペイン )

右左どちらの足からも針の穴を通すような完璧なパスを繰り出し、一瞬で相手の急所を突いた稀代の名パサー。「走らない、守らない選手」と批判されながらも、常にギリギリのコースを狙う攻撃スタイルを貫いた。小柄でスキンヘッドの東洋的風貌から「リトルブッダ」と呼ばれ親しまれたのが、イバン・デ・ラ・ペーニャ( Iván de la Peña López )だ。

早くからその才能を知られ、バルセロナのカンテラを経てヨハン・クライフ監督のもとトップチームデビュー。96-97シーズンは「怪物フェノメナロナウドとのコンビで、コパ・デル・レイ(国王杯)、UEFAカップウィナーズ・カップのタイトル獲得に貢献する。そのあと低迷の時期を過ごすも、02年に移籍したRCDエスパニョールで輝きを取り戻した。

アンダー世代代表では、96年のU-21欧州選手権準優勝に貢献。アトランタ五輪にも出場した。しかし攻撃に特化したスタイルがフル代表では受け入れられず、初キャップを刻んだのは29歳のとき。結局大きな国際舞台で彼のプレーを見ることはなかった。

早熟の天才パサー

デ・ラ・ペーニャは1976年5月6日、スペイン北部の港湾都市サンタンデールに、レストラン経営者の息子として生まれた。大のサッカーファンだった父アウグスティンの影響を受けて5歳でフットサルを始め、10歳で地元名門クラブ、ラシン・サンタンデールに入団して本格的な競技を開始。ここで早くも天才児としての輝きを放ち始める。

88年にサンタンデールの新ホームとなる市営スタジアムが開場。開場式のエキシビションマッチとしてジュニアチームの試合が行なわれ、当時12歳のデ・ラ・ペーニャも参加。このときゲスト招待されていたのがスペイン代表の右ウィングで、レアル・マドリード「ラ・キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)」の中心メンバーだったミシェルである。

ミシェルはデ・ラ・ペーニャの子供らしからぬ足さばきを目撃して驚嘆。さっそく所属するクラブの関係者にその凄さを伝えたという。天才少年の名はたちまちスペイン全土に知れ渡り、レアル・マドリード、アトレティコ・マドリード、FCバルセロナと、3大クラブの間で争奪戦が繰り広げられることになった。

この3大クラブの中から、デ・ラ・ペーニャと彼の家族はバルセロナを選択。カタルーニャ出身の父がバルサファンであったことと、“ラ・マシナ” と呼ばれる優れたカンテラ(育成組織)を持っていたことが決め手となったのである。

14歳となった91年7月にバルセロナと契約。優秀なタレントが揃ったバルサユースは、92-93シーズンのディビシオン・デ・オノール(ユースリーグ)とコパ・デル・レイ・フベニール(ユース国王杯)の2冠を達成。デ・ラ・ペーニャら “ラ・マシナ” 出身者で構成されたユースチームは「キンタ・デル・ミニ(ミニ部隊)」と呼ばれた。

94-95シーズンはバルサBに昇格すると、31試合に先発出場して4ゴールを記録。デ・ラ・ペーニャはその創造性あふれたプレーと卓越した技術で「マラドーナの再来」とまで言われるようになり、多くのファンから注目された。さらにストイチコフからは「俺の後継者」と指名され、クライフ「ドリームチーム」の勢いに翳りが見えてきたバルサ希望の星となる。

若手には珍しくスキンヘッドに剃り上げた風貌と、171㎝71㎏の小柄で東洋的な雰囲気から「リトルブッダ」の愛称で呼ばれるようになったデ・ラ・ペーニャ。名付け親はバルサのキャプテン、ホセ・マリア・バゲーロだった。

バルセロナの「リトルブッダ」

95-96シーズンの開幕戦となるバリャドリッド戦で、19歳にしてトップチームデビュー。途中交代から得点を挙げて2-0の勝利に貢献、リーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)デビュー戦を飾った。

デビューシーズンは31試合8ゴールと活躍し、ベスト・ヤング・プレーヤー賞を獲得。しかしクライフ監督の信用を得られず、レギュラーに定着できなかった。天性の攻撃的なプレースタイルは魅惑的であるものの、チームのバランスを崩しやすく、決して扱いやすい選手とは言えなかったのだ。

それはシーズン終盤にクライフが解任され、イギリス人のボビー・ロブソンが新監督となっても扱いが変わることはなかった。

だが96-97シーズンにブラジルのロナウドがバルサに加入すると、「怪物フェノメナ」が一撃必殺のパスを持つデ・ラ・ペーニャを相棒にとロブソン監督に要求。デ・ラ・ペーニャは攻撃的MFのレギュラーに固定され、リーグ戦33試合に出場する。

そして「リトルブッダ」の操る芸術的なスルーパスで、ロナウドのゴール量産(公式戦42試合42得点)をアシスト。リーグ優勝は逃したものの、スーペルコパ・デ・エスパーニャ(スペイン・スーパーカップ)、コパ・デル・レイ、UEFAカップウィナーズ・カップのタイトル獲得に貢献し、2年連続のベスト・ヤング・プレーヤー賞に選ばれる。

しかしロナウドは1シーズンでインテル・ミラノへ移籍。指揮官もオランダ人のルイス・ファン ハールに替わり、戦術の規律を重んじる新監督によってベンチ要員に追いやられてしまう。

97-98シーズンは、怪我で2ヶ月間チームを離れたこともあり17試合3ゴールと活躍の機会が激減。ファン ハール監督の構想外となったデ・ラ・ペーニャは、翌98-99シーズンにイタリアのラツィオへ放出された。

守れない選手

バルセロナと契約した91年にはU-16スペイン代表にも選出。そのあとすべての年代代表に選ばれ、96年5月には自国開催のU-21欧州選手権に出場。チームを率いるのは、A代表の指揮官でもあるハビエル・クレメンテ監督である。

デ・ラ・ペーニャ、ラウル・ゴンザレス、フェルナンド・モリエンテスで攻撃陣を構成するスペインは、順調に準決勝へ進出。準決勝ではデ・ラ・ペーニャの決勝点でスコットランドを2-1と下し、ファイナルへ進む。

決勝ではトッティ、ヴィエリ、トンマージ、パヌッチ、ネスタ、カンナバーロ、ブッフォンと、のちにアズーリの中心メンバーとなる選手を揃えたイタリアと対戦。試合は前半の11分にオウンゴールでリードを許すも、42分にラウルのゴールで同点。このあとイタリアの2選手退場で優勢となるスペインだが、守りを固める相手に攻め手を欠き、延長を戦って1-1で終了。勝負はPK戦に持ち込まれた。

PK戦は1人目に登場したデ・ラ・ペーニャと4人目のラウルが失敗、イタリアが勝負を決した。スペインは圧倒的優位に立ちながら、相手の粘りに屈して優勝を逃してしまった。

同年7月にはアトランタオリンピックに出場。この大会でもクレメンテが監督を務めた。スペインはG/Lをフランスに続く2位で勝ち上がり、準々決勝でアルゼンチンと対戦した。しかしクレスポ、C・ロペス、オルテガシメオネ、サネッティと強力なタレントを揃えた相手に歯が立たず、0-4と完敗。デ・ラ・ペーニャの出番は次第に少なくなり、見せ場のないまま五輪を終えた。

このあと始まったW杯欧州予選でラウルがA代表デビューを飾るが、同じく注目されたデ・ラ・ペーニャがその舞台に呼ばれることはなかった。クレメンテ監督は「守れない者は使わない」と宣言。攻撃の美学を貫く男は必要とされなかったのだ。

低迷の時期

新天地イタリアでの活躍が期待されたデ・ラ・ペーニャだが、与えられたのはボランチのポジション。守備重視のセリエAで持ち味を発揮できないまま、開幕2ヶ月で負傷によりチームを離れると、その後はレギュラーの座を外されてしまう。

98-99シーズンのカップウィナーズ・カップでは、1ゴールを挙げてクラブ初となる優勝に貢献するも、公式戦18試合出場と期待外れの成績に終わったデ・ラ・ペーニャは、1年で戦力外通告。オリンピック・マルセイユへのレンタル移籍を受け入れるしかなかった。

しかしマルセイユでもチームの戦術に適応できず、度重なる怪我に苦しんだこともありスランプは続いた。ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)ではほとんど活躍することなく、チーム成績も15位と低迷。わずか1年でお払い箱となってしまった。

00-01シーズン、ファン ハールのいなくなった古巣バルセロナへ、フィーゴの抜けた穴を埋める人材としてレンタルで呼び戻される。4年前の活躍を知るサポーターからは大歓迎を受けるも、00年9月のCLグループステージ第2戦、格下のベシクタシュ(トルコ)を相手に0-3で敗れるという大失態。

バルサはこの負けが響いてグループステージ敗退。プレーに精彩を欠いたデ・ラ・ペーニャは、敗戦の責任を負わされ以降はベンチ要員に降格。長引く故障も影響してリーグ戦出場は9試合のみ、トレーニング不足が招いた結果だった。

また01年1月には誘拐未遂事件に遭うなど、2度目のバルセロナは散々なものに終わる。こうしてデ・ラ・ペーニャは失意のままチームを去って行った。

01-02シーズンはレンタル元のラツィオへ復帰。やはりここでも彼の居場所はなく、出場したのはリーグ戦1試合とカップ戦1試合のみ(計44分)と、あからさまな飼い殺し状態。シーズン後半はチームから離脱し、自らクラブとの契約を解消。かつての天才児の命運は尽きたかに思えた。

エスパニョールでの復活

新しいオファーを待って一人トレーニングを積んでいた02年の夏、ファンデ・ラモス監督の熱心な誘いを受けRCDエスパニョールと1年契約。同じ都市に本拠地を持つバルセロナとはライバル関係のクラブだった。

エスパニョールでのデビューとなったのは、カンプノウで行なわれたバルセロナ戦。ライバルチームを率いるのは監督復帰したファン ハールである。試合は0-2と敗れてしまったが、古巣に姿を見せたデ・ラ・ペーニャは観客から万雷の拍手を受けた。

シーズン途中には成績低迷でラモス監督が解任となり、12月に後任としてクレメンテ監督が新指揮官に就任。クレメンテ監督のフル代表に呼ばれなかったデ・ラ・ペーニャだが、今度は信頼関係を築いて復活の兆しを見せる。ロジャー、ベラマザン、オスカルといった「キンタ・デル・ミニ」時代の仲間がいたことも助けとなった。

シーズン後の契約更新で揉め、チームを離れたデ・ラ・ペーニャは他クラブとの交渉を図るも、成績不振に陥ったエスパニョールの呼びかけに応じて、新シーズン開幕4ヶ月後に再契約。かつてのパフォーマンスを取り戻すと、エースFWラウル・タムードとホットラインを組み、1ゴール12アシスト(アシスト王)の活躍で1部残留に貢献する。

翌シーズンにはミゲル・アンヘル・ロティーナ(のちJリーグ監督を歴任)が新指揮官に就任。守備重視のロティーナ監督は、中盤でボールを失うことの多いデ・ラ・ペーニャに苦言を呈すも、「リトルブッダ」は戦況を打開するラストパスで反論。それでも監督との話し合いを重ねるうち、少しずつ守備の欠点を改善していった。

ここ数年、残留争いの常連となっていたエスパニョールだが、04-05シーズンは打って変わってリーグ上位を快走。MFとしてレベルアップしたデ・ラ・ペーニャが中心となり、好調なチームを牽引。エスパニョールをUEFAカップ(現EL)出場権の得られるリーグ5位に導く。

リトルブッダの布教活動

エスパニョールでの活躍により、05年にフル代表へ初招集。2月9日のサンマリノ戦で初キャップを刻んだ。デ・ラ・ペーニャはこのとき28歳と9ヶ月、天才と呼ばれた男の遅すぎるデビューだった。

「シャビに俺のようなパスは出せない」とうそぶくデ・ラ・ペーニャだが、その頑固さが災いし、出場したのは中国、セルビア、カナダ、サンマリノといずれも格下相手の親善試合のみ。ビッグマッチでの活躍の場はなく、彼の代表歴は7ヶ月間5試合0得点という寂しいものに終わった。

05-06シーズンは、ロティーナ監督との対立再燃、ラウル・タムードの故障離脱などがあり、リーグ成績は15位と再び低迷。しかしコパ・デル・レイでは驚きの快進撃。あれよあれよと勝ち進み、決勝でサラゴサを4-1と下して6シーズンぶりの優勝。エスパニョールはこれで2季連続のUEFAカップ出場権を得た。

06-07シーズンは、19季ぶりとなるUEFAカップの決勝へ進出。決勝のセビージャ戦では、数的劣勢となりながら2度も追いつき、延長120分の激闘(2-2)を演じた。PK戦で敗れて初優勝はならなかったが、チームの快進撃を支えたデ・ラ・ペーニャはエスパニョールの象徴となっていった。

だが07-08シーズン以降は度重なる怪我に苦しむようになり、活躍の機会は減少。08-09シーズン、不振にあえぐチームは前半戦を折り返して降格圏に低迷。クラブはOBのポチェッティーノを新監督に迎え、09年2月にバルサとのダービー戦へ臨んだ。

このとき首位を快走するバルサに対し、不振のエスパニョールはリーグ最下位。カンプノウで行なわれるダービーは戦わずとも結果は明白かに思えた。

その予想通り、試合開始からグアルディオラ監督率いるバルサ優勢の展開。だが前半の30分、バルサMFのケイタがラフプレーでレッドカード。ここから流れが変わり、後半の49分にはネネの折り返しからデ・ラ・ペーニャのヘッドによる先制点が生まれる。

さらに53分、相手のミスを突いたデ・ラ・ペーニャが2点目。「リトルブッダ」は人差し指を口元に当てるポーズでカンプノウを沈黙させた。このあとバルサの反撃をヤヤ・トゥーレの1点に抑えたエスパニョールが、2-1の歴史的勝利。カンプノウでの白星は、実に27年ぶりという快挙だった。

これで勢いづいたエスパニョールは、残り9試合を7勝1分け1敗と驚異の快進撃。最終的に順位を10位までに浮上させ、奇跡の1部残留を成し遂げた。

故障に苦しんだキャリア晩年

09-10シーズンはセルティックから中村俊輔が加入、二人のファンタジスタはすぐに意気投合したという。しかし故障の深刻化によりデ・ラ・ペーニャの出場はわずか4試合。またポチェッティーノ監督の構想から外れた中村もベンチを温める日が続き、13試合に出場しただけでチームを退団。東西ファンタジスタ共演は実現しなかった。

翌10-11シーズン、リーグ開幕のビジャレアル戦に出場するも、コンディション不良により前半20分で交代。このあと全試合を欠場し、11年5月の引退試合となったセビージャ戦(終盤10分間のみプレー)を最後に35歳で現役を退く。

9シーズンを過ごしたエスパニョールでは公式戦210試合に出場、9ゴールを記録した。

引退直後の11年6月には、ASローマの監督ルイス・エンリケの要請を受けてコーチングスタッフに就任。だが2ヶ月後には家庭の事情を理由に休職。現在は代理人としてサッカー界に関わっている。

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