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サッカー元西ドイツ代表主将、ウーベ・ゼーラー死去

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西ドイツ代表のキャプテンを務めたレジェンド

50年代から60年代にかけてハンブルガーSVで活躍し、西ドイツ代表としても4度のW杯に出場した名FWのウーベ・ゼーラーさんが、21日にハンブルグ近郊の自宅で亡くなったことがドイツサッカー連盟(DFB)などから発表された。享年85歳だった。

引退直後の72年には、ドイツサッカーへの貢献によりDFBから代表の名誉キャプテンへ任命。18年のキャリアのすべてをハンブルガーSVひとすじで過ごし、引退後も「Uns Uwe(我らのウーべ)」と呼ばれハンブルグ市民に親しまれた。03年にはクラブの象徴としてハンブルグの名誉市民になっている。

DFB会長は「「フリッツ・バルター以来2人目となるドイツ代表の名誉キャプテンで、真のロールモデルだった。彼のゴールの多くは忘れがたいもの」と、故人をしのぶ声明を出した。

その素晴らしいキャリアに加え、公正で謙虚な人格者として知られたゼーラーさん。昨年11月5日の誕生日には、かつて代表の同僚だったベッケンバウアーさんから「この世に完璧な人間がいるとしたら、ローマ法王に続く該当者はウーベだろう」と賛辞を贈られるほどだった。

ハンブルガーSVひとすじのクラブキャリア

ウーベ・ゼーラーさんは1936年生まれのハンブルグ出身。父のアーヴィン・ゼーラーと兄のディータ・ゼーラーもハンブルガーSVでプレーしたという生粋のサッカーファミリーで、孫のレヴィン・エズトゥナリも現在1.FCウニオン・ベルリンに所属している。

ハンブルガーSVユースを経て、18歳でトップチーム昇格。54年のDFBポカール(ドイツ杯)、ホルシュタイン・キール戦で4ゴールを決めて鮮烈なプロデビューを飾ると、1ヶ月後のオーバーリーガー(ブンデスリーガの前身)デビュー戦、VfDオルデンブルグとの試合でも得点を記録した。

170㎝75㎏の体で「デア・ディッケ(ふとっちょ)」のあだ名を付けられるが、その体格に似合わず高いジャンプからのヘディングを得意とし、多くの得点を頭で決めた。

ハンブルガーSVではドイツ選手権優勝1回とDFBポカール優勝2回に貢献。ブンデスリーガが創設された63-64シーズンは30得点を挙げて新リーグ初代得点王に輝く。61年にはセリエAのインテル・ミラノから高額オファーを受けるが、後援者だったアドルフ・ダスラー(アディダスの創業者)の説得によりハンブルグに留まっている。

ハンブルガーSVの18年ではリーグ戦476試合に出場、404ゴールを挙げた。出場数は現在でもドイツ歴代1位で、得点はゲルト・ミュラーに続く記録。ドイツ年間最優秀選手賞を3度受賞している。

4度のワールドカップ出場

54年10月のフランス戦で17歳にしてフル代表デビュー。58年W杯スウェーデン大会のメンバーにも選ばれ、5試合に出場して2得点を記録。大会ベスト4に貢献する。

62年W杯チリ大会は4試合2得点でベスト8。キャプテンを務めた66年W杯イングランド大会では、6試合すべてに出場して2得点。西ドイツは3大会ぶりの決勝へ進むが、地元イングランドに延長戦で敗れて優勝を逃した。

最後のW杯となった70年メキシコ大会では、6試合3得点でベスト3に貢献。準々決勝イングランド戦での、劣勢を跳ね返すバックヘッドからの同点弾は、西ドイツ代表の歴史に名を刻むものだった。

W杯通算では21試合で9得点を記録。当時西ドイツ代表のW杯最多出場記録(のちにローター・マテウスが更新)だった。また出場した4大会すべてで複数得点を挙げたのは、02年~14年のドイツ代表ミロスラフ・クローゼとの2人だけである。

17年の代表歴で72試合43ゴールを記録。何度も大きなケガを負いながら不屈の精神力で立ち直り、旺盛なファイティング・スピリットと優れた得点感覚で西ドイツの攻撃を支えた。

西ドイツサポータからは「ドイツ魂の権化」「西ドイツの太陽」などと呼ばれ愛され、代表戦では「ウーベ、ウーベ」と名前が連呼されるほど、チームの象徴的存在となる。

95年にはハンブルガーSVの会長に就任するも、98年に財政的スキャンダルの責任を取って辞職。ゼーラーさん自身はそのスキャンダルに関わっていなかったという。そのあと数々の名誉職を歴任、レジェンドとしての余生を送っていた。

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