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《 サッカー人物伝 》 ゴードン・バンクス

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「 鉄壁のイングランド銀行 」ゴードン・バンクス( イングランド )

優れたポジショニングセンスを持ち、完璧な対応でゴール前に厚い壁を築いたイングランド不動の守護神。フィジカル、運動能力、敏捷性、冷静な判断力とGKに必要な資質をすべて備え、その鉄壁の防御力から「バンク・オブ・イングランド(イングランド銀行)」と呼ばれたのが、ゴードン・バンクス( Gordon Banks )だ。

自国開催となった66年W杯では、全6試合でゴールを守って「サッカーの母国」イングランドの初優勝に貢献。70年W杯メキシコ大会では、“神様” ペレが放った至近距離のヘディングシュートを「世紀のセーブ」と言われる驚異の反応で阻止。レフ・ヤシンと並ぶ世界最高のゴールキーパーと謳われた。

イングランドのフットボールリーグでは、レスター・シティーとストーク・シティーで活躍。71-72シーズンのリーグカップには、チームの守備を支えてストークの初タイトル獲得に大きく貢献。この年のイングランド年間最優秀選手賞に輝く。しかし72年の交通事故で右目を失明し、引退を余儀なくされてしまう。

苦労続きの少年時代

バンクスは1937年12月30日、イングランド中部の工業都市シェフィールドに、4人兄弟の末っ子として生まれた。労働者階級の住むティンズリー地区で幼少期を過ごし、11歳のときシェフィールド近郊のキャットクリフ村に引っ越した。

家庭の事情により15歳で学校を辞め、石炭商に就職。その仕事内容は、石炭の詰まった袋をトラックに積み並べるという重労働。バンクスの強靱な肉体はこのとき作られたと言われている。

シェフィールドのスクールズでサッカーを始め、退学後はミルスポー炭鉱のアマチュアクラブに所属。ミルスポーで試合に出られずベンチでくすぶっていたバンクスを、スクールズ時代のコーチが勧誘。ヨークシャー・リーグ(1982年まで存続)に所属するローマーシュ・ウェルフェアでプレーすることになる。

しかしローマーシュでのデビュー戦で2-12の大敗。続くホームの試合でも1-3と敗れ、ツキのない青年キーパーはわずか2試合でお払い箱。ミルスポーに戻った16歳のバンクスは、見習いのレンガ職人として働きながら次のチャンスを待つことになった。

そのミルスポーでのプレーがチェスターフィールドFCのスカウトに認められ、53年3月にはユースチームのトライアルを受けて1シーズンのパートタイム契約を結ぶ。

こうしてセントラルリーグ(リザーブリーグ)でプレーすることになったバンクスだが、チェスターフィールドはリーグ最弱チーム。54-55シーズンはバンクスと守備陣が122失点を喫し、わずか3勝しかあげられず最下位となってしまった。

18歳になると英国陸軍のロイヤルシグナルス(通信インフラ部隊)で兵役に就き、西ドイツのランゲレーベンへ赴任。連隊チームでラインライトカップ(ドイツの地域大会)優勝に貢献し、評価を上げたバンクスは、除隊した56年にチェスターフィールドと正式契約を結ぶ。

レスター・シティーでの成長

56年4月にはFAユースカップに出場。バンクスがゴールを守るチェスタフィールド・ユースは、快進撃を見せて決勝へ進出。しかし決勝ではボビー・チャールトン擁するマンチェスター・ユナイテッド・ユースに3-4と敗れ、優勝はならなかった。

58年11月、コルチェスター・ユナイテッドとの3部リーグの試合でトップチームデビュー。怪我で3試合欠場するも、残り23試合を正GKとしてゴールを守り続けた。

その活躍により、59-60シーズンにはフットボールリーグ(1部リーグ)のレスター・シティーへ移籍。シーズン当初はリザーブチームでのプレーとなったが、すぐにトップチーム昇格。しばらくレスターの守護神ディブ・マクラーレンの控えに甘んじるも、彼の怪我によりチャンスを得て第1キーパーの座を奪い取った。

当時キーパー専任コーチを置いているクラブは少なく、バンクスは自分一人で研究と研鑽を重ねて、弱点克服のトレーニングに幅広く取り組んだ。また積極的にDFへの声かけを行ない、守備陣との連携を強化。その結果、彼のパフォーマンスは週ごとに向上。32試合に出場してレスター正GKの地位を確立する。

60-61シーズン、レスターはバンクスの堅守に支えられてFAカップの決勝へ進出。だが決勝では当時最強のトッテナム・ホットスパーに0-2と敗れて準優勝。スパーズはリーグ優勝とFAカップ優勝の2冠を達成した初めてのチームとなった。

62-63シーズン、開幕から好調なレスターは、リーグ戦18試合連続負けなしと優勝戦線を快走。FAカップでも2季ぶりの決勝へ進出し、2冠獲得へ大きなチャンスを得た。

FAカップの準決勝では強豪リバプールに34本ものシュートを浴びながら、バンクスが最高のパフォーマンスを発揮してゴールを死守。1-0と勝利して決勝に進む。しかし決勝では、B・チャールトン、デニス・ロー擁するマンチェスター・ユナイテッドに1-3と敗れて準優勝に終わる。

さらにリーグ戦では、シーズン終盤にバンクスが指を骨折。怪我人が続出したレスターは最後の9試合で1勝しか挙げられず急失速、最終的に4位へ沈んだ。

63-64シーズンのリーグ戦は11位と苦しむが、EFLカップ(リーグカップ)の決勝に進出。決勝ではストーク・シティーを2戦合計4-3と破り、レスターがリーグカップ初優勝。バンクスはようやく悲願のタイトルを手にした。

「イングランド銀行」鉄壁の防御

U-23代表で2試合に出場したあと、63年4月のスコットランド戦でフル代表デビュー。3年後に自国で行なわれるW杯優勝を託されたアルフ・ラムゼー監督は、新顔のバンクスに期待を寄せた。

64年の夏には、ブラジルサッカー連盟創設50周年を記念した大会(通称リトルワールドカップ)に招待され参加。初戦はトニー・ウェイターズがゴールを守り、地元ブラジルに1-5の大敗。第2戦からはバンクスが起用され、ポルトガルと1-1で引き分けたあと、アルゼンチンには0-1と惜敗した。

ここからバンクスがラムゼー監督のファーストチョイスとなり、65年夏の遠征試合ではハンガリー、ユーゴスラビア、西ドイツ、スウェーデンと対戦。バンクスは強豪相手の4試合で2失点しか許さず、代表正GKの座を確かなものにした。

66年7月、Wカップ・イングランド大会が開幕。バンクス、ボビー・ムーア、ジャッキー・チャールトン、ノビー・スタイルズらで構成するイングランドの守備陣は鉄壁。G/Lの3試合で1点も許すことなく、順当に決勝トーナメントへと駒を進める。

準々決勝のアルゼンチン戦はラフプレー続出の荒れた試合となったが、バンクスは冷静にゴールを守って1-0と完封。準決勝は初出場ながら快進撃を続けるポルトガルとの対戦となった。

前半30分にB・チャールトンのゴールで先制。後半79分にもB・チャールトンが「キャノン・シュート」で追加点を決め、イングランドが優位に立つ。だがその3分後、J・チャールトンの反則で与えたPKをエウゼビオに決められ1点差。今大会バンクスが初めて喫した失点だった。

しかしこのあとイングランドが逃げ切って2-1の勝利。自国優勝を目指す決勝への切符を手に入れた。

決勝は西ドイツとの対決。終盤まで2-1とリードして賜杯に手を掛けたイングランドだが、試合終了直前にFKの流れから西ドイツのゴールを許し同点。たまたま相手選手の背中に当たったボールが絶好のこぼれ球となるという、さしものバンクスも防ぎようのない不運の失点だった。

決勝は延長戦へ突入するが、ラッキーボーイとなったジェフ・ハースト「疑惑のゴール」で4-2の勝利。イングランドは自国で初のワールドカップを掲げた。6試合中4試合完封とほぼ完璧な守りを見せたバンクスは、名前を掛けた「イングランド銀行バンク」の異名を頂く。

ストーク・シティーへの移籍

バンクスがW杯で最高の活躍を見せたのにかかわらず、66-67シーズンの終盤にはレスター正GKの座から外されてしまう。バンクスからポジションを奪ったのは、当時まだ17歳のピーター・シルトン。のちにバンクスの後継者としてイングランド代表のゴールを20年間守り続け、47歳までプレーした鉄人キーパーである。

シルトンはレスターとプロ契約を交わす際、条件として第1キーパーの座を要求。クラブは有望株の成長を見込み、高値で売れそうなバンクスの放出を決めたのだ。シルトンは前シーズン終わりの5月に16歳でトップチームデビュー。皮肉なことに、レスターユースにいた若きキーパーの可能性を見いだしたのはバンクスだった。

シーズン終盤の67年4月、5万2千ポンドの移籍金でストーク・シティーへ売却。当時キーパーとしては破格の金額となった。バンクスはすぐにストークの守護神を任され、レスターとの試合で新チームデビュー。古巣に3-1と勝利して溜飲を下げた。

決して強豪とは言えなかったストークだが、バンクスの円熟味を増したプレーはチームに好影響を与え、毎シーズン安定した成績を残すことに大きく寄与する。

バンクス自ら「キャリア3大セーブ」と認めるビッグプレーは、このストーク時代に生まれたものである。ちなみに3大セーブとは、マンチェスタ・シティー戦の2本とトッテナム戦の1本。いずれも至近距離からのシュートを阻止している。

ブラジル戦「世紀のセーブ」

68年6月には、イングランドが初参加となった欧州選手権・決勝大会(イタリア開催、予選上位の4チームによるトーナメント戦)に出場。準決勝でドラガン・ジャイッチイビチャ・オシム擁するユーゴスラビアに0-1と敗れるも、3位決定戦でソ連を2-0と破ってW杯王者の面目を保った。

70年6月には、ディフェンディングチャンピオンの資格でWカップ・メキシコ大会に出場。もちろんイングランドの守護神を務めるのは、「世界最高のキーパー」ゴードン・バンクスだった。

G/Lの初戦はルーマニアに1-0の勝利。第2戦で優勝候補のブラジルと戦った。開始10分、ブラジルのジャイルジーニョが右サイドを高速ドリブルで駆け抜け、DFをかわしてファーサイドで待つペレに素早いクロス。完璧なヘッドで右隅に叩きつけたペレのゴールが決まったかに思えたが、逆を取られたバンクスが驚異の反応で方手一本のセーブ。ブラジルの先制点を阻止した。

だが後半59分にペレのパスからジャイルジーニョのゴールを許し、0-1の敗戦。それでもバンクスの美技は、ペレに「私が今まで見た中で最高のセーブだった」と言わしめ、「世紀のセーブ」と呼ばれるようになる。

無念の準々決勝敗退

第3戦でチェコスロバキアに1-0と勝利し、イングランドはブラジルに続く2位でベスト8進出。準々決勝は、前回ファイナルと同じ西ドイツとの顔合わせとなった。

しかし試合前日、現地のビールを口にしたバンクスが腹痛を起こして、西ドイツ戦の欠場を余儀なくされる。今大会では多くの選手が体調を崩していたが、旅行者を悩ませる腹痛は「モクステマの復讐」と呼ばれるメキシコ名物だった。モクステマとは、スペインに滅ぼされたアステカ帝国・ラストエンペラーの名前である。

バンクスに代わってゴールを守ったのは、チェルシーのピーター・ボネッティ。だがボネッティが世界の大舞台に立つのはこれが初めてと、世界No,1キーパーとの経験差は歴然だった。

試合は後半途中までイングランドが2点をリード、西ドイツ相手に優位に試合を進めた。しかし68分、ベッケンバウアーの放ったミドルシュートに、反応の遅れたボネッティがボールを素通りさせてしまい1点差。

さらに76分、シュネリンガーの山なりクロスにウーベ・ゼーラーがバックヘッド。ボールは中途半端に飛び出していたボネッティの頭上を越え、ゴールへと吸い込まれていった。

2-2の同点となってからは西ドイツのペース。延長108分にゲルト・ミュラーの決勝点を許し、2-3の敗北。バンクスの欠場が響き、イングランドは準々決勝敗退となってしまう。敗戦の責任を負ったボネッティは、二度とイングランド代表としてプレーすることはなかったという。

自身2つめのタイトル

バンクス率いるストークは、古巣のチェスターフィールドや強豪マンチェスター・ユナイテッドなどを下して、71-72シーズンFAカップの準決勝へ進出。だが準決勝のアーセナル戦では、疑惑のPK判定の前に敗戦。あと一歩優勝へ届かなかった。

だがリーグカップでは、準々決勝でマンチェスター・ユナイテッドと、準決勝ではウェストハムとそれぞれ2回の再戦を演じる(計6試合)という激闘を経て、2度目の決勝へ進出。準決勝ではジェフ・ハーストのPKをストップして勝利に寄与した。

72年3月にウェンブリー・スタジアムで行なわれた決勝はチェルシーと対戦。下馬評では過去2年でFAカップと欧州カップウィナーズ・カップのタイトルを獲得したチェルシー有利となっていた。

試合は開始5分にストークが先制するも、ハーフタイム直前に失点を喫し同点。後半はバンクスとボネッティの両キーパーが好守を連発し、白熱した展開となるが、73分についにストークが勝ち越し点。このあとチェルシーの猛反撃をバンクスが中心となって跳ね返し、2-1の勝利。ストークが念願の初タイトルに輝く。

優勝の立役者となり自身2つめのタイトルを得たバンクスは、同年のイングランド年間最優秀選手賞に選出。GKとしては2人目となる栄誉だった。

自動車事故による右目失明

FAカップ優勝の7ヶ月後、肩の治療を受けて自家用車で帰宅中のバンクスが、急カーブで追い越しをかけて対向車と激突。フロントガラスが粉々に砕け散り、バンクスの顔面と右目に突き刺さった。

病院に運ばれたバンクスは、最高の医療スタッフによる懸命の手当を受けるも、彼の視力が回復することはなかった。それでもバンクスは片目でのリハビリトレーニングを重ね、73年4月に代表復帰。しかし全盛期のパフォーマンスにほど遠く、公式戦へ出場することなく同年夏に現役引退を決意。代表の10年間で73試合に出場し、うち35試合で完封。敗戦を喫したのはわずか9試合だった。

引退後はストークユースのコーチを務めたが、77年にセント・パトリックス(アイルランドリーグ)で1試合だけプレー。これがきっかけとなり、4月に北米サッカーリーグ(NASL)のフォートローダーデール・ストライカーズからオファーを受けて39歳で現役復帰する。

G・ミュラーやジョージ・ベストなど、往年のスター選手を擁するストライカーズは77年シーズンのイースト・カンファレンスで優勝。ハンディキャップをものともせず26試合でゴールを守り、優勝に貢献したバンクスは、NASLの年間最優秀GKに選ばれた。

翌78シーズンは11試合に出場し、40歳で2度目の引退。そのあと英国に戻って指導者として活動を続け、00年2月にはストーク・シティーの会長に就任した。

15年には肝臓ガンを患っていることが公表され、数年の闘病生活を送ったのち、19年2月12日に家族に見守られながら永眠。享年81歳だった。

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