「 不運のシルバーコレクター 」 ミヒャエル・バラック ( ドイツ )
強靱なフィジカルと技術を備え、守備にも攻撃にも長けた万能タイプの大型MF。長身を活かした迫力のヘディングとパワフルなミドルシュートを武器とし、高い戦術眼と運動量でチームを統率。ベッケンバウアーの再来と言われ「クライナー・カイザー(小皇帝)」の異名で呼ばれたのが、ミヒャエル・バラック( Michael Ballack )だ。
カイザースラウテルンで頭角を現し、バイエルン・ミュンヘン、チェルシーといった強豪クラブで活躍。リーグ制覇や国内カップ優勝など、数々のタイトル獲得に中心的役割を果した。またドイツ代表でも主力を務め、06年W杯では旧東独出身の選手として初めてキャプテンを任されている。
しかしクラブでも代表でもビッグタイトルを逃し続け、レバークーゼン時代の02年にはブンデスリーガ2位、DFBポカール準優勝、チャンピオンズリーグ準優勝、日韓W杯準優勝。チェルシー時代の08年にはプレミアリーグ2位、リーグ杯準優勝、CL準優勝、ユーロ08準優勝と2度の「シルバー4冠」を経験。「シルバーコレクター」の肩書きが付いてまわった。
バラックは1976年9月26日、ポーランド国境にまたがる旧東ドイツ・ドレスデン(現ザクセン州)の町ゲルリッツに、東ドイツ3部リーグでプレー経験のある父と、水泳競技の元選手である母の間に一人息子として生まれた。ちなみにバラック家はゲルマン民族ではなく、西スラブ系の民族である。
父親はエンジニアの仕事をしており、息子の誕生後まもなくして一家は同じドレスデンのカール=マルクス=シュタット(現ケムニッツ)に移住。ミヒャエル少年は7歳で地元クラブへ入団し、本格的にサッカーを始める。
同年代の中でも突出した技量と、両足を使える能力を評価され、12歳でスポーツエリート養成学校の “KJS” に入学。ここで英才教育を受けながら、FCカール=マルクス=シュタット(90年の東西ドイツ統合後、ケムニッツFCに改称)のMFとして活躍。クラブユース選手権優勝などの実績を残し、19歳となった95年にプロ契約を結ぶ。
95年8月、ブンデスリーガ2部の開幕戦でプロデビュー。しかしデビュー1年目はレギュラーの座を掴めないまま15試合0ゴールの成績、下位に低迷したチームも3部リーグに降格した。
3部リーグでプレーした96-97シーズンは、レギュラーとして全34試合10ゴールの好成績。ケムニッツFCは2部リーグ復帰を果たせなかったが、活躍を認められたバラックは1部リーグの1.FCカイザースラウテルンに引き抜かれる。
古豪カイザースラウテルンは96-97シーズンに2部降格。新たに監督となったオットー・レーハーゲルがチームを立て直し、1年でトップリーグへ復帰していた。レーハーゲル監督は次代を担う若手としてバラックに目をつけたのだ。
トップリーグ1年目の97-98シーズンは16試合と出場機会が少なかったものの、主に守備の切り札として起用され、カイザースラウテルンのリーグ制覇に貢献。ブンデスリーガ1部に昇格したばかりのチームがいきなり優勝したのは、史上初となる快挙だった。
翌98-99シーズンはレギュラーに定着し、守備的MFとして30試合4ゴールの成績。大きさと技術と運動量を兼ね備え、中盤のポジションで守備に攻撃にと躍動。攻守でのオールラウンドな能力がベッケンバウアーになぞらえられ、「小皇帝」の異名で脚光を浴びるようになった。
そしてドイツ王者として出場したチャンピオンズリーグでは、チームの過去最高成績となるベスト4入りに貢献。これらの活躍により、近年の積極的な戦力強化で躍進を遂げたバイエル・レバークーゼンへの移籍を果す。
新しいチームでは攻撃的MFとして起用され、司令塔的役割を担う新境地で活躍。99-00シーズン、好調なチームは最終戦を残して首位に立ち、ついにレバークーゼンがブンデスリーガ初制覇に王手を掛けた。
しかし初のクラブタイトルという重圧に浮き足立ってしまったのか、引き分けでも優勝が決まる最終節ウンターハッヒング戦を、バラックのオウンゴールなどで0-2と不覚の敗戦。最終戦で3-1と勝利したバイエルン・ミュンヘンの逆転優勝を許してしまい、レバークーゼンは失意の2位に沈む。
00-01シーズンは監督を巡るゴタゴタもあってリーグ4位。だが翌01-02シーズンに盛り返し、リーグ戦では最終盤まで優勝争いをリードする。さらにDFBポカールは決勝に進み、チャンピオンズリーグも初の決勝に進出する快進撃。レバークーゼンは夢のトレブル(3冠)達成に近づいた。
だがリーグ戦では残り3試合で1勝2敗の成績。ボルシア・ドルトムントに優勝をさらわれ、またも無念の2位。DFBポカール決勝はシャルケに2-4と敗れ、これまた初優勝ならず。そして「銀河系軍団」レアル・マドリードと戦ったCL決勝は、名手ジダンに芸術的ボレー弾を叩き込まれて1-2の敗戦。3つともシルバーメダルに終わってしまった。
バラックは公式戦50試合23ゴールとキャリアハイの成績でチームを引っ張るも、ドイツ年間最優秀選手賞の個人タイトルを得たのみ。3つのチャンスすべてを逃したレバークーゼンは、「トレブルホラー」「ネバークーゼン」と皮肉をこめて呼ばれた。
ドイツU-21代表で19試合7ゴールと活躍したあと、99年4月のスコットランド戦でフル代表デビュー。2000年6月にはユーロ大会(ベルギー/オランダ共催)に出場するも、バラックは2試合60分あまりをプレーしたのみ。世代交代の低迷期にあったドイツは、0勝1分け2敗のグループ最下位。過去最悪の成績で敗退となった。
同年9月から始まったW杯欧州予選でレギュラーに定着するが、苦戦が続くドイツはホームのイングランド戦で1-5の歴史的大敗。それでもどうにかグループ2位を確保し、ウクライナとのプレーオフに臨む。
そしてアウェーでの第1戦を1-1と引き分けると、ホームでの第2戦は4-1の圧勝。バラックはプレーオフの2試合で3ゴールを挙げるなど、ほとんどの得点に絡む活躍でW杯出場決定の立役者となった。
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。初戦のサウジアラビア戦は、新鋭FWのクローゼがハットトリックの活躍。バラックも頭でゴールを決め、8-0の大勝を収める。続くアイルランド戦は、バラックの左足クロスをクローゼが頭で合わせて先制。しかし終了間際にロビー・キーンのゴールで追いつかれ、1-1と引き分けた。
第3戦もバラックのクロスからクローゼの得点が生まれ、カメルーンに2-0の勝利。ドイツはグループ1位でベスト16へ進む。
トーナメントの1回戦はオリバー・カーンを中心とした堅守でパラグアイを1-0と下し、準々決勝もバラックが頭で決めた先制点を、カーンが好セーブ連発で守ってアメリカに1-0の勝利。準決勝は地元で快進撃を続ける韓国との戦いになった。
持ち前の高さを活かして攻撃を仕掛けるドイツに対し、韓国は豊富な運動量と集中した守備で対抗。前半は互角の内容でハーフタイムを折り返す。
後半に入るとドイツの攻め込む時間が続くが、71分にミスから韓国の速攻を許し、李天秀がPエリアに迫るドリブル突破。ピンチの場面で背後から引っ掛けたバラックにイエローカードが出された。バラックはこれでトーナメント2枚目のイエロー、累積警告による次戦の出場停止が決まってしまう。
その4分後、右サイドをドリブルで抜けたノイビルがゴール前へクロスを送ると、後ろから走り込んだバラックがシュート。一度GKに阻まれるも、こぼれ球を素早く押し込んで決勝点。1-0と勝利したドイツが3大会ぶりの決勝へ進むが、殊勲弾を決めたバラックはその大舞台に立つことが出来なくなってしまった。
中盤の大黒柱を失ったドイツは、ブラジルとの決勝で0-2の敗戦。この年バラックは代表とクラブで4つものビッグタイトルを逃してしまう結果となった。
W杯終了後、ドイツの名門バイエルン・ミュンヘンへ移籍。レアル・マドリードからも好条件のオファーがあったが、クラブ会長ベッケンバウアーからのラブコールを受けての移籍だった。
バイエルンでもチームの中核となったバラックは、02-03シーズンのリーグ優勝とDFBポカール制覇のダブル(2冠)達成に貢献する。
03-04シーズンは主力の故障が頻発してタイトル無冠に終わるが、フェリックス・マガト監督が就任した04-05シーズンは態勢を立て直して2季ぶりのダブル達成。翌05-06シーズンも続けてダブルを成し遂げ、バイエルンは国内で無敵を誇った。
だがその一方、チャンピオンズリーグでは上位進出を逃し続けるなど停滞。肝心な試合でいまひとつパフォーマンスを発揮できないバラックに批判の目が向けられた。
その声はファンやマスコミだけではなく、クラブの幹部やOBから聞こえてくるものもあり、不満を募らせたバラックは契約満了をもっての移籍を決意。06年5月にプレミアリーグのチェルシーと新たな契約を結ぶ。
04年6月、ポルトガルで開催されたユーロ大会に出場。バラックは2度のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれるほか、チェコ戦でゴールを挙げるなど好調さを見せるも、攻撃陣が沈黙してしまい0勝1敗2分けの成績。グループ3位に沈み、2大会連続の予選リーグ敗退となってしまった。
ユーロ終了後、ユルゲン・クリンスマンが代表監督に就任。レギュラーを外されたオリバー・カーンに代わり、バラックが新キャプテンに指名された。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦はふくらはぎの故障で欠場を余儀なくされるも、地元ドイツはコスタリカに4-2と勝利して白星スタート。続くポーランド戦は後半ロスタイムにノイビルがゴールを決めて1-0の辛勝。戦線に復帰したバラックは守備に専念、中盤で相手のチャンスを潰した。
最終節でコスタリカに3-0と快勝し、グループ1位でベスト16進出。トーナメント1回戦でスウェーデンを2-0と退けると、準々決勝で南米の雄アルゼンチンと対戦する。
前半は互いに相手の出方を窺う慎重なゲーム運び、16分のクロスに合わせたバラックのヘディングシュートが唯一の見せ場だった。しかし後半に入った48分、リケルメのCKをアジャラが頭で押し込んでアルゼンチンが先制。この後アルゼンチンはドイツの反撃をかわし、終盤に入った70分過ぎにはリケルメとクレスポを交代させて逃げ切りにかかる。
だが二人の交代後アルゼンチンのリズムが単調となり、流れは徐々にドイツへ傾いた。80分、バラックが左サイドから上げた浮き球をボロウスキが頭で落とし、最後はクローゼが同点弾。試合は延長で決着がつかず、PK戦で勝敗が決まることになった。
先攻のドイツはバラックら4人全員が成功させ、守護神のレーマンがアルゼンチンの2本を止めて4-2。PK戦負け知らずのドイツが勝負強さを証明し、ベスト4進出。攻守で奮闘したバラックがマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。
しかし準決勝ではイタリアに0-2の敗北。バラックは満身創痍の体でピッチに立ち続けたものの、4年前の雪辱を果すことは出来なかった。故障を抱えるキャプテンは3位決定戦を欠場。ドイツはポルトガルに3-1と勝利し、開催国の面目を保った。
チェルシー移籍1年目の06-07シーズン、バラックは故障に苦しみながらも奮戦。FA杯優勝とリーグ杯優勝の国内カップ戦2冠に貢献する。だが07年4月に足首の手術を受け、07-08シーズンは前半戦のほとんどを欠場。それでも怪我から回復した後半戦は調子を取り戻し、CLでは汚名返上の殊勲弾を連発。クラブ初となるCL決勝進出に大きく貢献する。
リーグ戦でも優勝争いを演じるが、序盤のつまづきが響いて2位フィニッシュ。ライバル、マンチェスター・ユナイテッドの2連覇を許してしまう。2季連続で決勝に進んだリーグカップも、トッテナム・ホットスパーに1-2と敗れて準優勝。最後のチャンスとなるCL決勝に、タイトル獲得の望みを懸けた。
モスクワで行なわれたCL決勝は、マンチェスター・ユナイテッドとの同国対決。開始16分、C・ロナウドのゴールでユナイテッドが先制。だが前半終了直前にランパードのゴールで追いつき、1-1の同点でハーフタイムを折り返す。
後半は膠着状態が続き、試合は延長戦へ。延長戦でも決着とならず、CL決勝史上5度目となるPK戦にもつれ込んだ。先攻のユナイテッドは3人目のC・ロナウドが失敗。後攻のチェルシーは1人目のバラックら4人が続けて成功し、悲願の優勝が目前となった。
しかし5人目のテリーが立ち足を滑らせ、勝利を決めるはずのボールは無情にも枠外へ。サドンデスとなったPK戦はユナイテッド7人目のギグスが成功。チェルシー7人目、アネルカのキックはファン デルサールに止められてしまい、無念の結末。バラックのチームまたも準優勝に終わってしまった。
CL決勝の半月後には、ドイツ代表キャプテンとしてユーロ08(オーストリア/スイス共催)に出場。1勝1敗で迎えたG/Lの最終節、バラックが見事なFKを決めて地元オーストリアに1-0の勝利。グループ2位でベスト8に進んだ。
準々決勝はバラックのヘディングシュートなどでポルトガルに3-2の勝利。準決勝ではFKでポドルスキーの同点弾をアシストし、トルコを延長で3-2と破って3大会ぶりの決勝へ勝ち上がる。
だがスペインとの決勝は0-1の敗戦。今度も優勝に届かず、2度目の「シルバー4冠」を味わうことになった。バラックは次のW杯での雪辱を誓うが、10年5月のFAカップ決勝で重傷を負い、翌月に開催される南アフリカ大会への出場を断念。ここで彼の代表キャリアは終わり、12年間で98試合に出場、42ゴールの記録を残した。
チェルシーでは09-10シーズンのリーグ優勝とFAカップ制覇の2冠に貢献。しかしFAカップ決勝で負った怪我でパフォーマンスを落とし、10-11シーズンは古巣のレバークーゼンに復帰。ここで2シーズンをプレーしたあと、12年10月に36歳で現役を引退する。
ビッグクラブでリーグ優勝や国内カップのタイトルには恵まれたものの、CL優勝と代表での栄冠には届かず、最後まで「シルバーコレクター」の不名誉なレッテルを払拭することは出来なかった。
引退後は企業のイメージキャラクターを務めるほか、スポーツチャンネル “ESPN” の解説者として活動している。
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