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《 サッカー人物伝 》 パブロ・アイマール

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「 ガラスのゲームメイカー 」パブロ・アイマール( アルゼンチン )

最高のテクニックでボールを操り、キレのあるドリブルと天才的な閃きによるパスで好機を演出。エンターテインメントあふれるプレーで観る者を楽しませたゲームメイカー。その魅力的なスタイルでマラドーナに「高いお金を払っても見たいのは彼だけ」と言わしめたのが、パブロ・アイマール( Pablo César Aimar Giordano )だ。

名門リーベル・プレートでプロデビューを飾ると、プリメーラ・ディビシオンなど数々のタイトルを獲得。22歳のときに加入したバレンシアでも主力に定着し、トップ下でリーガ・エスパニョーラ(現ラ・リーガ)優勝とUEFAカップ(現EL)優勝に貢献。その後たび重なる怪我に苦しむが、08年に移籍したベンフィカで輝きを取り戻した。

97年のワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)では、リケルメ、サムエル、カンビアッソとともに優勝に貢献。02年の日韓W杯では不調に陥ったベロンの代わりにゲームメイカーを務め、G/L敗退となったが大いに可能性を見せた。しかし06年のドイツW杯ではリケルメとのポジション争いに敗れ、スーパーサブに終わった。

リーベル・プレートの天才少年

アイマールは1979年11月3日、アルゼンチン中央部にあるコルトバ州のリオ・クアルトに生まれた。父ロベルトは「バージョ(田舎者)」という愛称を持つ元サッカー選手で、息子のパブロも「パジート(小さなバージョ)」と呼ばれるようになる。

2つ下の弟アンドレス(ものちにサッカー選手)と一日中ボールを蹴って遊ぶ幼少期を過ごし、小学校に上がるとともに地元クラブのエストゥディアンテスに入団。たちまち天才少年としてその名が知れ渡っていった。

14歳のときには名門リーベル・プレートのスカウトに招待され、下部組織の練習に参加。その才能に惚れ込んだユースコーチから入団を勧められるが、父ロベルトはリーベルの誘いを断ってしまう。サッカー選手として成功しなかった父親はプロの厳しさを知り尽くしており、息子を別の道へ進めさせようとしていたのだ。

それでもリーベルのコーチは諦めることなくアイマール家に電話を掛け続け、トップチームの監督ダニエル・パサレラを動かしてまで熱心に説得を行なった。クラブの想いが通じたのが5ヶ月後。ついに家族も折れ、天才少年はサッカーの道へ進むことになった。

15歳でリーベルに入団したアイマールは下部組織で英才教育を受け、順調に成長して17歳となった95年にプロ契約。96年8月のコロン・デ・サンタフェ戦でトップチームデビューを果した。翌97-98シーズンは早くもレギュラーに定着し、プリメーラ・ディビシオン(1部リーグ)優勝に貢献する。

98-99シーズンはタイトルを逃すが、99-00シーズンは下部組織から昇格したばかりのハビエル・サビオラと息の合ったホットラインを組み、32試合13ゴールの好成績。31試合17ゴールを記録したサビオラと共に攻撃の中心となり、リーベルのリーグ優勝に大きく貢献する。

こうして欧州クラブからも注目されるようなったアイマールは、シーズン途中の2001年1月にスペインの古豪バレンシアと契約。クラブ史上最高となる24億円の移籍金が支払われ、8年の長期契約が結ばれるという大きな期待を背負っての欧州挑戦だった。

バレンシアの司令塔

当時のバレンシアは、99-00シーズンのリーグ3位、チャンピオンズリーグ準優勝など、スペイン2大クラブのレアルとバルサにも迫る勢いを見せていたチーム。

憧れだったスペイン代表のMF、ルイス・エンリケと同じ背番号21をつけたアイマールは、リーガデビューとなった01年2月のラス・パルマス戦で初ゴールを記録。すぐにトップ下でゲームメイクを任され、2年連続のCL決勝進出に貢献する。

決勝の相手はドイツの強豪バイエルン・ミュンヘン。開始わずか3分、メンディエータのPKでバレンシアが先制。このままハーフタイムを折り返すと、逃げ切りを図るクーペル監督は後半開始直後にトップ下のアイマールを下げて守備的MFのアルベルダを投入する。

だがこの消極策が裏目となり、51分にPKで追いつかれても攻撃への切り替えが出来ず、膠着状態となった試合は延長戦へ。双方得点は生まれずPK戦へともつれるが、7人目のペジェグリーノがオリバー・カーンに止められ決着。バレンシアはまたもビッグタイトルを逃すことになった。

01-02シーズンは辞任したクーペルに代わってラファエル・ベニテスが監督に就任。トップ下を置かずサイド攻撃を基調とするベニテス監督の方針により、サイドやFWに起用されるようになったアイマールは、なかなか本領を発揮できずにいた。

そんな状況に行き詰まりを感じ、堪らずベニテス監督へ直訴。そしてようやくトップ下に起用されると、水を得た魚のような働き。抜群のテクニックとボールコントロールでゲームを操り、左サイドのビセンテとともに攻撃陣を活性化。バレンシア31シーズンぶり5度目の優勝に大きく貢献する。

日韓W杯の新星

早くからアンダー世代代表で活躍したアイマールは、リケルメ、サムエル、カンビアッソらとともに97年の世界ユース選手権優勝に貢献。南米ユース選手権では97年と99年大会で連覇を果し、ユース代表の主力として活躍した。

フル代表には99年6月9日のメキシコ戦で19歳にして初キャップを刻む。同月29日からパラグアイで開催されたコパ・アメリカのメンバーにも選ばれるが、トップ下に抜擢されたリケルメのバックアップ要員としての扱い。アイマールは1試合も出場することなく、初のシニア国際大会(準々決勝敗退)を終えた。

それでもW杯南米予選のパラグアイ戦で代表初ゴールを記録するなど実績を積み、バレンシアでの活躍と合わせて02年日韓大会のメンバーに選出。一方ライバルのリケルメは、その古典的スタイルがマルセロ・ビエルサ監督に敬遠されるようになり、選出外となっていた。

02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。充実した陣容を揃え、圧倒的強さで南米予選を突破したアルゼンチンは、前回王者のフランスと並ぶ優勝候補と目された。G/Lの初戦は、アフリカの雄ナイジェリアを1-0と撃破。アイマールは後半78分、司令塔ベロンと交代してのW杯初出場を果す。

第2戦は、前大会の因縁が残るイングランドとの対戦。G/Lで最も関心を集めた注目のカードだった。体をぶつけ合う激しい攻防戦が繰り広げられた前半の44分、DFボチェッティーノがオーウェンを倒してPK。これを前回対戦の雪辱に燃えるベッカムに決められ、リードを許したままハーフタイムを折り返した。

アルゼンチンは後半開始から、足首を負傷したベロンに代わってアイマールを投入。そのあともクレスポ、クラウディオ・ロペスと次々に攻撃の駒を送り込んで反撃を試みるも、ゴール前を固めるイングランドの必死の抵抗に遭い、0-1の敗戦を喫する。

グループ突破を懸けた最終節は、北欧の雄スウェーデンとの戦い。ビエルサ監督は不調のベロン代わり、運動量に優れたアイマールを起用。その狙いは当たり、右サイドのオルテガ、左サイドのC・ロペスとの再三のポジションチェンジで相手を翻弄。攻撃の3人を中心に圧倒的にボールを支配した。

しかしスウェーデンの高い壁に好機を阻まれ、後半の59分にはセットプレーから失点。終了直前の88分にPKのこぼれ球を押し込んだC・ロペスのゴールでようやく追いつくが、猛攻実らず1-1の引き分け。アルゼンチンはグループ3位に沈み、優勝候補は早々と姿を消した。

ガラスのゲームメイカー

02-03シーズンも31試合8ゴールの好成績、チャンピオンズリーグでもACミランのルイ・コスタとトップで並ぶ5アシストを記録した。アイマールはバレンシアのアイドルとして人気を博すも、彼のファンタジックなプレーはタイトルに繋がらず、リーグ戦では5位。チャンピオンズリーグは準々決勝敗退と無冠に終わる。

それでも翌03-04シーズンは盛り返し、リーグ優勝を奪回。UEFAカップも快調に勝ち上がり、決勝でマルセイユを2-0と下して初優勝。翌04年には欧州スーパーカップも制した。

しかしこの頃から深刻な怪我に苦しむようになったアイマールは、シーズン終盤とUEFAカップ決勝を欠場。恥骨炎の痛み止めを打ちながら出場したリーグ戦は、25試合4ゴールの成績に終わった。170㎝の華奢な体は、タフな戦いが続くリーガ・エスパニョーラで悲鳴を上げてしまったのだ。

04-05シーズンは、リバプールに引き抜かれたベニテス監督に代わり、クラウディオ・ラニエリ監督が6シーズンぶりにバレンシアへ復帰。すると守備のリアリズムとハードワークを重視する新監督により、トップ下のポジションを奪われベンチ要員に甘んじる日々。活躍の機会は減っていった。

ラニエリ監督は成績不振でシーズン途中の解任となるも、度重なる故障でコンディション不良が続くアイマールのパフォーマンスは元に戻らなかった。

05-06シーズンは32試合5ゴールとやや持ち直すが、キケ・フローレス新監督との折り合いが悪く、アイマールは6シーズンを過ごしたバレンシアの退団を決意。攻撃的なスタイルを標榜するビクトル・フェルナンデス監督が率いるサラゴサへ移籍する。

アルゼンチン代表のスーパーサブ

日韓W杯の好パフォーマンスで次世代の司令塔候補と期待されたアイマールだが、04年から代表を率いるホセ・ペケルマン監督は、抜群のボールキープと展開力に優れたリケルメを重用。アイマールは交代の切り札という役割を脱却できずにいた。

05年6月には、W杯のプレ大会となるドイツ開催のコンフェデレーションズカップに出場。アイマールはスーパーサブとして起用され、アルゼンチンの決勝進出に貢献。決勝のブラジル戦は4-0とリードされた後半の56分に投入されると、その10分後には一矢を報いるゴールを記録。準優勝に終わったものの意地を見せた。

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/Lの初戦はコートジボワールと対戦。前半24分にリケルメのFKからクレスポが先制点を挙げると、38分にはリケルメのスルーパスを受けたサビオラが追加点。コートジボワールの反撃をドログバの1点に抑え、2-1の勝利を収める。

メッシとテベスが初お目見えした第2戦は、セルビア・モンテネグロに6-0の圧勝。消化試合となった最終節は数名の主力を温存し、オランダと0-0の引き分け。アルゼンチンは余裕の1位でグループを突破した。

ここまでアイマールの出番は、途中出場の2試合のみ。いずれも勝負が見えてきたゲーム終盤、リケルメに代わっての登板だった。

トーナメントの1回戦はメキシコと対戦。1-1で折り返した後半の75分過ぎ、アルゼンチンはクレスポとカンビアッソに代えてテベスとアイマールを投入。さらに84分には、サビオラに代わりメッシが登場。ここにリケルメ、アイマール、メッシの豪華共演が実現した。

延長に突入した試合は、98分にマキシ・ロドリゲスが強烈なボレーシュートを叩き込んで勝ち越し弾。アルゼンチンが2-1と接戦をモノにし、準々決勝へ進んだ。

準決勝は開催国のドイツと対戦。強豪同士の戦いは、お互いに相手の出方を窺う慎重な試合運び。だがスコアレスで折り返した後半の49分、リケルメのCKをアジャラが頭で押し込んでアルゼンチンが先制する。

逃げ切りにかかるペケルマン監督は72分にリケルメを下げ、守備固めのカンビアッソを投入。しかし80分にクローゼのゴールで追いつかれ、延長120分を経てPK戦での勝負。アジャラとカンビアッソのキックが止められ、アルゼンチンは惜しくも敗退となった。早い時間に交代枠を使い果たしてしまい、攻めの切り札であるアイマールとメッシを投入できなかったのが痛かった。

ベンフィカで取り戻した輝き

サラゴサの1年目となる06-07シーズン、アイマールはチームの中核となり、31試合5ゴール6アシストの成績でUEFAカップ出場権の得られる6位確保に貢献。同胞のアンドレス・ダレッサンドロ、ディエゴ・ミリート、スペインのアルベルト・サパテル、ブラジルのエルベルトンらで織りなす超攻撃的スタイルは、リーガに旋風を起こした。

しかし攻撃に偏重したサッカーは次第にチームバランスを崩していき、アイマールの負傷もあって07-08シーズンは18位と低迷。2部降格となったサラゴサは財政的余裕がなく、アイマールは放出されることになった。

そこへ救いの手を差し伸べてきたのが、引退後にベンフィカ・リスボンでテクニカルディレクターを務めていたルイ・コスタだった。アイマールはすでにピークを過ぎた選手だと思われており、獲得を疑問視する声も多かったが、ルイ・コスタは「彼は現代サッカーに残る最後の10番だ」と反対を押し切りクラブ会長を説得。アイマールの移籍を実現させた。

しかしベンフィカでも相変わらず故障に苦しみ、1年目の08-09シーズンは22試合1ゴールと期待を裏切る成績。追い込まれたアイマールは、これまでおざなりにしていたフィジカル強化に取り組んだ。

09-10シーズンは盟友のサビオラが加入。肉体改造でコンディションを取り戻したアイマールは、サビオラとのホットラインで攻撃陣を牽引。25試合4得点11アシストの活躍で、リーグ制覇と国内カップ優勝の2冠達成に大きな役割を果し、みごと新天地で輝きを取り戻した。

故障に苦しみ続けた現役生活

07年のコッパ・アメリカ以降しばらく代表から遠ざかっていたアイマールだが、09年にマラドーナ監督に呼ばれて約2年ぶりの復帰。10月のW杯南米予選・ペルー戦では2アシストを記録し、2-1の勝利に貢献する。

しかし10年W杯・南アフリカ大会にはメンバー落ちし、3大会連続出場は叶わず代表キャリアを終えた。実質10年の代表歴で52試合に出場、8ゴールを記録した。

ベンフィカでは5シーズンを過ごし、13年9月にはマレーシアのタクジムFCへ移籍。だが故障がちで満足なプレーが出来ないまま14年4月に退団。8ヶ月のフリー期間を経て古巣のリーベル・プレートに復帰するも、1試合に出場しただけで15年7月に35歳で現役を引退する。

引退後は指導者の道に進み、17年6月にはアルゼンチンU-17代表の監督に就任。18年3月からフル代表のアシスタントコーチを兼任している。

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