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ヌーベルバーグの旗手 ジャン=リュック・ゴダール監督死去

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仏ヌーベルバーグを代表する監督

フランス・ヌーベルバーグを代表する監督で、『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などの作品で世界の映画人に大きな影響を与えたジャン=リュック・ゴダールさんが13日、スイス西部の自宅で死去したことが遺族から発表された。

フランス新聞紙の報道では、死因は病気などではなくスイスで認められている安楽死。関係者によるとゴダールさんは「疲れ切っていた」そうで、“死を選んだ人” が医師処方の薬物を自ら使用する「自殺幇助ほうじょ」によって命を絶ったという。

同志であるフランソワーズ・トリュフォーやクロード・シャブロルといった、ヌーベルバーグ主要監督のほとんどが亡くなっており、ゴダールさんは「最後の巨匠」と呼ばれていた。享年91歳。

世界の映画人に与えた大きな影響

1930年生まれのパリ出身。父親は医者で母親はスイスの著名な銀行家一族の出、両親とも敬虔なプロテスタントだった。

第二次世界大戦中はナチス・ドイツに占領された故郷を離れてスイスに暮らし、レマン湖湾岸にあるニヨンの中等学校に通った。

終戦後は母国に戻り49年からはソルボンヌ大学で民俗学を学ぶが、50年頃からカルチェ・ラタンのシネマクラブ通いを始め、シネマテークの常連となってトリュフォー、エリック・ロメール、アンドレ・バザン、ジャック・リヴェットらと知り合う。

51年にはバザン編集の『カイエ・デュ・シネマ』が創刊され、執筆陣として参加。両親は49年頃に離婚し、54年には母親が自動車事故で死去。同時期にスイスのダム建設現場の労働に従事して資金を稼ぎ、短編処女作の『コンクリート作業』を脚本・監督する。

その後トリュフォーとの共同で数本の短編を撮り、59年にはジャン=ポール・ベルモンド主演による初の長編作品『勝手にしやがれ』を発表。手持ちカメラを使った即興的な演出と、既存の映画文法にとらわれない斬新な編集が評判を呼び、高い評価を受けた。

そこから『いとこ同士』(58年)のシャブロル、『大人は判ってくれない』(59年)のトリュフォーとともにヌーベルバーグと呼ばれるシネマ革新運動を先導、世界の映画作家に大きな影響を及ぼした。その影響は日本でも顕著で、60年には大島渚、吉田喜重、篠田正浩らによる “松竹ヌーベルバーグ” の潮流が巻き起こっている。

政治運動への傾倒

61年、長編第2作『小さな兵隊』で主演したアンナ・カリーナと結婚。彼女とのコンビで『女は女である』(61年)『女と男のいる舗道』(62年)『はなればなれに』(64年)『アルファビル』(65年)などの作品を発表する。

65年には再びベルモンドを主演に迎え、カリーナと共演させた『気狂いピエロ』を監督。より洗練された “ゴダールスタイル” が大きなセンセーションを呼び、ヌーベルバーグを代表する1作となった。だがこのあと、俳優のジャック・ペランと浮気したカリーナとは離婚している。

秩序だったストーリーを嫌い、時に俳優に自分自身の言葉で喋らせる大胆な手法は『男性・女性』(66年)以降その傾向が強まり、67年には左翼運動に影響を受けた政治討論映画『中国女』を発表。“文化大革命” 真っ只中の毛沢東主義に傾倒し、作品は政治色を増していった。

68年5月には学生たち若者の主導する「五月革命」が全土を席巻。その渦中に行なわれたカンヌ国際映画祭にトリュフォー、シャブロル、クロード・ルルーシュとともに会場に乗り込み、セレブの祭典の粉砕を叫んで、結局この年の授賞式を中止に追い込んでいる。

晩年まで続いた創作活動

しかしあまりにも政治的に偏向してしまったことから、映画仲間との方向性の違いが鮮明となり、ヌーベルバーグの時代も衰退へ向かっていった。ゴダールはこのあと製作会社「ソニマージュ」を設立。テレビ向けビデオ作品での政治的メッセージ発信が活動の中心となった。

79年、『勝手に逃げろ/人生』で映画界復帰。かつてのような大胆な映画手法は陰をひそめ、83年の『カルメンという名の女』ではヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞。それでも授賞式では「私が死ぬときに映画も死ぬ」と名セリフを吐き、ゴダール節健在をアピールした。

その後も精力的に作品を発表し続け、2000年代になってからも3Dデジタルで撮影した『さらば、愛の言葉よ』(14年)『イメージの本』(18年)などを監督。晩年まで創作意欲は衰えなかった。

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