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《 サッカー人物伝 》 ルート・ファン ニステルローイ

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「 ペナルティエリアの密猟者 」 ルート・ファン ニステルローイ ( オランダ )

188㎝の長身を活かしたヘディングと、スピードあふれるプレーを持ち味とした多彩なCF。柔らかなトラップで素早くシュートに持ち込み、左右の足から得点を決めた。ペナルティエリア内では抜群のポジショニングでゴールを仕留め、相手を出し抜く動きで「密猟者」と呼ばれたのが、ルート・ファン ニステルローイ( Rutgerus Johannes Martinus van Nistelrooij )だ。

FCデン・ボッシュで頭角を現し、PSVアイントホーフェンで大きく飛躍。2年連続得点王の活躍でリーグ優勝に貢献した。その後移籍したマンチェスター・ユナイテッドやレアル・マドリードといったビッククラブでも活躍。3つのリーグでトップスコアラーとなった。またCLの大舞台に強く、3大会で得点王に輝いている。

代表では同い年のFWであるクライファートの陰に隠れていたが、ユーロ04では4ゴールを挙げてオランダのベスト4入りに貢献。06年ドイツW杯はエースの期待を背負うも、ファン バステン監督と対立。1得点を挙げるにとどまった。

ストライカーへの転身

ファン ニステルローイは1976年7月1日、オランダ南部に位置するアイントホーフェン近郊の町オスに生まれた。

父親は放射線技師、母親は専業主婦という一般的な家庭で育ち、6歳のとき、当時暮らしていた田舎町ヘッフェンのクラブに入団。少年のズバ抜けた運動能力は田舎の小さなクラブで収まらなくなり、12歳になると、隣町であり出生地でもあるオスのRKSVマグリートへ移籍する。

マグリートでは攻撃的MFとしてプレー。そのスピードと突破力のあるドリブルが認められ、オランダ2部リーグに所属するFCデン・ボッシュに移籍。ユース期間を経て17歳でプロ契約を結び、94年5月にトップチームデビューを果す。

有望な若手選手と期待されたファン ニステルローイだが、いまひとつ伸び悩んでベンチを温める日々。そんな彼に転機が訪れたのは、プロ4年目となる96-97シーズン。シャドーストライカーとしての役目を与えられると、31試合で12ゴールを挙げてチーム得点王の好成績。その活躍により、エールディヴィジ(1部リーグ)所属のSCヘーレンヘーンと契約する。

へーレンヘーンではセンターFWとしての起用を告げられるが、攻撃的MFへのこだわりが捨てきれないファン ニステルローイは、デ・ハーン監督に「いやいや僕は生粋のMFだ、10番としてプレーするのが好きなんです」と難色を示した。

それでもデ・ハーン監督は「君はストライカーに向いている」と粘り強く説得。幾度かの話し合いを経てCFへの転向を決意したファン ニステルローイは、憧れるベルカンプのプレービデオに学びながらシュート技術を磨く。

そしてエールディヴィジの1年目となる97-98シーズン、公式戦36試合で16ゴールを挙げてストライカーとしての才能を実証。その活躍が名門クラブに注目され、当時国内最高額となる移籍金でPSVアイントホーフェンに引き抜かれる。

マンチェスター・ユナイテッド移籍

移籍1年目の98-99シーズン、いきなり34試合で31得点を記録してリーグ得点王を獲得。オランダ年間最優秀選手賞にも輝く。翌99-00シーズンも快調に得点を重ね、右膝の故障で終盤の1ヶ月を欠場しながらも、29ゴールを挙げて2年連続の得点王とMVPを獲得。PSV3季ぶりのリーグ制覇に大きく貢献した。

これらの顕著な活躍でファン ニステルローイの名は国外に知られ、PSVの優勝直後にイングランドの強豪マンチェスター・ユナイテッドへの移籍が発表される。

だがシーズン終了を目前にした00年4月28日、練習中に再び右膝を痛めて前十字縦靱帯断裂の重傷。ユーロ2000の出場は絶望的となり、ユナイテッドへの移籍も一旦白紙に戻された。

それでもオランダのストライカーを高く評価するアレックス・ファーガソン監督は、「君の復活を待つだけだ」とメッセージ。ファン ニステルローイはその言葉を信じて懸命のリハビリを重ね、約11ヶ月後のローダーJC戦で復帰。クラブの反対を押し切ったファーガソン監督の尽力により、01年4月27日にユナイテッドとの契約が成立した。

同い年のライバル、クライファート

オランダ代表には98年11月のドイツ戦で22歳にしてデビュー、翌99年4月のモロッコ戦で初ゴールを記録する。

当時代表のエースを務めていたのは、ファン ニステルローイと生年月日が全く一緒のクライファート。身長はともに188㎝で、体重もほとんど同じ。共通点の多い二人だったが、アヤックス・アカデミーのエリートとして10代の頃から活躍していたクライファートと、地方の小クラブからのし上がってきたファン ニステルローイ。その歩みは正反対で、相性も仲も良くなかった。

それでも自国開催ユーロ2000(ベルギーと共催)での2トップ共演が期待されたが、大会を間近にして右膝前十字靱帯断裂の重傷。大会5ゴールを挙げてオランダをベスト4に導いたクライファートの活躍を、外野から見届けるしかなかった。

01年の春には代表復帰を果し、W杯欧州予選では6ゴールを挙げて復活ぶりをアピール。プレーは噛み合わないものの、5ゴールを記録したクライファートとともに得点源となった。

しかし同組のライバルであるポルトガルにはホームで0-2と敗れ、アイルランドにもアウェーで星を落とすなどの大苦戦。オランダはグループ3位に沈み、プレーオフにさえ進めず予選敗退。02年日韓大会の出場は叶わなかった。

アンリとの得点王争い

ユナイテッドの1年目である01-02シーズン、ファーガソン監督の期待に応えて得点を量産。プレミアリーグのタイ記録となる8試合連続ゴール(15年にレスターのジェイミー・バーディによって更新)を達成し、開幕前は決して高くなかった評価を急上昇させた。

しかし24ゴールを挙げたアンリに1点及ばずゴールランキングは2位。チームも同時加入のベロンが大誤算となり、アーセナルに優勝をさらわれリーグ3連覇を逃してしまう。

チャンピオンズリーグもバラック率いるレバークーゼンに敗れてベスト4に留まるが、10得点を挙げたファン ニステルローイは大会得点王。その活躍により、アンリを差し置いてのPFA(プロ選手協会)年間最優秀選手賞に選ばれる。

02-03シーズンは序盤にもたつくも、3つのハットトリックを決めてスパートを掛けると、ラスト8試合で13ゴールの大爆発。最終的にアンリを1点差でかわし、25得点を記録してプレミア初の得点王。リーグ優勝もアーセナルから奪い返した。そしてベスト8に終わったCLは、9試合連続ゴールを記録して12得点。2年連続の大会得点王に輝く。

さらにFAカップも4ゴールで得点王。プレミアのタイトルを独占したファン ニステルローイは、リーグMVPとUEFAベストストライカーに選出。優れたポジショニングセンスと相手を出し抜く動きでメディアから「密猟者」と呼ばれ、ライバルのアンリと世界最高FWの座を争った。

闘うフォワード

しかし翌03-04シーズン、精度の高いクロスを配給していたベッカムが、ファーガソン監督と衝突してレアル・マドリードへ移籍。それでも20ゴールと高いレベルを保つが、30ゴールを記録したアンリに大きく引き離されての得点ランキング3位。リーグ戦もアーセナルの無敗優勝を許してしまった。

シーズン前半の天王山となったホームでのアーセナル戦では、0-0で迎えた終盤にPKを外した直後、DFマーティン・キーンに挑発され両者入り乱れての乱闘騒ぎ。ヴィエラとはヒートしたマッチアップを繰り広げて退場に追い込むなど、「オールド・トラッフォードの闘い」と呼ばれる悪名高い試合の主役となっている。

04-05シーズンは、再び重傷を負って17試合6ゴールと不本意な成績。それでもCLでは8得点を挙げ3度目の大会得点王。ユナイテッドのレジェンドであるデニス・ローの持つ欧州大会・クラブ最多得点記録(通算28ゴール)を更新する。

05-06シーズン、得点王アンリの27ゴールに続く21ゴールを挙げて復活の狼煙のろし。しかし20歳のC・ロナウド、19歳のルーニーと二人の新鋭が台頭。フランス人FWルイ・ハサとの併用でベンチを温めることも多くなり、起用法を巡ってファーガソン監督と対立する。

またボールを持ちすぎてパスを回さないC・ロナウドをあからさまに批判し、孤立を深めたストライカーは監督によって移籍リストに載せられてしまう。そして06年7月、レアル・マドリードへの移籍が発表。だがのちにファン ニステルローイはファーガソンに謝罪し和解している。

オランダ代表のエース

04年6月、初の代表国際舞台となるユーロ04(ポルトガル開催)に出場。G/Lの初戦はドイツに先制を許すも、終盤の81分にファン ニステルローイがボレーを叩き込んで同点。貴重な勝点1を得た。

続くチェコ戦はファン ニステルローイの2ゴールなどでリードするが、怒濤の反撃に遭い2-3の逆転負け。最終戦はファン ニステルローイが2得点を挙げてラトビアに3-0の勝利。オランダはグループ2位で決勝トーナメントに進んだ。

準々決勝でスウェーデンをPK戦で下し、準決勝では地元ポルトガルと対戦。前半26分にデコのCKからC・ロナウドの先制点を許し、後半58分にも2失点目。63分にオウンゴールで1点差とするも、追撃及ばず1-2。ベスト4敗退となってしまった。

この大会でクライファートからエースの座を奪ったファン ニステルローイは、5試合すべてに先発出場して4得点。大会ベストイレブンにも選ばれる。一方のクライファートはベンチ入りしながら1試合も出場することはなく、これ以降代表からも姿を消した。

同年8月からはW杯欧州予選が開始。ユーロ04後に就任したファン バステン監督は、ファン ニステルローイをワントップに据えて10勝2分け0敗の快進撃。同組のライバルであるチェコを大きく引き離し、2大会ぶりのW杯出場を決めた。ファン ニステルローイは予選7ゴールを記録、みごとエースの役割を果す。

不完全燃焼に終わったワールドカップ

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/Lの初戦はセルビア・モンテネグロの屈強なDFに阻まれ、ファン ニステルローイは前線で孤立。それでも好調ロッベンの活躍で1-0と勝利する。

第2戦はアフリカの新興コートジボワールと対戦。前半23分、ファン ペルシーが自ら得たFKを決めてオランダが先制。その4分後には、ロッベンのスルーパスからファン ニステルローイが追加点を挙げる。このあと相手の反撃を1点に抑えて2-1の勝利。オランダは早々とグループ突破を決めた。

最終節のアルゼンチン戦は主力数人を温存。ファン ニステルローイは3試合連続で先発するが、プレーに精彩を欠いて1本もシュートを放つことなく、後半56分に交代。試合は0-0で引き分け、オランダはアルゼンチンに続くグループ2位で決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦の相手はポルトガル。強豪との対戦に臨むファン バステン監督は、ここまで調子の上がらないファン ニステルローイを先発から外した。

試合はイエローカード16枚、レッドカード4枚が飛び交う荒れ模様となり、攻撃の空回りしたオランダが0-1の敗戦。最後までベンチで戦況を見つめていたファン ニステルローイは、監督と目を合わせることなくスタジアムを後にした。

このあと国際マッチへの招集を拒み続け、ファン バステンと和解した07年に2月に代表復帰。次のW杯出場に意欲を見せるも、南アフリカ大会のメンバー選考からは漏れてしまう。

11年にはユーロ予選に参加するも、ユーロ2012の本大会は落選。ファン ニステルローイはこれを持って代表引退を発表する。14年間の代表歴で70試合に出場、35ゴールを記録している。

欧州主要3リーグの得点王

レアル1年目の06-07シーズン、リーグ第2戦でハットトリックを記録するなど好調な出足。そのあとも7試合連続ゴールとウーゴ・サンチェスに並ぶリーグ記録を打ち立て、37試合25ゴールの成績でリーガ得点王。レアル4季ぶりの優勝に貢献するとともに、欧州主要3リーグ得点王の偉業を成した。

CLではバイエルン・ミュンヘンに敗れてノックアウトステージ1回戦敗退となるも、この大会に強いファン ニステルローイは7試合に出場して6ゴールを記録。ACミランのカカに続く得点ランキング2位となった。

翌07-08シーズン、足首の手術を受けて24試合の出場にとどまるが、16ゴールを挙げてチームのリーグ2連覇に貢献。08-09シーズン、今度は古傷の右膝を痛めてしまい、内視鏡検査を受けて半月板、中靱帯、膝軟骨の損傷が判明。アメリカで手術を行なうこととなり、シーズンの大半を棒に振る。

09-10シーズンは復帰戦でゴールを決めるも、その試合で大腿部を痛めて長期離脱。復帰後も出場機会は与えられず、シーズン途中の10年1月にレアルとの契約を解除。ドイツのハンブルガーSVと1年半の契約を結ぶ。

しかしハンブルガーでもかつてのパフォーマンスを取り戻すことなく、契約満了後の11年6月にスペインのマラガCFへ移籍。ここで1シーズンを過ごし、12年5月に35歳で現役を引退する。

引退後の14年3月、オランダ代表のアシスタントコーチに就任。フース・ヒディンク、ダニー・ブリントと2人の監督を補佐した。

その後、古巣PSV下部組織のコーチングスタッフを務め、22年の春から3年契約でトップチームの監督に就任。7月30日に行なわれたヨハン・クライフ・スケール2022(オランダ・スーパーカップ)では、カップ戦王者のPSVがリーグ戦王者のアヤックスを5-3と破り優勝。さっそく監督としての初タイトルを得ている。

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